玄関先で顔を合わせるなり、あれは何だと息巻いた。 相手は知らぬ者などない英国のヒーローだが、怒気に身を包んでいる姿は極東の伝統芸術を髣髴とさせた。 黄金色の光を湛えて、その目がぎんぎんと殺気立っていることを認めながら、敢えて冷静さを保ちながら話を受けた。 本来は気の合う同士だが、喧嘩腰になっている人間の言い分をまともに取り合うつもりはない。 「中に入るつもりなら、ドアを閉めて入ってくれ」 でなければさっさと出て行けと言うかのように、背を向けたまま返答する。 立ち戻った先は、窓際に備え付けられた粗末な机だ。その上には愛用のノート型コンピュータがある。不意の来訪を告げられるまで、キーを打つ音が部屋を満たしていた。 自身が立腹している用件では同居人の気を引けないことに業を煮やしつつ、来訪者は土足のままずかずかと居間へ乗り込んできた。当然、靴を脱がないことは常習に反してはいない。 「外に出ているあの荷物はどう見ても、全部俺のものだろう」 元いた場所に居場所を定めた家主は、蒼いマスクの超人の言わんとしていることに思い至り、そんなことかと紅い視線を巡らせた。 椅子の背もたれごとくるりと背後を振り返り、組んだ足を崩すことなく胸の前で腕を交差する。 「もう必要はないだろうと思ったので、近くの孤児院へ寄付しようと考えていたんだが」 率直に自分の考えを述べる。考えてみれば、行動に出るのが遅すぎたと言えなくもない。今まで思いつかなかったのは、単に存在を忘れていただけなのかもしれない。間違っても、わざわざ見せつけるために時期を遅らせたのではない。 台詞に微塵も悪意のないことが、向かい合った側の頭を更に混迷の渦へと突き落としたようだ。 「半月不在だっただけで『用無し』は、行き過ぎじゃないのか!?」 たったそれだけの日数で、もう用がないと思われたのか。 激しい剣幕でまくし立てているにも関わらず、怒ることにどこか遠慮がある。遠出をしたことに対する自責の念ではなく、自論だけでは適わないだろうことをある面で諦観しているような口振りだった。 とはいえ、元住人は昔から大人しく食い下がる方ではなかった。そんなことは、数ヶ月という短い付き合いであっても充分に承知している。 「俺は英国へ出かけはしたが、帰ったつもりはこれっぽっちもないぜ」 両手に抱えていた大きな荷物を床に放り出し、大柄な男は許しもなくソファに座り込んだ。客ではなく、今もまだ住人としての権利があると主張しているような傲慢な態度だ。 人並み以上の重みにぎしりとスプリングが軋み、あからさまな溜め息が厳めしいマスクから吐き出された。 「それともおまえは、俺に帰って来てほしくなかったとでも言うのか?」 我が物顔でソファに持たれ込んだにも関わらず、ぼそり、と低い声が逞しい肩越しから漏れる。失望ほど深刻ではないだろうが、落胆しているのは沈んだ声音からも窺える。 ケビンが祖国へ戻ったのは、何も好き好んでというわけではない。ビザの期限が切れるため、一度実家へ戻れと催促されたのだ。しかし、いつ頃帰るかという期間を明確にしていなかったため、もう二度と戻らないのだと誤解を受けても仕方がないと思ったのだろう。それ以上に、自身が必要とされていないことを目の当たりにして傷ついたのだ。 クロエとて、身体や思考に血が通っていないわけではない。行為や言葉の裏に潜んでいる相手の意図を理解することはできたが、自身が果たすべき役割が明らかである以上、期待に応えることはできなかった。 「本音を言えば、そうなる」 だろう、でも、な、でもなく、断定の意味で述語を切る。 手を切ったと公に宣言していたわけではないが、超人オリンピックの覇者となった男の世話をするという個人的な役目はすでに完了したと解釈していた。その上、両親から家庭教師を依頼されたわけでも、改めてセコンドになってくれと頼まれた覚えもない。いや、ケビンマスク当人としては何が何でもセコンドに就いてもらいたかったのだろうが、好意を受ける意思はないということは以前にも告げていた。 おのれの意向がはっきりしている以上、今もこの先も懐柔する策はないというのに、本人が勝手に居着いていたのだ。それも、口説くためだと言って英国を抜け出してまで。 これから先、二度と手を結ぶことはないだろうと宣告しているにもかかわらず、野心を失わないのは一体どういう了見なのか。 少しでも可能性があると期待しているからこそ、留まっているとでも言うのだろうか。あるいは、こちらがそのような素振りを見せたことがあったとでも言うつもりなのか。 どちらにせよ、鋼鉄の意思が覆ることはない。 「俺は、ここを出て行くつもりはないぜ」 別段故郷に不服があるわけではないが、何が気に食わないのかロンドンに帰ることを拒む。戻る時は、自身を手土産にして持ち帰るつもりでもいるのだろうか。 「わがままなお坊ちゃんだな」 非難しているわけでもなく、ただ平坦な声音が漏れた。 あらゆる事物を客観的に判じているからこそ無感動にもなるのだが、今は本当にそうと形容するしかなかった。何でも許される境遇に甘んじているつもりはないのだろうが、驕るような物言いは相手だからこそなのだと思ったからだ。 何が何でも我を通したい。通せると思っている信念こそが、厄介だと思った。そして、自分の主義とは相容れないと実感する。 緻密な計算がなされているわけではなかったが、一本の筋道から離れることなく歩き続ける者と、感情だけで是を下す輩とでは生き方自体がそもそも相反するのではないか。そんな人間が同じ屋根の下で生活することに、意味はあるのだろうか。 とはいえ、無碍にはできないと感ずる時点で、様様な面で感化されてきていると言わずにはいられない。 「アリサ夫人は、元気だったのか?」 持ち込んだ荷物を見るに、綺麗にラッピングの施された贈り物と呼ぶべき代物が床の上に転がっている。恐らく、ロンドンに帰り着いた際、ショッピングに付き合わされたのだろう。せめてもの親孝行だと泣きつかれて、相手が折れたのだろうことが容易に想像できる。 言われた内容に図星を突かれ、不機嫌な様子でケビンは押し黙った。 両親が今だ健在であることは、自分にとっては一つの奇跡だ。それを、妬ましいと思うことはない。むしろ我が事のように誇らしげな気分にさせてくれると言ったら、向こうはどんな面をするのだろう。 相変わらず身体は弱いらしいが、不良息子が真っ当な道に戻ったことで、以前に比べれば大分健康そうだと消息を伝える。その上で持ち込んだ荷物を顎でしゃくり、重量もあるらしい大きな物体の正体を告げた。 「居候をしているのだから沢山土産を持っていけと言って、マミーが持たせた」 どうやら住んでいる家に家財が極端に少ないことを言ってしまったのだろう。体積や重さを予想するに、妥当な線が色々と思い浮かんだ。 そうか、とわずかに顎を引く。 「アリサ夫人に礼を言わなくてはならないな」 彼女の好意を無駄にはできないと、今一度頷きを返す。 先ほどとは打って変わったように素直な感想を吐く姿を一瞥し、やれやれと大男は両手を持ち上げた。 「そういう気の利いた言葉を、俺にも言ってもらいたいもんだぜ」 「男に向かって言う趣味はない」 さらりと返った答に沈黙が降る。やがて場を支配するように、暗い色のマスク越しからトーンの低い声が響いた。 「クロエ」 再びソファが軋み、乗せていた体重が自らの足で立ち上がる。 今までにない妖気を全身から立ち昇らせていることに、特段の反応はない。 「俺が、復讐法を信条とする元悪行超人だということを忘れちゃいないな?」 悪辣な真似でなくとも、痛みを受ければ万倍にして返すと豪語する。 確かに、現在もその方針が変わることはないのだろう。負けず嫌いであったからこそ、褒め称えられ尊敬を集め続けた父親に反抗していたのだということも、周知の事実だ。 「エリート正義超人に返り咲いた者には、相応しくない台詞だな」 その手の脅迫は、自分には効果がないと放言する。 威圧感を漂わせて近付いてきた影を、物怖じせず上目遣いに見上げる。視界を完全に制圧した巨大なシルエットは、豊かな金糸をその後に連れて来た。 「どうせおまえは俺が不在の間、自由な時間が過ごせて幸福だったんだろう?」 図体のでかい超人を世話する手間が省けて、大いに平穏な時を過ごせたのだろうと。 皮肉に唇の端を吊り上げて、男は笑う。だが、目が発言を裏切っていることは明白だった。 それほど器用な人間でないことは、当人も理解しているのだろう。打算だけでは、渇きを潤すことはできない。理想や建前だけで、真に幸福が訪れるとは思っていない。諦めていない。つまりは、そういうことだった。 「環境の変化への適応は、生物にとって不可欠な本能だ」 どこからか流れて来る、微風が羽飾りを揺らす。 「…生憎俺は、生物とは言い難い代物だが」 肯定を覆すような発言に、知らず苦笑いが浮かびそうになる。 空から降りてくるように、手袋越しの指先がふと伸ばされた。 顎を捉えて上向かされるかと思ったそれは、口元を素通りして側面へ逸れた。大きな温もりが広がり、包み込むような気配が乾いたような空間を一瞬だけ満たす。長く続くことがないのは、素質がそこまで追いついていない証拠だった。 超人でありながら数々の勲章を国から賜った実父のような大らかさを持つにはまだ未熟。それゆえに、荒削りである質も大きな魅力であることは間違いなかった。 「寂しかったんだろう?」 代弁するかのように、声が降る。 顎を捉え、上を向かせる仕草を好んでいるのは言わずもがなだ。優越感を感じるのだろう。この時だけは、支配する側は自分だと思い込めるからだ。 「不慣れな生活に難儀をした、と言うのが適当だろう」 家具を取り替えた後のようなすっきりとした気分ではなく、親しんでいた息遣いが途絶えた家。そこは紛れもなく自身の住処であるにもかかわらず、どこかに違和感を感じていたとすれば、確かに言う通りなのかもしれない。しかし、それをここで認めるのは癪だった。 弱みを晒すことを厭う者同士では、進展を望むことなど大いに不毛であるのかもしれない。それでも、譲るのはいつも自分の側でありたいと願う。そう思わせる、根拠がどこにあるのかはわからない。 「外に出してある荷物を、運び込んでくれれば助かるのだが」 このまま突っ立っていられても迷惑だと言外に含み。 要望を受け、にやりと鉄面の奥に隠された唇が笑ったような気がした。 「おまえは、俺に甘いな?クロエ」 どんなに嫌味を言おうとも結局は自分の思い通りになってくれることを示唆し、そのことを純粋に歓迎する。年下の人間に甘い顔を見せてしまうのは、年を経た者の習性と言っても過言ではあるまい。敢えてそのことに目を瞑り、つらりと返す。喉を反らし、太い指先から頭部を自由にすることも忘れない。 「発展の見込めない問答を繰り返すほど、愚鈍ではないだけだ」 瞬間表情に怒気が宿り、しかしすぐに掻き消えた。感情に走り過ぎる傾向を、なんとか理性で押し留めている様がよくわかる。少しずつおのれに制限を加え、大きな人間になろうとしているのだろう。父親よりも熱しやすく、獰猛な本性を隠そうともしないのがケビンという超人の魅力であるというのに。 ご苦労なことだな。 うっすらと笑みを刷き、眼を細める。そこに浮かぶ感覚が、親愛なのか情愛なのかは量り兼ねた。なぜなら、どちらも馴染みがないという点で、間違いなく同列だったからだ。 数式だけを行う機械が、そんな特技を得て何の益があろう。なのに、相手の心底喜ぶ姿を見ることが無益だとは思えないのはどうしてなのか。短期間のうちに、人間特有の情が移ったとでも言うつもりなのだろうか。馬鹿馬鹿しいことだと思ったが、害がなければ排除する意味すら思い浮かばない。要するに、放置することを容認した時点で、それは名前以上のものを持ち得ていたのかもしれない。 手から離れた恋人を見下ろし、突然忘れていたことを思い出したように指を鳴らす。皮膚を覆う革のせいで音は大分濁っていたが、明確な役目は果たしたようだ。 周囲に自分たち以外誰もいないことなど端からわかっているだろうに、左右に視線を流し、正面へと戻る。改めてその顔を見つめ、再び微笑った。純朴な笑みとは似ても似つかない、野性の面で。 「今、帰ったぜ」 クロエ、とおのが名を呼ぶ。 待ち望んでいるのは、答だけではないことなどわかりきっていた。 |