意識を失っている間、良い夢を見ていたように思う。 悪夢だらけだろうと思っていた頭の中は、やはり予想以上のダメージを受けていたようだ。それとも、これが自身の望んでいることだったのだろうか。夢は、辛い境遇ばかりを思い起こさせる忌むべきものだ。栄光を現実世界で手にしていたとしても、そのことを深層意識が喜ぶことはない。 もし、と選択肢が過ぎる。 自分が一人ではなかったなら。もっと欲していた呼吸が傍らにあったなら。そうすれば、見る夢はすべてが悪夢だと断言することもなかった。 ふ、と覚醒が訪れる。何の兆しもなく現実の記憶を取り戻した時、雪が降り積もった地面の上に倒れこんでいたとばかり思っていた身体は、しかし体勢が変化していた。 冷たいのに温かい。温もりと呼ぶべきはずの肌は、ボディスーツを通してだというのに直接触れているのと同等の感触をこちらに伝えた。グレーに近い、深い群青。カタカタと、申し訳程度に音を潜めたキーを打つ音を耳にした時、一気に眠りから覚めた。がば、と身を起こし、確かめなくとも知れるのは、身体を任せていた相手が紛れもない、自分が最も知る人物だったからだ。 太腿に頭部を預け、かなり眠っていたのだろう。すでに頭上の顔は膝を貸している他人のことなど眼中にないとばかりに、作業に没頭している。無茶な特訓で得た傷の手当てもぬかりなく施してあるのは、さすがというより、役目を忘れていない証拠だった。 まだ、セコンドなのだ。自身にとっても、向こうにとっても。 その事実が気恥ずかしいと感じるとともに、胸を張って全世界に言い広めたいとも思う。自分に助言をくれて良いのは、眼前のこの存在だけなのだと。 久方ぶりに見る横顔は、寒いのか暑いのかすら余人に気取らせないほど冷静なままだ。思い切り身を起こしたのだから、その反動があって然るべきはずなのに、どうやら画面で展開されるデータが面白い数値を表しているらしく、一向に気づく気配がない。しばらく動作を見守っていたものの、業を煮やして床を鎧付きの掌で叩いた。 地面を覆っている木の板が、ばんばんと振動を伝える。そこでようやく、今更かよ、とツッコミたくなるような遅さで、ゆっくりと紅い瞳が眼下を見下ろした。 「気がついたか、ケビン」 何事もなかったかのような素振りに、再会を喜び合えると思ったのは大きな間違いであったらしい。 「良い寝心地だったぜ」 助けてくれた礼を素直に口にすることが、さも馬鹿げているような気になって、そう言葉を濁す。 獣たちが山を降りないように見張るために設えられた小屋なのか、粗末な部屋には布団も用意してあった。そこへ直接放り出してくれても良かったというのに、わざわざ膝を貸してくれたことに礼を言う。それも、他ならぬおのれだからなのだろうという自負がある。あそこから運び出すことですら難儀しただろうに、助けてからも世話を看る必要はなかったはずだ。 「そうさせなかったのはケビン、おまえだぞ」 覚えていないのかと問い質しもせず、つらりと返される。思わず目を剥き、何を言わんとしているかを尋ねた。 「横に寝させようとしたのに、いつまでも俺から離れようとしなかった」 まるで駄々っ子のように服を掴んだ手を離さなかったと放言する。 良い年をした超人が、と責めているような調子はなく、平静なままの口調だった。しかし、言われた当人にとっては頭を抱えたくなるような醜態であったことに変わりはない。 ぐ、とマスクに隠れた歯を食い縛り、なんとか押され気味な現状を打破しようと頭を捻った。 だが、思考が一方通行であることが常である若い脳細胞に、レジェンドの遺伝子を直接受け継ぐ者に適うだけの度量はない。体内に組み込まれた基盤が先代のロボ超人の電子回路であるとはいえ、実際にクロエは父親ほど年輪を経ているわけではない。言うなれば、新世代と旧世代の間の超人だと言えるだろうか。少なくとも、はるかに自分より優れた判断力を保有する頭脳を持っていることには違いない。それに太刀打ちしようと考えること自体、論外なのだろう。 「俺にも、意地ってやつがあるんでね」 せいぜい軽口を叩くことが、相手に抵抗できる最後の手段だった。 別れも告げずに目の前から去ったことを責めていると感じたのか、クロエはつと薄い座布団の上で組んでいた足を崩して向き直った。 「俺はおまえや、今の正義超人たちに手助けをする資格はない」 セコンドを勤めることとなった前回のオリンピックは、異例だったと付け加える。 「ウォーズマンの遺志、か…?」 「そうだ」 さも死んだ者として扱われていることに若干の抵抗を感じながらも、白い首は縦に振られた。 齎された答が腑に落ちず、マスクの下の唇が無意識に歪む。 「誰のことを言っている?」 反抗を感じているのは、今でも目にちらつく旧世代の影だ。次代を築き上げるべき自分たちが、未だに過去の栄冠と戦っている。比べるべくもないものとして存在することを邪魔する、過日の威光が立ち塞がる。 「俺は、ここにいるクロエという超人と話をしているんだぜ?」 その影と切っても切り離せないのは、何もクロエに限ったことではない。 肉親として子として、栄光を築いた超人の血を、確かに自分は受けている。そのことを足枷だと思ったこともある。相手の手を借りてそれを誇りにすり替えることができたとはいえ、当時の確執を完全に忘れ去ったわけではない。忌々しい、古びた因習だと思わざるを得ない。それらの矛盾は、数年経って更に自身が磨き上げられたとしても変わらない闘志として胸の内にあるだろう。 「そのクロエは、おまえたちの味方ではない」 同志と思われるのは迷惑だ、と言い放つ。 同じ正義超人であってさえ、協力を拒もうとする孤高の輩は在る。それがこれまでのおのれの立場だったし、彼らを罵倒しようとも思わなかった。しかし以前のように、手を取り合ってひとつの目標に向かって歩を進めることはできないと明言する。辛い告白だった。できることなら耳を覆い、現実から目を背けてしまいたかった。けれどそれを許さなかったのは、何よりも強い自覚があるからだ。おのれが『ケビンマスク』なる超人でなかったとしたら、こうして接する機会すら持てなかっただろうということ。存在を知ることなく、過ごして来ただろうということ。知ってしまった以上、忘れたいと思えなければ、やはり手放すことなど不可能だった。 「だったら、なぜ俺を助けた」 山中に放置しておいたとして、命を落とすほどやわな作りではない。だとしたら、その意義が見出せなかった。もはや、同盟を結び直す気がないのなら、手を出すこと自体無意味な所業であったはずだと。 問えば、ふと目線が反れた。 「アイドル超人軍は、おまえ一人になってしまったな」 そこで初めて仲間の死を悼む。事を荒立てることなく声にしてしまえるのは、冷徹なのではなく深慮があるからだ。泣きも喚きも、慟哭すら一過の激情でしかないことを理解している。そこから何を導き出せるかが、取るべき本来の道筋なのだと諭すように。 相変わらず頭の切れの良さに内心感嘆しながら、言葉の続きを待つ。同志ではないと言ったのは、飽くまで策を練って助言をする立場であることを認識しているからだ。嫌悪感を持って、仲間になることを撥ね付けたのではない。 「ボルトマン攻略の処方として、荒れ狂う電流の中で技を磨いたのは最良の選択だった」 単に戦う本能が求めただけだろうと判断しておきながら、誤った行動を取ってはいなかったことを示唆する。そう言い切ることができたのは、眠っていた間にコンピュータで弾き出した結論が元になっているのだろう。決して目測だけで口にするタイプではない。 超人は、優れた肉体能力を保有すると同時に、特異な、人間にはない特質を持つとされている。言うなれば、短期間の修行によって肉体細胞を自在に変化適合させることができるからだ。無論、長期に渡る訓練によって培われる身体的能力も存在するが、窮地に瀕した後、生存本能が生き抜くためのより効率的な構造になろうとする機能が働くからだとも言われている。衝撃であれば衝撃の。電流であれば電流の。要するに細胞という次元で見合うだけの耐性を習得することは、人間にはできない、超人のみに許された特殊な能力に他ならなかった。 クロエが言わんとしているのは、たとえ短い時間の中であってさえ、自身の身に備わった才覚が望む役を果たせるだろうということ。仮に百パーセントは見込めなくとも、たかが即席の悪魔超人如きに、ロビン家の才能が遅れを取るはずもないと言いたいのだろう。 数日後に控えた戦いにおいて、勝つか負けるかという論議なら部外者がやれば良い。技能や遺伝子において、自身という超人が他者に負けるはずがないとお墨付きを得たのなら、これに勝る励みはなかった。 尻餅をついていた床に掌を当てる。先ほどしたように床板を痛め付けるのではなく、渾身の力を込めて全体重を持ち上げる。片手だけで逆立ちでもしてしまうような、緩慢な動作で両足を地面についた。見上げた天井が、ひどく近いように思うのは錯覚ではない。ゆっくりと闘志がその筋肉を伝って全身に漲ってゆく様を、白い面が下から見上げる。そこでようやく、敗戦で折れていた気勢を立て直されたことに気がついた。戦いに赴く者に相応しくない気概で臨めば、本来の力を出せずに敗北するのは目に見えている。それを避けるために、敢えて自身の前に姿を現わしたのではないかという真実が見え始めた。 ち、と心中で舌打ちする。そこまで面倒をかけなければならないほど、甘ちゃんであったつもりはない。結果的に言葉で励まされ、クロエの世話になったとはいえ、これではどうにも役不足だ。一流の正義超人となった現在でも、おんぶに抱っこから抜けきれないのか。 「当然、どこかで見ていてくれるんだろうな?」 半ば口調に棘を乗せ、低い位置で膝を折ったままの導き手を見下ろす。親友ではない、もっと信頼が厚くて、そして頼れない相手だ。生半可な意識で接すれば屈辱に苛まれるのはこちらという、易くはない好敵手。だからこそ、挑み甲斐もあるというもの。 「俺がいなくても、ケビンは充分に強い」 本心からの台詞なのか判別がつかないくらい、素っ気ない応答が返る。忌々しく思うのは、そうした一言一言が大事だと思えるような文句すら、平然と言ってしまえる態度だ。なのに、見解を裏切りたいと思わせない。むしろ、強く感じるのは実現への野心。 「そのことを、証明してやるぜ」 期待通りの勝利を収めたとして、恐らくクロエは喜びはすまい。けれど、瞳を曇らせることもないだろう。そうさせないためにも、現実であることを知らしめる必要があった。 「サンキュー、クロエ。おまえに会えて良かったぜ」 手甲の具合を確かめ、思った以上に体力が回復していることを認める。特訓で負った傷も、すでに完治したようだ。優れた潜在能力を保有すると言われる自身の財産に、今は素直に感謝した。 「どうやら約束の時間に遅れそうだ。悪いが挨拶は抜きにするぜ」 与えられた期限ギリギリまで休んでいたことに関して、今更後悔する気にはなれない。なぜなら、手にしたものは修行などで得る力よりも、何倍も心強いものだったからだ。 「俺も言わずにおこう」 機械を置いて立ち上がり、戸口まで見送りに出る。木戸を開け放った外はすでに雪が止んでいたが、夜通し走り通さなければ目的地まで辿り着くことはできないだろう。 挨拶は要らないと断った以上、振り向くことなく一気に駆け出す。 背後に残した人影に、後ろ髪引かれる思いもない。ただあるのは、戦わねばならない敵を打ち砕くことのみ。 なぜならそれが、自分とクロエを含めた全世界の意思だったからだ。 俺は強い。 信念こそ、友情に次ぐ最大の力だと見極めたのなら、迷いなどあるはずがなかった。 |