「なぜ、『うん』と言わない…!?」 先ほどから同じ問答を続けているのだから、いい加減飽きないのだろうか。 やれやれと思う内心を表には出さず、クロエは淡々と言葉を告いだ。 「その日は予定がある。おまえの誘いを受けることはできない」 忙しなく手元を動かし、嵩張った書類の束を一つ一つ確かめる。何がどこに書かれているかを確認しているのではなく、破棄して構わない物であるかどうかの最終チェックをしているのだ。 紙のデータをすべて愛用の機械の中に打ち込んだと思ったが、処分する前に一度目を通しておこうと考えていた。万が一、洩らしている箇所があったら二度と手に入らないという手前、念入りにしておきたい所なのだが。 午後になるかならぬかの時間に、招かざる客が来てくれたことを心中恨みに思う。言うことは、許諾しろの一点張り。唸り声のオプション付きでは、やっかみたくもなると言うものだ。 「イブの夜まで仕事をする気か!?」 少しは体調のことを考えろと苛立ちを込める。 「自己管理は常に完璧だ。おまえが引き下がらなければ、嫌でも完轍しなければならなくなるだろう」 斟酌はない。 腹立ちを込めているつもりはないが、理屈で丸め込もうとする態度が相手を向きにさせているのだろう。だが生憎、偽りや方便を持って来られるほど器用な質ではなかった。 声にならない振動が空気を伝わる。じれったいと言わんばかりに、青いマスクの超人は持っていたカードを床に叩き付けた。 「粗末にするな。それは俺宛てなんだろう?」 他人に手渡すために持ってきた物を、宛て名の人物の許しもなくゴミ扱いするなと咎める。 常識というものを考えて口にしただけであることは、百も承知なのだろう。予想通りだとでも言いたいように、益々怒気を募らせた。 「受け取って貰えないなら、クズも同然だ」 そっちが理屈を通すならこちらも同じ真似をしてやるとばかりに長身の男は吐き捨てる。 いつもはシニカルな仮面を被っているが、どういうわけかそのマスクが剥がれてしまっているようだ。否応なく脱がざるを得なかったということに関して、こちらからは干渉しない。 「そうか。ではおまえの手で始末するんだな」 取り付く島がないとはこのことだろう。 わずかにでも譲歩しようとする姿勢を見せれば話は別であったかもしれないが、こちらとしても無尽蔵に時間があるわけではない。事実永久に近い命ではあったかもしれないが、決められたことを決められた期限に行うことが日々の生活だとしたら、土足で踏み込んできた者は邪魔者でしかない。これが赤の他人であればにべもなく切って捨てるが、冷徹に扱うのは些か躊躇するような特殊な位置にある人間だった。 「なら、これも捨てて良いってことだな…!」 息荒くコートのポケットから別のカードを取り出す。 徐に上空で掲げられた封筒の側面には、見慣れた紋章が刻印してあった。誰からのものであるかを察し、そこで初めて身体を真正面に向けた。椅子を軋ませ、手を伸ばす。もう片方の掌で分厚い書類を持ったまま。 「それを渡せ、ケビン」 青年の口振りから察するに、恐らく自分に宛てて差し出されたものであるのだろう。 しかし鼻で嘲笑うように、嫌だねと男は嘯いた。 あからさまな挑発だったが、特段思う所はない。 「こいつの中身は俺が誘った日と時刻も同じと来ている。当然、おまえには用無しだろう?」 立っている者と座っている者では明らかな高度の差がある。向こうが腕を下ろさない限り、伸ばした手にカードが届くわけがなかった。だとしたら、取るべき行動の選択肢は限られている。 「寄越せ」 威圧を込めたわけではないが、再度要求を繰り返す。 明確な宛所に手渡されるべき代物を無関係な人間が好きにすべきではないことなど、あちらこそよく理解しているだろう。そこまで粗野な性格ではないというのは青春時代をともに過ごしたわけではないクロエにとってもはや期待に近かったかもしれないが、どうやら信頼を裏切れるほど粗暴な嗜好ではなかったようだ。 まさか嫌われる根拠を万分の一であっても作りたくないがためだとは露ほどにも気づかず、ゆっくりと下ろされた手から深い朱赤の封書を受け取った。 「…断るんだろうな」 封を解き、豪華だがどこか懐かしいような季節のキャラクターたちに彩られているカードを黙したまま見つめ続ける影へ、ぶっきらぼうな声がかかる。 憮然としていると言うより、すでに腹立ちがそこには滲んでいる。自身の親が宛てたものであると言うのになぜか敵視している様が滑稽だった。 「いや、招待に預かると伝えておいてくれ」 途端、何だと、と目を剥いて身を乗り出した。 勢い余って、デスクに掌を付く。手袋越しだったが、激しい音がして紙が数枚浮かび上がった。 「先刻、都合が付かないと言っていただろう?」 「ああ」 こくりと頷く。 白い面が上下する様を見守り、次に出た言葉にケビンは声を失ったようだ。 「だが、努力すれば時間を空けられる」 丸一日を潰さなければならない用事でもないからだと理由を明かせば、怒気を募らせたような鬼の面が近づいた。 マスクから覗く双眸は黄金色をしているが、それは赤に近い金だった。頭部から抜け出したような金髪が、逆立っているかのように狭められた視界を覆う。 「なぜ俺の時は駄目で、ダディからの誘いだとOKなんだ!?」 正確にはロビン夫妻からのクリスマス・パーティへの招待だ。ロビンマスク本人からというわけではない。 ケビンとロビン。比べる意図がわからず、淡白に答えた。 「サー・ロビンとアリサ夫人からの招待であれば、応じなければならない義務がある」 だがおまえにはないと断じる。 クロエの物言いには大人特有の理論があった。 社会において義務だの義理だのがあると説かれても、その仲間入りをしていない人間は納得することはできない。正しく認識されていないと言うべきかもしれないが、要するに相手がその一員ではないということだ。 「…っ」 湧き上がる怒りを鋭い舌打ちで表わす。 退くかと思われた瞬間、太い指がマスク越しのおとがいを掴んだ。 目的を判断する間もなく、がっちりと目の前で固定され、動きを封じられる。首の力だけでは戒めを外して自由になることはできないだろうと悟るには、充分過ぎるほどの強度だった。 「何の真似だ」 根拠を問う。 赤い目線を上に向け、屈んだ体躯を冷ややかに見つめ返した。それが相反する熱さであるがゆえに、殊更相手を昂らせていることなど知らず。 「わからせてやるのさ」 「…?」 真偽を質すようにかすかに頚を傾げる。身動きは取れないが、力の加減で向こうにも明確な意思が伝わっただろう。 近距離から見つめ返す双眼に獰猛な火が灯っていることに、相対するようにクロエの心は冷えた。 「もしここで実力行使に出るなら」 側めることなく眉間を射抜く。 「今後一切、俺の前に姿を現すな」 縁を切ると断言され、怒りは冷笑に変わったようだ。 一時の暴走如きで、今まで培ってきた絆をなかったものにできるかと見くびっているのだろう。しかしそれを実行に移す無情さも兼ね備えていることを、このケビンこそが知っているはずだった。 所詮、情理に流されぬ肉体の持ち主だ。 では、この交渉すら無意味なのか。 一方的に切り捨てて、果たしてそれが正しい選択なのか。 一瞬生じた迷いが、思わぬ台詞を生んだ。 効果を期するためではなく、ただ浮かんだ心情を吐露する。 「俺は、数少ない友人を失いたくない」 「…………」 初めて感情の伴った内容に、生身が篭もらない声だとしてもそこから何かを感じ取ったようだ。 加えていた力を他所へ逸らしたかのように、指先から行使力が失われる。そのままだらりと腕が落ちた。大きな身体の横脇で、ぶらりと垂れ下がる。 んなちっぽけな存在じゃねえと、音にならない声音が返った。 友如きの言葉で片付けてしまえるような安っぽい仲であるつもりはないと。 ではどういう間柄なのかと問うことは、ケビン自身を、引いておのれをも愚弄しているだろう。 「そうだな」 親友でもなければ家族でもない。けれど、それ以下だという意味合いではないだろうと発言を肯定する。 言葉の意味をそのまま飲み込んだわけではなく、ただ確かに枠には当て嵌められないかもしれない、その可能性を認めた。 「では、こうしよう」 しばらく考え込む必要があるかと思ったが、思いの外良い案が早く浮かんだ。もしかしたらそれを見越してケビンに使いを頼んだのかもしれないと、奇妙な憶測すら脳裏をよぎる。 考え過ぎだとは思うが、大方母親のアリサが息子に持たせたのだろう。カードにはパーティに出席してくれるよう嘆願するコメントしか添えていなかったが、或いはとの憶測が浮かんだ。 突っ立ったままこうべを俯けていた青い仮面が、その一言を受けて上へ持ち上がる。軌道が描かれる終点までを見守り、提案を明かした。 「俺は当日、おまえと一緒にロビン家へ行く」 招かれた客を送り届ける役をやってみろと持ちかける。 そうすれば必然的にケビンもパーティに参加せざるを得なくなるかもしれないが、屋敷の前で別れても問題はない。すべては青年の一存にかかってはいるが、ともに時間を過ごしたいという相手の意思を尊重できる。 それにクロエとしては招待してくれた側の顔も立てられる上、策に乗ってやることで日頃の恩も返せるだろうと思った。 少なくともケビン以外の二者にとっては、一石二鳥と言えなくもない。しかしその当人が一羽ぽっきりの利益で妥協するかどうかに関しては確信が持てなかった。 だがその懸念は、呆気なく霧散した。 「朝まで、エスコートをさせてくれるんならな」 良いぜ、と魂胆が読めたような口振りで青年は胸の前で腕を組んだ。 他人の、殊に家族の思う通りに動くつもりはないのだろう。それでも許可を得られたことはクロエにとっても悪くないものだった。 何しろ、これで付き纏われることなく自分の仕事に専念できるのだから。 机に向き直ろうとして、背後のカウチがぎしりと沈んだことにもう一度目線を巡らせると、そこに巨躯を横たえる自称英国の鬼公子の姿があった。 何のつもりだと問う部屋の主を無視して、備え付けのクッションに頭の側面を埋める。重さに耐え切れず沈む表面を視界に入れ、行動の意味を悟った。 借りは返す。 ケビンにとっての世の法則とやらをここで実行するつもりなのだろう。 虚仮にされたことに関しては、きっちりと仕返しをする。大人社会などくそ食らえだと言わんばかりの態度に、やれやれとクロエは頭を振った。 今夜と同様聖夜も骨が折れるだろうことを見越して、手元の書類を拾い上げた。 |