あのな、と疲れたような声音がその白皙のマスクから漏れる。 「いつまで、そうしているつもりだ?」 責めるような調子ではない。もはや、諦めきった観がある。 自身の住処に帰ってくるまで、今現在置かれた状況に遭遇するのではないかとの危機感を失念していたことを、クロエは心底から後悔した。 食料の買出しのために町中を歩いていた時も、店のショーウィンドウに飾り付けられたそれらを目にしたし、往来の子どもがオレンジの被り物をしていることにも気づいていた。 なのに、これを予測できなかったとは。 もし記憶の片隅ででも、一年前の今日という日のことを覚えていれば、真っ直ぐに家へ帰宅することはなかっただろう。 どこかのバーのカウンタで、明け方まで一人で飲み明かしていたに違いない。 「ケビン……」 もう、何度問いかけたかわからない名前。 すでに声色は、疲れと呆れで低く掠れている。 ハロウィンに恐怖体験(?)をしたということは以前聞いたが、遭遇した化け物の正体が紛れもない実父であると判明した時点で、そんなものとはさっさとおさらばして然るべきだ。 なのに、まるで刷り込まれたかのように、がたがたと震えているから、鉄面の鬼公子が聞いて呆れる。それに、なぜ抱きつく先が大きな寝台の枕ではなく、自分の腰なのか。 こいつ、確信しているのか?、と思いながら、身体のラインが明確な下肢にしがみつく男を、冷静な瞳で見下ろした。 「悪いが、男に抱きつかれて喜ぶ趣味はないんだが」 要するに、さっさと離れて英国へ帰れと言っているのだ。 半年前までは毎週末ここを訪れてきていたが、最近は稀になっていた。とうとう本業へ専念する気になったかと安心した矢先、顔を見せに来たかと思った途端にこれだ。 成長しているのかしていないのか。もしかすると、自分が彼に別れを宣言した辺りから、精神的に退化しているのかもしれない。 別れ、と言っても、あれは確かに完全な決別の宣言だったな、と思い返す。 あとは一人でやれるだろう。そう、親友の息子の度量を信じて、セコンドの役を退いたのだが、それがそもそもの誤りだったのか。 いや、そんなことくらいでだらだらと、未練がましく背を追いかけられることになるとは思っていなかったのだ。 少々甘やかし過ぎたことは認めるが、それにしてはいつまで経っても進歩がない。恋人、と本人が言っているから、それを頭から否定しなかったのが原因だろうか。 同性同士のスキンシップ染みた恋人の真似事なら、あちらの故郷の方が本家本元のような気もするが。 「一体いつまで、お守が必要なんだ?坊や」 苛立たしさなど微塵も見せず、明瞭なアクセントで発音する。 英国の言葉を覚えたのは、何十年も前だ。当時は、徹底的にキングズイングリッシュを叩き込まれたのだが、完璧に話せる自信は今もない。しかもここが英語圏ではないのなら、青年のために母国語を話すこと自体が億劫だった。だからこそ、ここでは態とそれを使ったのだが。 淡々とした調子で発された挑発に、ぴくりと眼下の黄色い眼が反応したようだ。 延々駄々をこね続ける若造に、優しく諭す義理はない。それに、向こうもそんな態度を期待していたわけではないはずだ。浅はかな希望はあったかもしれないが、これまでの経緯を考えてみても、一〇〇%無理であることは疑う余地もなかった。 「…クロエ」 どうやら、恐怖に支配されていた男は、あからさまな若造呼ばわりに機嫌を損ねたらしい。 尤も、そのおかげで無様に震えることをしなくなったのだから、発言は功を奏したというべきだろう。しかしこれからまた、再三のご機嫌取りをしなくてはならないのだから、クロエと呼ばれた超人の苦労は続きそうだった。 しかし、言い争いなら手慣れたものだ。 「ようやく俺の言葉が、耳に入るようになったか?」 続けて辛辣なことを言いそうになり、無意識に押し留める。 こういう時、決まって柄が悪かった遠い昔のことを思い出しそうになるから厄介だ。 自身から見ればはるかに年若い悪行超人軍団の仲間入りをして良い気になっていたケビンマスクなどより、よっぽど荒んだ生活を送ってきた過去がある。 ただ、気に入らない相手を叩きのめすだけではない。明日を知らぬ身だからこそ、周りをすべて敵で囲まれて生きてきた人間の方が、極めて凄惨な体験をしていた。 「…聞き捨てならねえな」 やはり、最後に小僧扱いをしたのが気に入らなかったらしい。 しかし片方だけとはいえ、今だに腕を解いていないのだから、本格的に立腹しているわけではないのだろう。 「わざわざ人の家にやって来てまで震え上がっているようじゃ、子ども扱いされても文句は言えないだろう」 聞くなり、分厚いマスクに隠された容貌が大きく歪んだようだ。 こちらから全体を見通せないとはいえ、その手の変化を知るのに、超人の覆面というものは邪魔にならない。むしろ、生身が見えない分、纏った空気から察される内面的な変容は明らかだった。 「俺が、年相応じゃないとでも言うつもりか!?」 実際、そうだろう。 ああ、と冷たい一言を返し、膝の上に上体を預けた大男を見つめる。 「まあ、今の時代の思春期は三十になっても続くようだからな」 それがあと十年も続くような若輩者ならば、こんな様を晒しても些かも恥ずかしいとは思わないんだろうが、と告ぐ。 だが即座に、そうじゃねえ、と否定が返った。 「俺が、ここでこうしているのは」 ずいと顔を近づけられ、思わず椅子を立ち上がりそうになる。 が、それを許さないだけの質量が、露な足や腰を押さえ込んでいた。 それを知りながら、故意に距離を詰めて言い募る。見張っていなければ、いつまた逃げ出すかわからないと思い込んででもいるかのように。 「下心があるからに決まっているだろうがッッ!!!」 「………………」 怯えている真似事をしなければ、容易には触れさせてくれないだろうと指摘する。 確かに間違いではない。間違いではないが、確かに。 無理に大人びた風を装って口説いたとしても、効果がないと言いたいのだろう。 事実、戦績は非常に芳しくない。ケビンマスクは、殊勝にもそのことを覚えていたのだろう。あの時は駄目だったから、今度はこうしてはどうかと。 まったく子ども染みた、計算高いとは言い難い策謀。単純な、思い付きに近いかもしれない。 父親のように、知略に長けた作戦を練るだけの能を、いつになったら身につけることができるのか。 思い余って、クロエは被っているマスクも忘れて笑い出した。腹の底からというには、あまりに意識が覚めていたが、感じたことを純粋に受け入れる。愉快だと思うことを、何の躊躇いもなく認めた。鉄くずのような自らをそうさせることこそが、ケビンだけが持つ特権だったのかもしれない。 「…クロエ……」 内心は怒りに震えているのだろうが、言った言葉にそれ相応の反応があったことに悪い気分はしていないらしい。 普段なら思考するだけ無駄だと却下されていることを、真に受けてくれたことを、心のどこかで歓迎しているようでもある。外見だけは真正面から受け止めているようでも、常に一定の距離を置いていることを見透かしていたのだろう。 もう、終わったのだとこちらが切り捨てた関係を、そうじゃねえだろうと引き戻す。執拗と思えなくもないが、今も尚募る思いを打ち明けてくれているのだとしたら、殊恋慕というものに関して、一本気な気質には恐れ入る。本当に紳士の国の超人か?、と尋ねたくなるが、拙いからこそ目的が明らかだった。 「俺は、おまえから見れば餓鬼も良いところだろうが」 「アア」 こくり、と顎を引く。 今までにない素直な反応に、ち、と子どもは舌打ちした。 しかし、臆することなく腹の内を吐露する。 「けど、おまえが比較する過去には、収まりきらない男だぜ?」 熱く説かれ、そうだな、と肩を竦める。 正義超人だった頃の知人らの息子は多くいるが、ここまで深く関わった後継は他にいない。 「俺も、おまえに言っておきたいことがある」 膝を抱えられるようにして居場所を固定され、真向かいに厳つい青の居城がある。逃げ場はないが、随分前からその選択肢は放棄していた。 「おまえは俺が、おまえのことを嫌っていると思っているようだが、それは違う」 やっかんではいるが、と付け加え、相手が魅力的であることを告げた。本当の成長を遂げるまで大分猶予があるとはいえ、過剰な自信やそれに見合うだけの実力の保持者であることは否定できないと宣言する。 「だが、それを悠長に眺めていられるほど、俺は暇じゃないだけだ」 おのれの興味よりも、本来の在り方を優先する。 だから、求められても返すだけの余力がないとクロエは言った。 押し付けられるだけの恋情には辟易している。こちらから渇望するという色恋からも足を洗った。 今はただ、もっと落ち着いた、静かな時間を過ごしたいだけだ。 「……それは」 想像に違わず、渋い声が耳に届く。 「俺に禁欲しろということか?」 体よく丸め込まれていると思っているのだろう、そうだ、と言いつつ頬の部分に手を伸ばす。 「それができなければ、早々に足を洗うんだな?」 坊や、と優しい口調で発する。 まるで獣のように、男は唸った。捕らえていた膝から上の部分を離し、筋骨の逞しい両腕を組む。譲歩する条件が明示されていない上は、容易に是と判断するわけには行かないのだろう。こちらにも意地がある、と言ったところだ。 「……………これ以上の我慢はしたくないが」 そうだろうとも、とクロエは胸中で猛り狂う心根と肉体を充分に理解した上で頷いた。 「嫌われるのは、もっと最悪だ」 率直な感想は、意味深でないがゆえにひどく心地良いものに聞こえた。 恐らく、ケビンはこちらの意を汲んでくれることだろう。精一杯の強がりを見せて、対等と呼べるだけの存在に近づきたいと願うだろう。 「…但し、俺にも条件がある。」 何だと問うよりも先に、眼前に手袋を付けたままの長い指が天井に向かって伸びた。 「昔のように毎朝、俺の携帯にモーニング・コールをすること」 セコンド時代は体調管理の一環だと言って、何から何まで指図を受けていたことを言っているのだろう。 細部に渡って干渉されることに関して、当時はかなり辟易していたようだが、それを朝だけ続けろということか。 「あとは、…そうだな。二ヶ月置きで構わねえ。月末は、俺を家に入れること」 だから寝場所は片付けるな、とも言った。 「俺に、それを承知しろと?」 まるで愛人の元に通ってくるみたいだな、と思いながら、時間的な間隔を置くことについては賛同した。朝の起床については、こっちの時間で考えて不都合がないのだろうかと若干訝りはしたが。 「…てことで、クロエ。今日は何日だ?」 ああ、と即答する。 「十月の……」 ハロウィンだからな、と一瞬青い超人は笑ったような気がした。 末だな、との答に一層機嫌を良くしたかのように、ケビンは軽く口笛を吹いた。 「そして、今度会う時はクリスマスか、ニュー・イヤーのカウントダウンだ」 「………………」 本来であれば、何の感情も込めずにそうだな、と受けて然るべきところを、またしても一抹の空虚が胸を掠める。 乾いた喉から出た声は、すでに反論することを諦めていた。 完全にしてやられたとは思うのだが、毎日欠かさずコールを寄越せという案以外には特段不平は思いつかなかった。それに、いつも縋り付くか悪態を付くだけだった人間が、こうして駆け引きのような真似をしてくれるのだから、乗ってやらない手はないだろう。 人とは成長するものだと、元好敵手の男が言っていたことを回想する。 「末恐ろしい男だな」 相応の進歩だと思うぜ、と勝ち誇ったような声音が返る。 厳しいマスク同様、荒削りな気性だが、それを懐かしいと思う時点で結果の見えた勝負だったのかもしれない。 元より本気で相手を拒絶していれば、最も権力のある一家の大黒柱に頭を下げに行けば済むことだ。しかしそれもあちらの気分によって、可能な時もあれば、無情に追い返されることもあるのだが。 おまえは、父親とどの辺りまで似ているのかな。 肉親と旧知であるからこそ、一歩退いていたいと思う願望。 なまじ親友の子であるからこそ、二の足を踏んでいたことは否めない。踏むどころか、早々に思考から除外していた選択だった。今までは、そうすることが正しい判断だったのだが。 これからは、どうやらわからないらしい。 不明が進路の前に立ち塞がることなど、あってはならないはずなのに。 諦観とは異なる趣が回路の中央を支配している。 久方ぶりの口付けは、なぜか甘いワインの香りがした。 |