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李功(りこう)という男、その隔たり

 悪かったって言ってるだろう、と。
 苛立ちを隠すことなく、声の主は整った眦を釣り上げた。


「なんだおまえら、痴話喧嘩中か」
 背後から呆れたような男の声が飛ぶ。
 それに気を割くことなく見つめ返した先では、黒い前髪の下の双眸がじっとこちらを睨みつけている。
 返すべき言葉が思い浮かばず、無言のまま水が入ったコップと汗をぬぐうためのタオルを差し出すと、ち、という小さな舌打ちとともにそれらを手から奪い取られた。
 白華拳の最高師範である梁(りょう)は、黒龍拳の総帥となった李功に対して自身と一緒に稽古をつけることがある。
 月に一度程度だったが、梁自身の修練の一環として、実力のある若い拳法家である自分たちと拳を交えることを習慣化させていた。
 組み手は一対一の時もあれば、二人で組んで残りの一人と対することも。
 午後の数時間を使って休憩を挟まずに行うので、かなりハードな特訓だと言えた。
 李功がまだ実力を培えるだけの伸び代が充分にあることと、その師匠が刑罰に服していることを理由にした西派を統率する大道師の特別な計らいであることは誰の目にも明らかだ。
 李功とであれば五回に一度くらいは、梁から一本を奪えることもある。
 それが着実に四度に一回という脅威的な勝率に近づいていることを、負けん気の強い男は悔しさ半分、教え手としての嬉しさ半分で見守っているようだ。
 白華で修行を積んできた梁にとっては徒手武術のみを行う黒龍の技について精通しているとは言い難かったが、過去に二度ほどトーナメントで黒龍拳の使い手たちと対戦した経緯もあり、その門派が持つ特質を肌で理解しているらしかった。
 李功が白華の里を訪れる用件のほとんどは、師であったあの男から学ぶことのできなかった黒龍拳の奥義について、梁に相談をするためだ。
 梁にとっては他の門派の技術に関しては専門外と言っても良かったが、深い見識を活かして、的確な指導とアドバイスを授けているようだ。
 白華から帰る頃には、李功の顔が晴れ晴れとしているのがいい証拠だった。
 そんな相手の不機嫌を買っているのは間違いなくおのれであることを理解しながら、感情のない目で見つめ返す。
 まるで死んだ魚の眼で見られてでもいるみたいだと、李功の思いが伝わってきた。
「………おれの顔も見たくねーってんなら、暫くこっちには来ねえよ」
「そうは言ってない」
 また同じような問答が始まったな、と心のどこかで嘆息する。
 そもそもの原因は向こうにはないと判断しているからこその返答だったのだが、恩のある男の手前、乱雑な言動は避けたかったのだろう。
 李功は大きなため息を吐き出しそうになるのを何とか制することに成功すると、くるりと踵を返した。
「…言ってることとやってることが全然噛み合ってねーんだよ…」
 辻褄が合っていると言い張るなら、その仏頂面を何とかしろ、と。
 感情のない面と声で凝視され、言葉を返され、それで何もないと弁明することこそ無理がある。
 李功の言う理屈はわかる。

「…おめえらの関係に首を突っ込む気はさらさらねえけどよ」
 借りた杯とタオルを置き、奥にいた梁に軽く礼の形を取ると、背を向けて演武場の出口へと向かう。
 常人に比べればよほど鍛えられてはいるが、自分から見れば細い部類に入るだろう背中を見送るように眺めていると、遠くで男の声がした。
「ここで師範やってるおまえよりも、黒龍を束ねる李功の方が、周りから持ちかけられる縁談話の数は確実に多いってことを忘れんなよ」
 かつての自分の妻が適齢期になった時は温厚で家族思いだった先代の大道師であった父の采配で蓮苞(れんほう)を伴侶に持ちたいと願う求婚者自体はそれほど多くはなかったが、彼女の生来の器量ゆえに昔から引く手数多だったらしい。
 父親の後を継いで西派のまとめ役になるであろう長兄たちに関しては、白華以外からそうした話を持ちかけられることがほぼ常態化していたと説く。
 拳士としてはまだまだ未熟であっても、親切心からにせよ権力欲にせよ、有力者との婚姻を進めようと画策するのはどこの国も同じだろう。
 李功は誰とも結婚をしないと言っていたが、他派の年長者からの推薦をあしらうにはかなりの労力が必要であるはずだ。
 黒龍の敷地に寝泊りをした例の日にも、李功が公式の服を着て外出をしていたことを思い出す。
「………………」
 思うが早いか、自然と足が石畳を蹴っていた。


「李功」
 幾分大きめの声を発して呼びとめると、前方を歩いていた影からちらりと一瞥を投げかけられた。
 何の用だよ、とは敢えて尋ねずに、むっつりと噤んだ唇を横一文字に引き結んでいる。
 その様子からも、かなり虫の居所が悪いことが知れる。
 しかし自分より二つ年上であることを慮ってか、無視をするような愚行はおかさなかった。
「………何か用か」
「………………」
 引き留めたのは良かったが、何と切り出すべきかを考えあぐねる。
 一旦目線を斜め上の上空へ伸ばしてから、体裁を整えるために黒い頭上に戻した。
「………まだ怒ってるのか……?」
 やっと出たのは、相手の心中を問う内容だった。
「……それはこっちの台詞だ」
 そもそもの原因は自身にあるのだが、李功は目をしかめたままこちらを見上げてきた。



 この奇妙な諍いの発端になったのは、李功の私房に泊まり、寝所を共にした日の翌朝だ。
 率直に言って、相手を抱き、存分に満足した後に迎えた朝は格別のものだった。
 静かな寝息とともに、まだ李功が自分の上腕に小さな頭を乗せたままであることを認めると、言い様のない幸福感で満たされた。
 距離が近かったので、まるで小さなこどもを抱いている親のような心境にすらなってくる。
 ほとんど真上からだったのでその貌を覗き見ることはできなかったが、これが現実であることを確かめるように、純粋な欲求だけで大切なぬくもりに直接触れたいと思った瞬間。
 ぴくりと身じろぎをした李功の、ほの赤い唇からもたらされたのは――

「………………」
 何とも言えない、溶岩ほどの熱量はないものの墨で濁らされたようなざらざらとした感情が瞬時に胸の内に広がった。
 目を見開いたまま口を噤み、息を詰めてそれらの発露を堪えていると、夢うつつだった李功が意識を取り戻したようだった。
 薄暗がりの中で、どうした、と掠れた、いつもならば心地好いはずの声音が耳に届いた。
 そして自身は恐らく、その時に何も答えてやれなかったのだと思う。
 答えられなかった。
 ただ、独白のように、――おれはおまえの兄貴じゃない、と。
 静謐な響きとともに憤慨したことを白状した。
 はっきりとした不快感を相手に示したわけではなかったが、そのまま声も発さず、李功から引きはがすように身を離し、広い寝台から降りたように思う。
 手早く靴を履き、衣服を着こみ、帰ろうとした親友に驚きながらも白華の里へ立つのだろうと察した李功が夜着に袖を通すのを待たずに外へ出た。
 西派の村が点在する秘境、五里山(ごりさん)は標高の高い山岳地帯であるがゆえに朝と夜の空気はひんやりと冷たい。
 夏場であっても吐く息が白くなることもあるが、構わず、李功が止めるのも聞かずに門へと向かう。
 顔を窺える余裕はなかった。
 自身が目覚めた直後に、例えあと少しの時間であってもともに居たい、肌を触れ合わせたいと思っていたことすら、なかったかのように。
 黒龍拳の文字が記された大門を開くために追って来た李功に別れも告げずに背を向けた。
 自分でもなぜこんなに動揺を感じているのか、わかっているのに制御できないまま。


 李功は自身が悪いと謝っていたが、覚醒していなかった当人にあの呼びかけをした記憶があったとは到底思えない。
 だからこそ間が抜けていると思った。
 李功には謝る理由がないのだから、申し訳なく感じる必要もないのだ。
 なのに、不快を与えたと思っているのだろう。
 怒りを買ったのは他でもない。
 自分の、ある種のコントロールできない部分が働いたためだと。
 無様だとの感慨を抱いたのは、李功に対してではなく、狭量なおのれの器に対してだ。
 相手にとっては替えられない。
 十四年間という絶対の時間を共有してきた年上の兄弟。
 唯一の家族であったあの男のことを忘れられないことは、肉親を持たない自分にとっては想像の範疇でしかなかったが理解できない代物ではなかった。
 なのに、あの時もっとも側に、誰よりも近い場所にいた自身に対してもたらされた呼称。
 にいさん、と。
 吐息のようなかすかな呼び声を聴覚がしかと捉えた時、無性に腹が立った。
 自分は違う。
 夜という密な時間を分け合い、過ごし、一つになって高まり合ったのは、李功がいまだに思慕し、拳士として理想とし、尊敬する男ではないと。

 だから、怒りの矛先はむしろ眼前の親友に対してではなく――

「おれは、おまえに対して怒っていたわけじゃない」
「…………?」
 怪訝に寄せられた眉が李功の内心を具に表わしていたのだろう。
 心底不思議そうな目つきで見返され、自身の口元にかすかに苦笑が浮かんだのがわかった。
 ここでおのれの不甲斐なさを認め、相手に告げることは恥だと思ったが、誤魔化していては埒が明かないのだろう。
 少なくとも、何にでも真摯に対応してくれる本当の親友に対して嘘をつき続けることはできなかった。

「おれは、おまえの兄貴の劉宝(りゅうほう)に、嫉妬してるんだ」
「……………」
 どうせ、ばれていたのかもしれないが。
 数年前から同じ気持ちを抱き続けていた事実を改めて思い知らされて、激しい憤りを感じたことを。
 こんな小さなことに囚われていてはいけないのに、どうにもならない自身が何よりも許せなかった。
 淡々と告げる間も、李功は瞬きすら忘れてこちらを見つめ返していた。
 言いたいことを言い終え、その面をゆっくりと見据える。
 別に、いいんじゃねえか、と李功の唇が音を紡いだ。
 目を丸くすると、両手を腰の脇について、相手は鼻から息を吐き出した。

「おまえがくそ真面目なのは、今に始まったことじゃねーだろ…」
 そういう奴はなぜだか、自分の欠点を認められないらしいからな。
 黒龍拳の門弟にも似たようなタイプがいると継ぐ。
「大体、趙(しょう)。…おまえは昔から、何でもそつなくこなせる器用な奴なんだからよー…」
 わずか十代前半で西派拳法の大家である白華拳の師範の座に就いたほどだ。
 ひとつくらい駄目なところがある方がちょうどいいんじゃねえのか?
 黙って聞いていると、むすっと顔を顰めたまま、李功は続けた。
「…それから、おれがおまえに対して怒るってことは、まずねえよ」
 これから先もないんじゃないのかと適当なことを言う。
 そう断言をする根拠というものがさっぱりわからなかったが、表情に出ていたのか、李功の片眉が持ち上がった。
 次いで、目線はしっかりと合わせられているのに、照れたようにその頬がわずかに上気した。
「………おれには、おまえに怒る理由がないからな」
「………………説明になってないぞ」
 心中のツッコミを表に出すと、あー、と投げやりな返事が返った。
「…それでも、おれの中では説明になってるんだよ」
「………………」
 嫉妬深くても、独占欲が強くても、それが自分ならば良いということだろうか。
 それよりも李功の心の器自体が自身よりも勝っていると言われているようでもある。
 これをもし第三者である梁が聞いていたのなら、えらく惚れこまれたもんだなと感嘆を漏らしていたかもしれない。
 たとえ、そうだとしても。
「……………」
 相手に負けたくないという複雑な感情も確かにあるが。

「李功」
 ん?、と細い顎が上向く。
「……そういうことは、あまりおれに言わない方がいいぞ…?」

 何をしても許してくれると言ったも同然であるなら、これからもっとひどいことをするかもしれない。
 揶揄するように目を細め、弄るようにその全身を徐々に視界に収めていく。
「………………そーいう、なあ………」
 日が沈まないうちから昼には似つかわしくないことは考えるなよとすかさず咎められ、思わず肩を揺らして笑い出してしまった。
 怒る気はないんじゃなかったのか、と。
 軽口を叩けば、盛大な深呼吸が聞こえた。
「おまえ、おれに対してだけ、性格悪いぞ」
 別にいいけどよ、と続けて、李功は眉尻を下げて嘆息した。




-2014/01/21
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