トリコが騒々しいのはいつものことだ。
標的を定め、獲物に向かって身を忍ばせてでもいない限り、気配を殺すということに頓着しない部類だった。
尤も、常日頃から息を殺して生活をするような人間は悪目立ちするだけなのだから、当然と言えば当然だったが。
外が何やら騒がしいと、見えない第六感が働き、寝就いていたはずの体と神経が横になったままの状態で自然と覚醒する。
うっすらと瞼を持ち上げ、寝台に起き上がる。
暗闇の中であろうと些かも問題のない視界の中、この部屋に向かって誰かがやってくるのがわかった。
足音、体重、そして個体が放つ電磁波の種類や波長からして、それが予期していた人物のものだということが即座に知れた。
「…トリコ」
何か用かと尋ねる意味で、扉をそっと内側から開く。
一瞬、驚いたように目を見開いたが、大方向こうもこちらが起床していた事実に気が付いていたのだろう。数センチ開いたドアの隙間から、ついて来いと右手の親指で後方の壁を突くような仕草をして部屋の外へ促した。
室内に二つある時計の針は、真夜中を指している。
夕食の後、姿が見えないと思っていたが、どうやら何か目的があったようだ。
外へ出かけた時は、ベストのようなジャケットをTシャツの上に羽織っていたと思ったが、やって来たトリコは上半身が裸だった。
「ゼブラたちは良いのか…?」
寝静まっている他の連中に気を使い、前を行く影に吐息ほどか細い小声で耳打ちをすると、あいつらは一度寝たらよっぽどのことがない限り起きないだろうと、当たり前のような顔で返された。
夜間の外出は特に制限をされているわけではなかったが、訪れる場所が場所であれば問題になる。
どうやら危険レベルと認識される区画へ忍び込んでいたらしく、トリコの体からは嗅ぎ慣れた土と水のにおいがした。
「どこへ行っていたんだ」
自分たちが宿舎にしている建物を後にし、探りを入れるように時々話しかけるが意図した答を得ることはできなかった。
親しくなった者の真意を問う術に長けていないおのれの未熟さゆえだが、トリコに限らず、いつの間にかフォーメーションを組んで戦うことの多くなっていた馴染みのメンバーには幸い、そういった気遣いを必要とする人物はいなかった。
何事も隠しだてをせず、包み隠さず腹の内を明かす。
気兼ねせず交流を楽しむような気の置けなさが、今ともに暮らしている連中にはある。
美食屋を目指す人材を育成している組織の中でいつしか群を抜いて注目されるようになってしまったが、誰が一番かという競争意識がずば抜けて強いこともなかった。
確かに、能力の別はともかく、単純に美食屋として一番の高みを目指す奴もいる。力が、体力が、知識や経験が。何を最高のものに磨き上げているかでその判断は千差万別だと言えたが、他人を蹴落としてまでおのれの才能を誇示しようとする場面は稀だった。
まだ十代だという現実も理由であったのかもしれないが、旧友のような。それよりも身近な家族や兄弟のような感覚でともに過ごしていたからだ。
だから、こうして消灯時間をとっくに過ぎたような時間帯に出歩くのも、どこか友人同士の秘密を共有している一種の高揚感があったのだが。
「ようやく、掘り当てた」
当に相手からの返答を期待しなくなっていた耳に、独り言のような呟きが届いた。
「え」
人工の月明かりしかない暗闇の状態で、自分がしかと道を確認して進まねばと注意を払っていた手前、短く言葉を聞き返してしまう。
トリコは確かに優れた嗅覚を持っているが、それはどちらかと言えば森の中でなど、四方を木々で覆われた場合に役に立つ。
動物的勘とも言うべき鋭い感覚は、実戦に於いて大いに役立った。然るに自身はと言えば、どこか爬虫類的な、特殊な部類の能力だと言える。
IGO内部の科学班に身体を余すところなく調べられてわかったことだが、視力という分野に於いて、どうやら常人とは桁外れの数の細胞を有しているらしい。
高名な学者から具体的に説明をされはしたものの、生まれた時から見ていた景色であるだけに、その驚異的に高い数値を示されたところで大した実感は湧いてこない。
人や生き物だけでなく、無機物などの金属や鉱物が放つ微弱な電磁波すら捉えることのできる視細胞を持っていることは、美食屋という過酷なハンター業にとってプラスにはなるが身体的能力がそこに付随していなければ宝の持ち腐れで終わる。
どんな得物も、活かす場があってこそ。
そう思うからこそ、四人の中で最も体力や筋力だけでなく、体格で劣る自身は並々ならぬ努力をしてきたつもりだが。
就寝時も常に身につけている、全身をくまなく覆う黒い布製の服の我が身と、前進を続ける筋肉質の広い背中を見比べる。
一般の人間と比べれば飛躍的に有用な肉体と運動神経を得ることに成功してはいるが、組織でトップレベルと評される仲間内では身体的に一番劣っているのは傍目からも明らかだ。
その格差をフォローするために、あらゆる知識を手に入れ、頭脳的な戦法を普段から模索し続けている。
どう足掻いたところで、自分の能力は戦いの場に於いては不利であると理解した上で修行に打ち込む自身を、よくわかってくれているのもその仲間たちだった。
トリコなどはその前向きな姿勢を大いに気に入っているのか、根を詰めて鍛錬に励んでいるとちょくちょく声をかけにやってくる。自分のメニューは早々に終わってしまったらしく、手持無沙汰もあったのだろうが、顔を見に来てはなんだかんだと硬くなり過ぎる自身の思考を解してくれた。
くそ真面目だと言われ、最初は気分を害したものだが、それが真っ当な善意から発されているものだと知ってからは、軽口を叩かれても気にしないようになっていった。
なぜならトリコは、他の奴らと違って、何より外見で劣る事実を指摘することはなかったからだ。
資質そのものが異なるという、ただそれだけの相違を、わざわざ面と向かって告げることほど非常識な真似はない。
持っているかいないかだけの違いである、分類のあるなしの是非を上げ連ねたところで、持つ者の優越と持たざる者への侮辱の行為でしかないからだ。
むしろトリコという人間は、おのれが持っていないものに対して最大の興味を抱くし、少しでもその能力に近づこうと建設的な行動をとる。向上心があるというよりも、探究心の方がそれに近いかもしれない。
だから、心底からの嫌味を口にする時は、こちらもやられてばかりいなければ良い。
同じように皮肉を返せば、応えてくれたことに対して、トリコは快活な笑みを見せる。
無視をされれば途端に興味を無くして白けるが、基本的に相手は他人との交わりを忌避するタイプではなかった。
ゆえに、まどろっこしいと思われる会話も、難なく交わすことができる。
「だから、温泉を掘り当てたんだって」
突拍子もない発言に、思わず訝るようなこわばった目線を送る。
「??????」
何のことだ、とすぐさま聞き返したが、機嫌よく鼻歌交じりの答が返ってきた。
「演習の時、どうも臭いなと思ったら、案の定見つかったってわけだ」
「………トリコ」
ほ、と短い嘆息が漏れる。
「おまえ、真面目に修行をしていなかったのか?」
まさか昨日、一緒にミッションをこなした時分、そんなことに気を取られていたんじゃないだろうな、と相手の不実を安直に責める。
ははは、と目元をほころばせて笑うだけで否定をしなかったということは、やはりそうだったのだろう。
しかし、と考えてみる。
昨日みつけて、今日掘り当てたということは、一体どれほど短時間で水脈まで辿り着いたのだという疑問が湧いてくる。
一分一秒という細かな単位で管理をされている立場ではなかったとはいえ、どう少なく見積もっても、自由な時間は限られているのだから、よほど根気を入れなければ半日以下の日数で源泉を掘りあてられるわけがない。
「…で、ボクに入れというわけか…」
渋々といった面で呟くと、わずかに高い位置から首だけを後ろに傾けてきれいに並んだ大きな歯を見せる。
「ああ。どうせなら、ココと入りてえと思ったからな」
そうじゃないだろう、と間髪を入れずに取って返す。
「ゼブラとサニーは起きてこないとわかっているから、ボクを連れ出したんだろう?」
最初から素直にそう言えと釘を刺すと、やはり否定は返らなかった。
こういうところでは、トリコは嘘を吐かないでくれるので正直助かる。
気遣いも遠慮も、もううんざりだ。
虚偽や同情に彩られた言動ほど、実際自分を傷つけるものは少なくなかったからだ。
気を遣わないでくれるのが一番安心する。
無理にこちらに笑いかけたり、悲しそうな瞳で見つめられるのも得意ではない。
だから、というかやはり。
トリコとは良い具合で付き合っていられる。
「わかった。…でも、一時間経ったら戻るぞ」
仕方なく承諾し、せめてもと条件を提示すると、それで充分だとお世辞ではない返答が返った。
トリコが上機嫌で口ずさむ歌は適当で、いつかどこかで耳にしたようなフレーズを、無言で進む道の風がどこかへ運んで行った。
-2008/11/11
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