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憩う
 これは、と呟いて、思わず息を飲み込んだ。
 若干予想をしていたとはいえ、目の前に開けた景色は、まさしく即席の温泉だったからだ。
 というか、ほとんど整備をされていない、地面に穴を掘っただけの、直径数メートルもないほどの天然の池とでも言えば相応なのか。
 武装した所員ですら滅多に足を踏み入れないような危険な場所であるにも関わらず、夜行性の猛獣が周囲で鳴りを潜めているのは、無論力を持った自分たちの存在が彼らにとって大いなる脅威だからだ。
 特に、自身の特異な体質のお蔭で、腹を空かせた獣の類いが襲ってくる確率は限りなく低い。
 ゆえに、普通の人間であれば寛ぐには値しない危険区域であっても、普段と同じように過ごせるというのは一般人から見れば確かに尋常な事態ではないのだろうが。
「……………」
 掘った場所に岩が少なかったのが幸いしたのか、トリコが要らぬ岩石をすべて取り除いたのかは不明だが、さっさと全裸になった当の本人はと言えば、ざぶざぶと底の泥が湯に混ざるのも気にせず、胸まで泥水に浸かっている。
 入浴を躊躇った理由はもちろん、想像をしていたよりもはるかに汚い光景であったからだ。
「どうした、ココ?早く入れよ」
 あまり熱くないぞ、と言ってはいるが、そんなものは主観によっていくらでも覆される。
 実際、寝食をともにしている間に、一緒に何度か風呂に入ったことがあるが、トリコの言う丁度良い温度と、自分が心地好いと感じる水温には五度ほど差があった。
 しかし、その経験を考慮してか、池の隣から天然の水道管と呼ばれる巨大植物の管を通しているらしく、そこから水流の音が聞こえてくるということは、確かに温度を適度に調節してくれているのだろう。
 源泉は、並大抵の人間ならば蒸気だけで火傷をするような代物だ。
 お湯を掘り当ててから早速、水を流し込む植物を探しに行ったのだとしたら、無鉄砲とは程遠いトリコの天性を垣間見ることができる。
 奔放のようで実は思慮深く、しかも行動に何某かの意味がある。昔はただ気楽で楽観的な子どもであっただけだが、成長するにつれ、探求欲の求めるままに膨大な知識と経験をモノにしてきた証拠だった。
 仕方なく、というか、潔く腹を括り、数十分の徒歩で歩き疲れ冷え切った体を温めるために、湯に浸かることを決心する。
 池の縁に膝を折り、そっと左手の指の先を揃えて水面に浸からせると、トリコが言ったように、水温はさほど高いとは言い難かった。
 信用していなかったわけではないが自身で確認をしたことで納得し、服を脱ぐため首から下の要所要所を押さえるようにして巻かれている包帯を解こうと指を伸ばした。
 反射的にその動作がぴたりと止んだのは、わずかな不安が胸裡で鎌首をもたげたからだ。
 躊躇は顕著で、そのままだらりと右手を体の脇に投げ出してしまう。
 茫然と、だが惑うことなく悟ってしまった現実に、常に豊かとは言い難い表情が顔の表面から抜け落ちる。
 無音でありながら音を立てたように落ちた静寂に、向こう岸で両腕を背後の土手に投げ出しているトリコは気がついただろう。
 もし、という疑念が、脳裏を黒く染めあげ、明確な答を得られぬままぐるぐると尻尾のない渦を巻く。
 もしこのまま自分が湯に浸かって、体内の毒が少しでも流れ出してしまったら。
 何事もないで済むわけがない仮定が、たった一つ、鮮明な景色だけを視界に映す。
 あの時と、同じになってしまう。
 涙も汗も血も。吐き出す息の、そこに含まれる微量の水分にすら。
 混入した猛毒は、空気を伝い、水を伝い、空間で仕切られた世界を汲まなく侵した。
 雨の中、水滴を伝い、汗を伝い、体表へ溶け出した自身の毒によって、生態系を一つにする何百という生き物がすべて死に絶えた光景が、今でも網膜に焼き付いている。
 ほんの数分前までは健全であったはずの土壌が自身の流した毒に瞬く間に汚染され、その区画は数十年間生き物の住めない、隔離され封印された土地になったと聞く。
 怖い、と思うのは、獰猛な獣に我が身を引き裂かれ、食らい尽される瞬間ではない。
 何よりも、意のままにならない、自分の身体で生成された肉眼では見ることの叶わない異物の影が心底恐ろしかった。
 不意に、暗闇の視界がかすかに陰り、いつのまにか距離を詰めた他人の気配に気づいた。
「…ココ」
 青く短い鬣を携えたトリコが、地面に座ったままじっとこちらを見つめている。
 湯気を含んで発されるその音は、混濁していたはずの脳内にしっかりと届き、聴覚に強かな微動を伝えた。
「…大丈夫か…?」
 気遣わしげというよりも、正気を確認するかのような端的な問いかけに、透明な汗を頬に伝わせながら、どこかで張りつめていた緊張がほぐれたような気がした。
「……………、ああ」
 完全に干上がったような声音を喉の奥から絞り出し、発した後、何度か小さく頷きをくり返す。
 しかしそれが精一杯で、いつも通り軽い口調で語尾を続けられなかった。
 おまえの方こそ、心配そうな顔をしているんじゃないか、と皮肉を口にしそうになって、どう弁明したところで、重症と思えるほどの大きなプレッシャーを感じているのは紛れもない自身であることを知覚する。
 元々得意ではない他人との交渉を、さらに難解なものにしているのは間違いなく自分自身であると。
 自分が背負ったこの肉体的な因縁が、何もかもを陰湿という名の絶望の色に染め上げる。
 下手に何かを発すれば、自らの汚濁を相手に移してしまうのではないかという懸念が、迷信のように常に頭から離れない。
 相手を苦しめ、この世から失わせてしまうのではないかという危機感が、すぐ後ろについてくる。その、安寧のない日々に身を置いているという実感。
「…おい、ココ」
 再び思考が沈んでしまった友人を宥めるように、裸の掌がぽんと服の上から上腕に触れる。
 一瞬触っただけの他者の温もりにあからさまにびくりと身を竦め、思わずまじまじと触れた側の人間を凝視してしまう。
「何て顔してんだよ?」
 呆れたように一度嘆息し、そして再度吊り上がった鋭い眦のまま、トリコは大型の肉食獣のような口の端を上へ持ち上げた。
「しっかりしろって言わなきゃ、何もできねえお坊っちゃんなのか?」
 おまえは、と完全に年下扱いをした物言いで諭される。
 励ましと呼べるほど情感が伴っていたわけではないかもしれないが、だからこそすんなりと相手の善意が胸に落ち着くこともある。
「……乱暴者の、おまえとは違うだけだよ。…トリコ」
 辛うじて喉を突いた挑発に、安堵を覚えたのは誰よりも自分自身だったのだろう。
「生憎、繊細な性格で得したことはねえからなあ」
 言い終えてから、双眸を細め、かかかと快活な笑みを見せる。
 子どもが親を安心させる時のようなあどけなさに、馬鹿馬鹿しさと有り難さが同時に込み上げる。それを、いつものように隠してしまおうとする理性を、何とか宥め、賺し(すかし)。
「…ボクの毒に当たって、死にそうになったら素直に助けを求めろよ…?」
 万が一、コントロールが利かずに体外へ自身が持った毒の成分が流れ出してしまった時は、間違いなく第一の犠牲者はおまえだから、と暗に語る。
 だが実際は、最も早く効果が表れるのは湯の中に浸かっている大型の植物だろう。
 なぜなら相手がそれほど柔にはできていないことを熟知しているのは、共闘してきた自分だったからだ。
「介抱してくれるってわかってなきゃ、初めからおまえをここへ連れて来ないぜ、ココ」
 真正面からどこか生真面目に語る顔面が、思ったよりも近かったことに今更ながらに気がついた。
「…………さっさと湯に浸からないと、風邪引くぞ」
 ぼつりと低く凄みを利かせて呟くと、そうだそうだ、と今はじめて思い当ったように、大げさな相槌を打つ。
 全裸のまま、至近距離でする話じゃなかったな、と心中で後悔しつつ、やれやれ、とようやく自身の着衣に手をかけた。
 適度に身体を締め付けるボディスーツのような衣服をするすると肌の上で滑らせ、適当な高さの藪の上に放り投げる。
 テーピングのように血流の速度をある程度抑制するために巻いていた帯状の長い布を外し、一旦すべてを取り払ったものの、また同じ位置に包帯だけを巻きなおした。
 首と、上腕と手首の二か所、そして。
「そこは…要らねえんじゃねえの…?」
 ぼやきのような台詞が耳に届き、ん?、と横目で、いつの間にかこちらを注視していたらしき友人を振り返る。
 どうやらトリコが言っているのは、腿の付け根の箇所のことであったらしい。
 しかし、足首にも巻いているのだから、念には念を入れるに越したことはない。
「とりあえず、安全弁ってとこかな」
 そうかあ?、と甚だ納得をしていないようなことを水中で漏らしつつ、トリコの顔の下半分がお湯に浸かった。会話の途中、ぶくぶくと眼前で大きな泡が起こる。
「頭は寝る時と一緒で巻いていないんだから、文句を言うな」
 いまいち要領を得ていないことを返すと、胡乱そうな視線で見つめてきたが、青髪の戦友は特に言うべき言葉が見つからなかったようだ。
「…の方が、よっぽどヤベエんじゃねーの」
「ん?」
 何だ、と片言で聞き返すと、肩から上を水面に出し、大げさな溜息を吐いた。
「いーよ、いーよ。おまえの好きにやってろよ」
 何を当たり前のことを言っているんだ、と思っていると、ざぶざぶと湯面を揺らして、早速入ろうと片足だけを浸けた目の前にやって来た。
「おい。お湯が濁るから、あまり近寄るな」
 思わず片手を前方へ突き出し、眉間を寄せてむっと不機嫌な面を浮かべると、投げやりな返答が返ってきた。
「良いだろ、別に。広いんだし」
 ただでさえ、美食屋にはでかい図体の男ばかりが多い。人のことは言えないが、と胸中で注釈を加えつつ、小言のようなことを言ってしまう。
「おまえがいると、広いはずの場所も狭くなるんだよ」
 才能に恵まれているその中でも、特に優れているという意味で邪魔だと言い張ったのだが。
「一々喧しいんだよ、ココは」
「……!」
 咄嗟に、口うるさくさせているのはどこのどいつだ、と言い返しそうになって、これではまたいつもの問答だ、とぎりぎりのところで自制心を奮い立たせる。
 普段なら寝ているような時間に、わざわざ疲れるような行動は取りたくない。
 そんな、損得勘定が先行したのだが。
「…何で、ボクの隣に来る必要があるんだ」
 とりあえず、無難な質問をぶつけてみる。
 ああ?、とトリコは面倒臭そうに聞き返したが、すぐさま良いことを思いついたと言わんばかりの体(てい)で、すっと頭の真上を指差した。
「そっちの方角から眺めた方が、良い角度で月が見えるんだよ」
「………………」
 確かに上空には、わずかに欠けてはいるが大きな人工の月が深い闇色の中に浮かんでいる。
 わかった、じゃあボクがトリコのいた岸へ行くよ、と立ち上がりかけたところで、ああもう、面倒臭えな、とがしがしと相手は片手で硬い髪をかきむしった。




-2008/11/12
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