なるべく力を加減し、けれどかなり強く、ふくよかとは言い難い若干色のある頬を叩く。
集ってくる(たかってくる)蝿を払い落とすような仕草が返れば、OKの印。
「酒の成分は、毒じゃねーのか?」
おい、と茶化すようにピアスの鎖が揺れて無数の光を反射する耳元で息を低く吹き込むと、すでに正体がなくなった相手は長い指を分厚い首の裏に回してきた。
泣く子をあやすような手つきで背中をぽんぽんと叩いてくる。子どもなど扱った験しもないくせに、どこで覚えてきたのか。
それとも、反射のようなものだったのか。
とりあえず、酔い方は無難な方だ。以前は酔わせ方に失敗して、本当に苦しそうに脂汗を浮かべながら上体を屈めていたことを思えば、今のように煙ったような長い睫毛を浅く伏せ、絹のような吐息を薄めの唇から時折漏らしている方が大層安心できた。
「避妊はしねーからな」
口元だけで笑いながら、近距離から覗き込んだ相貌に脅しのような低音で呟くと、したことないだろ、と、鮮やかとも言える緑の巻き布で頭部を覆った黒髪の持ち主は、覚束ない舌をゆっくりと動かした。
そりゃそうだ、と思わず屈託なく笑い声を上げる。
食材となる種類は疎か(おろか)、食害や人害が恐れられる猛獣の遺伝子すら保管し、研究に使っているような連中のいるところに少年の時分から所属していたのだ。
自身やココの遺伝子を受け継いだ子どもが、所有者の許可なく作られていたとしても不思議ではない。
だから、自分にとって異性との婚姻は必要のないものだと考えている。
恐らく、ココもそうだろう。
否、あそこで高等レベルの訓練を受けさせられていた者は、誰もがIGOが隠し持つ裏の研究に気づいていたかもしれない。
倫理的に問題視されるのではないかと思われる数多の実験を繰り返し、世間には公表していないような裏の仕事も多いと聞く。
世界の食材の流通や市場の調節を一手に引き受けているだけはあり、評判は悪くない。混乱なく市民に安全な食料が行き渡るよう、采配を行うのがIGOと呼ばれる巨大組織だからだ。
けど、まあ。
その恩恵とやらで、後々の子孫のことを考えなくて良いというのは、正直悪い話ではない。
家族という名の絆を顧みず、美食屋の稼業に全身全霊で専念することができるし、好きに食べ、好きに寝て好きな時に行動を起こせる、スケジュールに縛られることの少ない独身の生活は性に合っている。
無論、活きの良い食材を狩って市場に卸す役割を、誰もが専業で行えるものではない。
価値が高いと認識されるものであればあるほど、密林や人の出入りが簡単ではない環境で息を殺して潜んでいるのだから、獲物を生け捕りにする難易度は格段に上がる。
現実に捕獲するまで時間がかかることもあれば、依頼を受けた場合は、その内容の通り、一字一句間違いのない中身の任務遂行が難しいこともある。
常日頃から収入の条件が一定ではなく、世界中を飛び回りながら、しかも自身の命すら懸っているとあらば、やはり家庭を持つ人間がそれに従事し続けることは容易ではないだろう。
だから、と思う。
自分やココなどの、身内がどこの誰かも定かではないような、あるいは肉親が組織に属しているような連中には、都合の良い生業だと。
少なくとも、美食屋の能力にそれなりの自負があれば、苦しいだけの道のりではないと思っていたからだ。
そろりそろりと、まるで食事をする前の、手に入れた極上の獲物を手にとって自らの触覚で質を確かめるように、凹凸の少ないココの頬を指で辿る。
中指と薬指でなぞるその肌は肌理が細かく、自らの毒を体内に内包しているからこそ、その表面は滑らかで穏やかだった。
皮膚腺のどこからも人体を侵す毒素が溢れていない証拠のような、かすかな引っ掛かりすらない真新しい蝋か磁器のような肌。
どこが好もしいかと問われれば、ココのここかもしれないと思いながら、掌を伸ばして存分にシルクのような感触を堪能する。
そんな優しい手つきは、普段の姿からは考えられないと、もし相手がまともな状態であったら、そう揶揄されたかもしれない。正気の時は、さも馬が合わないと言わんばかりに憎まれ口を叩くが、それも時と状況に因った。
本当に、こちらの身を案じているときは、決してココは不安を隠さない。臆面に出さないよう心がけているつもりだろうが、生来あまり乱暴な性質ではないからこそその変化は明らかだった。
ゆえに、横暴な性格の人間には臆病者だと罵られるが、慎重論と優しさが必ずしも悪いものではないと思わされるのは、ココの真摯な眼差しが何より雄弁に物事を語っていた。
確かに、難度の高い仕事の前では二の足を踏み、腰が重いような場面では苛立ちを覚えることもあるが、多くの場合、それらの躊躇はココ自身のためなどではなかった。
自分の身を守ることに絶対の自信がありながら、おのれの身内と定めた他者に不条理が降りかかることを懸念し、先回りをして自分を諌めようと試みることが専らだった。
だからこそ、相手の不安材料を無理にでも取り除いてやらなければならない手間があるわけだが、そういった慰めに近い言動をされても、ココ自身は絶対に他人に甘えようとしない部分に好感を覚えた。
孤高というか孤立というか。完全に自立した人格なのだという事実を付き合っていくうちに悟ってからは、こいつじゃなければと思う、ある種の必然性のようなものを感じるようになっていた。
部外者の干渉を一切受けず、独自の思考、独自の信念だけで生き延びられる。
自分と同じ野生の動物のような体質と気質は、平凡な社会の中では滅多に御目にかかれない。
ココの持つ、心を許した相手にのみ見せる過度の庇護欲は、裏を返せば群のリーダーとなれる器であるという根拠と通じる。
自らの心に属した者を気にかけ、懐を極力開き、手厚く持て成そうとする謹厚の意思。
友人を多く持たないからこその大袈裟なギャップなどではなく、相手は本能的にわかっているのだということを、言葉ではなく肉体が実感する。
本当に守るべきものは何なのか。
家族でも、恋人でも伴侶でもない。
自分が認めた、自分自身の生き方。
導(しるべ)のようなそれを、愚直に守り続けること。
まったく正反対ではなかったが、噛み合わないと思われた性格の根本に、同じ、生命に対するやさしさを見た。
普段の生活からは考えられないほど丁寧に、一枚一枚、グラム単位で何万円に相当するかもわからないような珍味の、上等な皮を剥ぎ取る時のように、ココが身に着けていた服を慎重に取り除いて行く。
本当は後先を考えず粉々に破いてしまう方が手っ取り早いのだが、素面の時に相手の家でそれをやって以来、物凄い形相で睨めつけられることが頻繁になった。
おまえは性欲猛々しい猛獣か、と心底見下したような目線で毒舌を吐かれ、確かに大人げなかったな、と若干なりとも後から反省をしたからだ。
同じ食うなら、手間をかけた方がより美味い。
口中に溢れ出して来る唾液を都度飲み干してはいるものの、全部を下しきれず口端から数滴が筋となって床に零れる。
まどろんだような風情のココからは、いつもよりもはっきりとした匂いを嗅ぎ取れた。
熟れた果実のような、熟した獣肉のような。体内で眠っている食欲を自身でも未知である酷く不鮮明な奥底から出ておいでと誘い出すような、重厚で独特な芳香。
それがココの持つ、自然界にすら存在しない未曾有の毒質を表わしていることを念頭に据えたまま。
いつもは誰にも触れることすら許さない布製の被り物を手で横へずらすと、自分よりも明らかに短いが、癖のある柔らかな毛髪が数本米神に落ちてきた。
思わず軽く口笛を吹き、他に聞き咎める者のないことを今更ながらに確認する。
いつ見ても見事だと思うのは、一筋の白髪も金髪も含まれない、真黒な黒炭を模したような髪の色だ。
自身のように軽薄そうな色彩ではなく、深く重い深淵の底のような黒色は、天然の鉱石でも色合いを保っていられるものはごく少数だ。
確かに中には似たような黒髪の人間は多数存在するが、ココの持つ異色とも言える風合いは、到底言葉で表せられる次元にはなかった。
少なくとも、自分にとってはその価値がある。そう錯覚をしているだけかもしれないが、惑わされるのも、それ自体が持つ抗い難い魅力のようなものだろう。
人生のフルコースと呼ばれる、美食屋を名乗るのであれば一人残らず目指している至高の概念に加えたいとすら望む食材がココであるのだとしたら、どのメニューが相応しいのか、それすら思いつくのに思考が真っ当な働きを行わない。
事実、おのれの空腹を満たすわけでも、嚥下した後の細胞が得る充足感が約束されているわけでもない。
なのに、手を伸ばしたいと願う、本能的な衝動を興させる対象。
こういったものは理屈ではないのだと頭で理解しながら、いつしか眠りによって閉ざされた双眸を覗き込む。
一見しても特徴的だとわかる厚い瞼には、うっすらと二重の線が浮かび、男にしては幾分長過ぎるのではないかと思わされる、しっとりと濡れた睫毛が密かな寝息とともに揺れている。
滅多に外気に触れることのない頭髪が見た目を裏切って緩く柔らかく動いているのを半ば夢見心地で眺めつつ、本当に寝るなよと頬骨の肉を強めに摘まむと、煩わしいような身じろぎを見せて、再び細い瞳が開かれた。
「………………」
何事かを発そうとして、口元から零れた淡い呼吸に物音が紛れる。
これほどまでに無防備な態度は珍しいどころか、絶対に見ることの叶わない光景だ。
何を隠そう、酔いを理由に事に及ぶことも、要するにココに逃げ場や言い訳を探させてやる手伝いをしているに過ぎない事実を飲み込んだ上で、謀っているというのが真実だ。
ただでさえ他人との接触をできるだけ拒み、性交渉など以ての外(ほか)だと考えている石頭には、これくらい強引なやり方の方がよほど親切だと思うからだ。
体液を自在に毒液に変換させられる能力の保持者であるとはいえ、性的な交渉中に万が一にも相手の女を死に至らしめないという保証はない。
だからこそほとんど禁欲的に過ごしている私生活を憐れんで、自慰の延長気分で、友情だと勝手な解釈をくっつけて手を貸したまでは良かったのだが。
「……ここまではまっちまうとは、俺も予想してなかったんだぜ?」
ココ、と唇を動かして名を呼ぶと、自分の家の食卓に突っ伏したまま横を向いていた白い相貌が小さく微笑んだ。
恐らく生来の、生まれながらに相手が持っていた感情表現のひとつなのだろう。
その表情は生まれたばかりの獣の赤子を見ているようで、微笑ましくはある。
儚いものに対する本能的な愛しさもあるが、それ以上に。
貪欲な食欲が、すでに喉元まで昇ってきている。
これを制御する気など微塵もない。
感情の伴わない行為でも問題はない。
随意にはならない衝動を見出したのは、自分が先だったのか、相手が先だったのか。
「どっちだって、変わりはないってか…?」
はははと声に出して身体全体を揺らしながら笑っていると、遅い時間に馬鹿笑いをするな、近所に迷惑だろう、と呂律の回らない舌で舌打ちをされた。
正体不明でも、ココの悪たれ口は健在であるらしい。
-2008/11/13
→NEXT