餓鬼の時分は、殴り合いで喧嘩もした。
手を出すのは常に自分が先だったが、諍いの口火を切るのはいつも相手で。
当時は同じ美食屋を目指す仲間たちの中でも特に仲が悪いとの評が専らだったが、ある時を境にそれらの誤解は呆気なく解けた。
あれは、何が切っ掛けだったのかと思い出すことすら難しい。
それとも、単に照れくさいだけなのか。
定められたメニューを淡々と、けれど過程のわずかな変化からも何かを学び取ろうとするかのように、一つひとつを紐解くように、目的と定められたターゲットの元へ向かって行く。
演習とはいえ依頼主である研究所へ戻る自身の手土産となったのは、極上の霜降りが蜜を食むように柔らかくとろけると評判の、野生の蜜黒牛だ。
養殖用として一般の牧場でも飼育されているが、自然界で育った天然は、その図体の巨大さと言い勇猛さと言い、本来は群を作るはずの種類であるにも関わらず、抜きん出で勇ましい雄に限っては単独で行動している。
首から胸にかけての黒い体毛が棘のように逆立っており、鉄砲の弾も弾き飛ばすという厄介な代物だ。
人が手を加えて毛皮を柔らかく改造したものもあるが、自然界と同じ条件が整えられているIGOの『庭』では、人の手が入っていない純粋な黒牛が放し飼いにされていた。
それを獲物と定めた本日のメニューは淀みなく終わり、薬を使わないノッキングという麻酔法を施した猛獣を組織の中央に位置する大きな建物へ提出をしに行った折のことだ。
受付の人間も去ることながら、机の後ろで忙しそうに駆けずり回る研究所員の様子が見るからにおかしかった。
まるで普段着のような厚手の木綿のシャツと苔色のハーフパンツを着込んだまま、さっさと受け取りのサインを寄越せと催促をしようとした刹那、常人の示す数値より二回り以上優れている聴覚が、途切れ途切れに聞こえてくる単語を拾った。
包囲したが、近づくことができない、と主語を伏せた耳打ちが、情報を取り仕切るオペレーターの口の動きからも読み取れる。
一瞬、何のことを言っているのかがわからず、慇懃に尋ねるのも億劫で、机越しに伸ばした太い腕をスーツ姿の事務員を締め上げるように巻きつけた。
「どっかで、実験に失敗した猛獣でも暴れてんのか?」
まんまと大木のような上腕に捕まった所員は、こちらが何者かをはっきりと認めた上で、蒼白な顔をさらに醜く強張らせた。
そのまま死後硬直で表情筋が固まってしまうのではないかと思われるほど、強烈なストレスに晒された部下を哀れと思ったのか、部屋の奥で仕事用のデスクの上に軍用のブーツを履いた泥つきの両脚を投げ出した、大きな影が問いに答えた。
「ココだ」
簡潔な返答に、束の間目を丸くし、そして怪訝な顔つきを作る。
主語がココなのか、それとも包囲して踏み込めないでいるのがココその人なのか。
欲しがっていた質問の回答を得られることに成功はしたものの、それが大して興味のない内容であることを理解する。失せた興味をどういった方法で手放せば良いかと適当に思案していると、禿頭の男の独白のような呟きが耳に届いた。
「『制御に問題はない。』……買い被りだったようだな」
感情のない。あるとすれば、失望か同情か。
起こってしまった事態について、今更咎める意思などないという口振りが自身などはるかに上回る上背の大男から齎された。
「…どこにいる」
我知らず口を出たのは、無謀なだけの問いかけだった。
驚いたように、平凡な才能しか持っていないような職員の何名かが、死出の旅路に就く人間を見つめるような目線を送ってくる。
どうやら、絶望に打ちひしがれるほど、大それた状態にまで追い込まれているらしい。
今も壁と同化したような大型の機械からは、閉鎖したブロックのナンバーが次々と報告されている。
耳で拾った音声から察するに、どうやら沼地のある西の区画を示しているらしい。
そういえば、今日のあそこの天気は雨だと聞いていた。
口早な連絡を黙って聞いていれば、ココが向かった先からさらにその周辺にまで閉鎖区域が拡大しつつあるようだ。
様々な怒声が飛び交う情報の中、ココの、というスピーカーからの雑音に、反射的に顔を傾けていた。
「…半径五〇キロに、生きていると思しき生体反応は見つかりません」
汚染の中心から毒性の物質が次々と伝染し、範囲を拡大していると続く。
エリアを頑丈な防護壁で何重に封鎖をしても、土壌の表面だけでなく空気や地中を伝って、流れ出した猛毒が施設を覆い尽くそうとしていると、悲鳴のような音声を響かせ、繰り返す。
更には、有毒なガスから逃れようと死に物狂いで安全な土地へ避難しようと暴れ回る猛獣たちの始末にも手を焼いているらしい。
「………」
鍛え抜かれた四肢と豪腕の持ち主は、椅子に踏ん反り返ったまま、やれやれと銜えていた葉巻をずらして、大仰に濃い煙を気道から吐き出した。
「今のうちに、仕留めておくか…?」
こちらに語りかけているようで、やはり独り言のような低い音(ね)が続く。
「…上の奴らから処分を言い渡されないうちに、『おまえたち』の手で廃棄しておくか。」
絶対に選択肢にもないようなことを放言していることは明らかだと、第六感が告げている。
IGOで大規模な研究所を統括するこの男は、他を凌駕するほどの才能を秘めた自分やココらのことを、誰よりも高く買っている。
投資対象などではなく、飽くまでも教え子の一人と認識している人間を、そう簡単に廃棄処分になどと語れるわけがない。
「ココの一人や二人、俺が連れ帰ってやるぜ?」
自身が最高の食材として狙い、目指しているアレに比べれば、大した難物ではない。
このまますべての領域が鼠一匹這い出せないように隔離されてしまえば、そこに残された人間はどうなるのか。
正確には、組織の内部で人工的に作られた環境で見捨てられた美食屋はどんな末路を迎えるのか。
正に廃棄という名の処分という決断を下されたに過ぎない、人ではない存在に落とされる。
「自信があるのか…?」
喉で笑うような素振りで尋ねられ、両手を腰に当てたまま遠くから不敵に笑い返す。
「あいつ一人くらい。大した手間は、かからねーんじゃねえの?」
現状については、飛び交う怒号と緊急のコールを聞いただけで大体の輪郭は掴めた。
ココの生死を確認をしに出かけた武装兵士集団は、全員生還しなかったこと。
防護服を着用した研究所の所員や科学者たちですら、高濃度の瘴気の前では成す術がなかったこと。
難易度で言えば軽く三十を超えるだろう高難度の獲物と思えば、実戦の予行練習と言えなくもない程度のアクシデントに過ぎなかった。
一人熟考するようにマンサムはしばらく黙りこくっていたが、やがて重い頭を持ち上げて、言って来いと動作だけで命令を下した。
「ココを、連れて帰れ」
死体でも良いから、兵士の亡骸もな、と付け加え、葉巻から深々と分厚い紫煙を吐いた。
「さ〜て、」
新たな指令を受け、いっちょ行くか、と掛け声を残し、昼食のメニューを仕入れに出かける時のように気負わぬ雰囲気のまま、コンクリートの広い建物を後にした。
強い毒性が、充満する大気だけでなく踏みしめた地面からもぴりぴりと強烈な刺激として伝わり、服の下からも鍛え抜かれた頑丈な肌を総毛立たせる。
防毒用のマスクを装備した隊員から、地図でココが倒れているらしき場所を示され、自身の目でもそこへ辿り着くまでのルートを再度確認をする。
「ここを迂回して、真っ直ぐ、だな」
途中で対毒用の植物を数種類拾って、自分の体力を回復させつつ進む方法を検討する。
時間がかかれば、それだけおのれの体力が奪われる状況であるだけに、短時間での決着が望ましかった。
「ココを見たか…?」
生きているのか、と尋ねると、恐らく、というどっちつかずな返答が返った。
姿を見たと証言した兵士は、その後通信とともに消息を絶ったので、恐らく濃い毒の霧に足元を取られて遭難した可能性が高いと説明する。
面倒だと直感したのは、有毒な物質が空気にも水にも溶けている事実だ。
毒を含んだ雲霧が立ち込めるほどの現象が見られるということは、もしかするとココにとって限界以上の量の猛毒を生産し、放出してしまったのではという懸念もある。
元々体内に保持しているのではなく、体液をそれに変える特質を持っているだけに、外に出た分の水分の規模が気にかかる。
兵士一人どころか、当人ですら生きて連れ戻るのはもしかしたら不可能かもしれないと覚悟を決めつつ、自分とココ用に清潔な水を運ぶために厳重に密閉できる水筒を用意するよう手配した。
わずか数分で準備が整い、ピクニックにでも行くような気楽さで斜めにかけた荷物を背負い、じゃあなと片手を上げて別れを告げると、腕を下ろす前に大きな地鳴りとともに背後のシェルターの扉が閉められた。
生憎とまともな記憶は、そこからぷっつりと途切れている。
気がついた時には、医務室のベッドの上で、仰向けの恰好で寝かされていた。
上掛けからはみ出した両腕に取り付けられた数本の管からは、無色なのか有色なのかわからない液が点々と上から下への反復運動を繰り返している。
組織の医療に携わる所員に尋ねると、どうやら途中まで、ココと行方不明だった隊員を担いで、自分は正常なエリアの手前まで戻ってきたらしい。だが最後は、気を失ったように自失していたはずのココが、力尽きたメンバーを背負って自身とともに外の隊員に声をかけたという。
あれだけの容量を放射しておいて、どこにそんな気力と体力が残っていたのかと口さがない白衣たちは声を揃えたが、当の本人も今は意識をなくして集中治療室で倒れているという。
「……………」
会話が終わった後も、今回の件に関してミッションの責任者であるマンサムの進退を問う内容や、事件の発端であるココ自身の処遇についての噂話は尽きない。
それほど、一件の被害が甚大であった証拠のようなものだが、今ここにいる連中同様、彼ら二人が処分を受けようと自分自身にはさほど関係がないと思えた。
目的はすでに定まっている上で、また新たに集中力を削ぐような事情を抱え込むのは御免だ。
ココについても、幾多の免疫実験の悪影響によって、解毒不能の毒を自ら生成する生き物に成り下がったとしても、同情するような感情は持ち合わせていなかった。
しかし、と思う。
何かが引っかかるのだとすれば、生きて連れて帰れと言われたココの元に辿り着いた直後の感慨だろうか。
立ち尽くした肢体は、所々衣服が剥げ、黒の布地から剥き出しになった白い肌は血のような濁りによって汚れていた。
整ったと評判の顔にも無数の染みが滲み出し、何よりもその表情。
回想がそこに行き着いた途端、ぞくりと背筋を得体の知れない何かが這い上がり、急激な悪寒に襲われた。
吐き気を催し、実際にベッドの上に内臓に残っていた未消化の滓を数回に分けて撒き散らした。
自分は一体、何を異変と捉えたのか。
その答は、やはり今も明確には出てこない。
けれど、あの、普段は強い意気に彩られていた眸に。
情感の起伏の乏しい平らな頬に。
浮かんでいたのは、あるはずのない無常の涙であったことを。
…極限の状態にあったはずの肉体は、その凄惨な光景をわずかにだが覚えていた。
-2008/11/14
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