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毒を食らわば皿までも
 数週間振りに見たその頬は、わずかだが扱けたような印象があった。
 限界まで削られた体力を、当時の最高レベルにまで回復させるのに、さほど恵まれているとは言い難い肉体に負担ががかからないはずがない。
 気丈に振る舞っている事実を悟られぬよう、くいと口端を持ち上げた優男の相貌は、強さよりもどこか哀れさを感じさせた。


「…命が危ないどころか、五体満足で復帰できて、運が良かったな」
 やはり今回も、挑発的な語調で会話の先頭を切ったのは向こうだった。
 現実にはケロイド状に溶けた皮膚の再生に一週間以上を費やしたが、ココの言うとおり、数日間麻痺が続いていた腕や足を失ったわけではない。後遺症と見られる現象がわずかながらも残っていなかったわけではないが、全快と言うには支障がない程度の力はすでに戻っていた。
 上の連中から最も注目を集めていた奴が残念ながら生き残ってしまったことに、ライバルの一人として不本意に思っていたことを臆面もなく告げる。
 確かにそうだと、悟りきった口調で目を伏せ口許に笑いを浮かべながら意味深に受け流すと、気力がそこまで復調していなかったのか、立って客を出迎えたココは隣に置かれていた椅子を引き寄せ、腰掛けた。
 どこか気怠げに脚を組み、背もたれに長い体を預け、こちらに悟られぬよう小さく溜息を吐いた。
 室内は、頭上のはるか先に明かりを取るための四角い窓が一つきりあるだけの、独房のような設えだった。
 些か殺風景とも思えるデザインの調度品が完備されているとはいえ、ココ自身には治療室を出てから一度も自分たちが暮らしている宿舎に戻る許可が下りることはなかった。
 半ば軟禁状態のように、あの事件以来、移動区域を制限され、密かに監視を置かれていることについては、他の奴らから聞いている。
 心配をする者、嘲る者。
 ココの風評はその大半が非難に満ちていた。
 巨大組織と認識されるIGOにとって、辛うじて大打撃というほど重大な変事ではなかったとはいえ、相手が残したものといえば、浄化に何十年とかかるかわからない汚染された土壌と大気。
 毒の成分を計るにも、高濃度過ぎて機械が役に立たないといった有様に、ココに対する同情は瞬く間に聞こえなくなった。
 しかも、事件を明るみにしてはならないと、今回の一件をすべてもみ消すため、上の役員どころか末端の職員までもが奔走しなければならない事態に陥ったと聞く。
 他の美食屋の卵はといえば、競合する人間は一人でも減るに越したことはないと考えているほどだ。
 自身や他の馴染みの仲間はこの件に関しては甚だ無関心ではあったが、ここぞとばかりに、どこかへ隔離して一生日の目を見させるなと豪語するような奴もいるくらいだ。
 しかし、そんな中傷や批判を気にするような玉ではないことは、昔から付き合いのあった自分だからこそ充分に理解している。他人の意見や悪意などに左右されるような器は、そもそも大多数を押し退けて、実力主義の世界でトップに君臨しようとする人間の中にはいないからだ。
 もし、相手に不覚があるのだとすれば。
「………レッテルが、確実のものになったな」
 これまで異名として通してきた名が、自他共に認める真実にまで昇格したと皮肉を口にしたのはココ自身だ。
 束の間瞑目し、鳥のように細く形の良い首を上空へ伸ばしたまま、ふう、と一息吐く。
 緩慢な動作で目の前に戻って来た黒い視線は、うっすらと夜露のような翳りを帯びていた。
「上等じゃねえか。…この際、上の奴らには好きなだけ、あたふたさせとけよ」
 どうせいつも面倒をかけられているのはこっちなんだから、と片方の頬を持ち上げて、上層部の連中の無能振りを揶揄する。
 それが決して慰めで口にした事柄ではないと、向こうも気づいていたのだろう。
「…ああ…。……その点は、組織に同情はしてないよ」
 それでこそココだ、と白い歯列を剥いて嘲笑うと、一瞬綻ばせた唇を、次の瞬間一本の線に引き結んだ。
 恐らく、思考回路が自分などより細部に渡って発達をしている分、これから先の進退について思うところがあるのだろう。
 どんな処分が下されたところで、悲観に暮れるような性分でないことは熟知している。
 ココは、自身ほど頑丈でもタフでもないが、比べる対象が恵まれた才能を持っているだけで、平凡な価値観からすれば、弱者には程遠い作りをしている。
 だからこそ、高がIGOが管理し保有する土地の約五分の一ほどを使い物にならない封鎖区域にしたとしても、自責の念で後ろ向きになるような人間ではないと確信していた。
 だが、微量に香ってくるココからの体臭は、どこか湿ったような雰囲気を感じさせる。
 本来人には見ることのできない波長の光線までもを捉えることが可能である当人であれば、その匂いを発している人物が今現在どんな心境に置かれているのか、その仔細までを掴むことができただろう。
 無論、嗅覚ひとつを取っても、人間の内面の微細を嗅ぎ取ることは不可能ではない。
 しかし、ココに限ってというわけではないだろうが、巧妙に他者に内心を悟らせない術に長じている輩もいる。
 それが、滲みだすおのれの本心を無意識に誤魔化してしまう悪癖のような代物であることは間違いないが、一割ほどはココ自身も好んで行っているのではないかと何となくではあるがそう直感していた。
 今はその、隠れた影を、見過ごして良いのか、否か。
 思案に耽る時間は、どうやら残されていなかったようだ。
「…………ボクは」
 ぽつり、と聞こえてきた低い声音に、ぴくりと耳が反応を示した。
 次に何が続くかは予想できなかったが、神妙な面持ちで待つ耳に、おまえが嫌いだと、わかりきったことを告げられる。
「……………」
 聞き慣れた文句であっただけに、特段思うところはない。
 問題は、どうしてそれを、わざわざこの場で口にしなければならない状況に、ココが追い込まれているか、だ。
「…汚らしい奴は嫌いだ。…中身も外も」
 不潔で品がないところを見るだけで、どんなに目を見張るような才能を持っていても幻滅をしてしまうんだ、とフォローのような意味を最後に付け加えたものの、やはり生理的に嫌悪をしているらしき心情がひしひしと伝わってくる。
 不器用な奴。
 相変わらずな潔癖症にわずかに辟易しながら、しかし神経細胞がこの状況に微量な警告を発している。
「……なのに、」
 言葉を区切り、伏せた顔の下で、ココの食い縛った歯がぎしりと軋んだ。
 ゆっくりと、刺激を与えないよう。けれど真実は特に急を感じているわけではなかったから、のんびりと。
 腕を伸ばして、大分低い位置にある黒い普段着を着た肩に触れようとして、予想通り強烈な拒絶に会った。
 ボクに触れるな、と。
 抜群の運動能力と反射神経が幸いしたのか、弾き飛ばされた反動をものともせず、逃げるように離れた右手を抑え込むように、難なく掌ごと手首を掴み上げた。
 下手に抵抗を見せれば却って相手を逆上させてしまうことを呑んだ上で、その解釈は今ここでは相応しくないと、思考よりも細胞が答を弾き出した。
「…ッ…!」
 美食屋として高度の訓練を受けているだけはあり、もちろん向こうもやられてばかりいるわけではない。
 間髪を入れずすぐさまもう片方の腕が顔面を狙って叩きつけられたが、スピードでは敵わないものの、頭部を狙うと最初からわかっている以上、リーチの差でこちらに到達する前に動作を封じ込んでしまえる。
 上空で手枷を嵌められた囚人のように、呆気なく両手を捕えられた側は、苦痛によってか屈辱によってか、端正な相貌を酷く歪ませ牙を剥き出しにした。
 嫌悪感が露骨に表れた形相はしかし、こちらに対してだけ向けられているものではなかった。
「……放せ……」
 完全に昂り、感情は頂点を見ているのに、全身で怒りを分散させているような、押し殺した怒声が鼓膜を奮わせる。
 見目よりも大人びた低音の声調がココの特徴であり美点でもあったが、猛る自らの意思によって意のままにならない語尾の震えが、広くて狭い部屋の一角で唸るように響いた。
 だが、戦友の取り乱した姿を見ても、おのれの中に発すべき言葉は浮かんでこない。
 さらに続けろと言わんばかりに、無機物でも見るような醒めた目線で心情の暴走によって次第に正常な呼吸を乱していく相手の様を見下ろしていると、自由を奪われたココは吐き出すように罵言を叩きつけてきた。
 普段であれば絶対に、胸中で思いこそすれ口に出すことのない汚い罵りが、整った色の薄い唇から立て続けに飛び出してくる。
 さすがに騒ぎに気づいた監視員が部屋に踏み込もうと近づいてきたが、その存在も頭から無視した。
 なぜなら、諍いになる可能性は限りなくゼロだと直感していたからだ。
 ココが見ているのは、自分ではないと。
 何に、爆発寸前の怒りを覚えているのか。憎悪し、全身の毛を逆立てて威嚇し、怯えているのか。
 やはりここでも、五体を司る肉体の方が状況を鋭敏に捉えていた。
「………っ死ねば、良い」
 血を吐くような叫びは、溢れだす負の情感によって熱を含み、声音全体は掠れ、干乾びていた。
 この世から消えてしまえば良いのは誰なのか。
 吐き出す息の、噴き出す汗の細かな分子にすら、堪え難い激情が溢れ、漲っている。
 この世界で最も醜くて品のない、毒人間のボクなど死んでしまえば良い。
 叫び声でありながら独白のような、明瞭な発音と音声は、心の底からの慟哭と嘆きと蔑みだったのだろう。
 見下し、差別していた自身が最も汚濁に塗れ(まみれ)、人類にとって、世界にとって、害でしかない存在であると。
 そう、自らに決定を下したココ本人を、責めるつもりはない。
 ここでもやはり、無感動の目でしか相手を見つめることができなかった。
 何を言っても甲斐がないとわかりきっていたのは、単なる失望のためではない。
 滅多に吐露することのない、密林の洞窟の奥に隠され、埋もれていた素の本心と、その所在を明らかにさせること。
 見ないように目を逸らしているような人間より、たとえ今だけ、その一端とはいえ、曝け出した方がはるかに増しだと理解した上で。
 尚も激昂によってぶるぶると震え、歯の根を鳴らすココの両手を、気配を悟られぬほど静かに放した。
 するりと滑るように重力に倣って落ちた自らの両腕を見つめながら、かすかに周囲を包む異様な静けさに気づいたのか、ココの黒い双眸が相手を探して焦点を合わせる。
 その、刹那。
 ごり、と小さな頭の下目掛けて、大きな頭突きを食らわせてやった。

 かつて、喧嘩犀(さい)と呼ばれる、視界に入った生き物すべてに突進し、攻撃してくる危険な動物と闘り合ったことがある。その際、体長数メートルに及ぶ獰猛な雄を一撃で仕留めたほどの威力があった。
 事実、相手の顎の骨が木っ端微塵に砕けても不思議ではなかったのだろう。
 口の形が拉げ(ひしゃげ)、穴が開くほどではなかったが、見る間に白い皮膚は破け、変色し、どす黒い血の色を滲ませて行く。
 上体が、衝撃を受けてから数秒後。今更のようにふらつき、間を置いて下肢に影響を伝えたのだろう。
 がくがくと立っていられないほどの振動が爪先から脹脛を襲い、背後に尻餅を突くような形で、ココは冷たい床の上にぺたんと座り込んだ。
「っ………」
 現状を把握できずに驚いた顔が、見上げた天井に視線をさ迷わせる。
 それがふと、おのれ以外の人物の存在に初めて気がついたように、ぴたりと眼差しが重なった時。
 その時、なぜか。
 自らの命に害をなされる反射を示して身の内から這い出した毒性の鮮やかな皮膚色の上に、今まで切羽詰っていた子どもが突然くしゃくしゃに相好を崩して泣き出す瞬間のような、幼い感情が浮かび上がった。
 しかしそれは明らかな形にはならず、瞬きの間に霧散してしまう。
 たった一瞬の変化だけを見せて、やがてココはくっくと細い肩を揺らした。
 ついには声を立て、裂けて痛む口の傷すら気にしない風に、笑いながら後ろの床へと倒れ込んだ。
 長い手足を悠々と伸ばして大の字になり、冷たいコンクリートの上で、よほどおかしかったのかしばらくの間笑い続けた。
 まるで、どこか投げやりのような態度に、呆れと不安が知らず胸裡に浮かんできた。
 だがその懸念をわずかな電磁波の変調から読み取ったのか、にやりと薄い口唇を歪めて制す。
 皮肉屋の挑発めいた、不遜な顔つき。
「……腹が減ったんじゃないのか?」
 四天王一の、食いしん坊ちゃん。
 掠れてはいるが、しっかりと芯の通った。太めの声調で均整のとれた喉を震わせる、明瞭な発音が届いた。
 いつも通りの、自信家めいた口振り。
 気障を気取るような普段の調子を受けて、あー、とぼやくように単調な音を無意識に吐きだした。
「そうだな。…くだらないことにつき合っちまったおかげで、随分くたびれたぜ」
 おまえのせいだぞ、ココ。
 揶揄ではなく本気でそう思っていると首と肩の骨を鳴らし、口振りでも手振りでも主張すると、切れのある大きな目元だけを細めて、有毒な人間に化身した側はかすかに微笑ったようだった。
 行け、と退室を命じるように、滑らかな手の甲を見せてしっしと追い払う素振りを見せる。
 諍いを聞き咎めて思わず踏み込んできた監視役の研究所員と顔を合わせ、どうやらこのまま放置しても問題はないと判断して、まるで何事もなかったかのようにココと別れた。


 それからさらに数日後、元の生活に戻るまで。
 周囲が予期していたとおり、ココは組織の上層部から第一級危険生物の判定を下された。
 生命そのものの保証はするが、一生監獄のような研究室から出てはならないと。
 生身の人間で初めて厳重な警備と防護壁で仕切られた一室に送り込まれたココの元に出向いた自分は、やはり現状に些かの退屈を感じていたのだろう。
 とりあえず、顔を見に行ってやるくらいは吝か(やぶさか)ではないと判断し、足を向けたのは、義理を感じたからではない。
 あの時、自分に殴り倒されたとき何を思ったのか、その真意を確かめたかったわけでもなかったのだが。
「…おまえのお蔭で、目が覚めたよ」
 そう言って、後ろ髪を引かれることもないまま別れを告げた緑と黒の姿は、惚れ惚れするほど凛々しく、楚々としていた。




-2008/11/17
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