「許可が下りないってのは、どういうことだ……?」
恫喝する意図は込めず、畳みかけるように緩慢に一語一語を舌で転がす。
体格的な理由から、頭上から見下ろす立場である以上、威圧感を与えないわけはないだろう。
タオル地のシャツに、膝丈までのラフなパンツを着込んだ姿は、一見気楽な装いであるのに、その下に張り詰める筋肉の度合いは並大抵の猛者をも凌ぐ。
年齢的にも今だ青臭さが抜けきったわけではないが、佇まいはそれすらも超越した観があった。
普段は人懐こく、決して他人を寄せ付けない人間ではないが、それとは違う一面を見た者は彼が必ずしも友好的とは言えないことを実感するだろう。
声音からも滲み出る王者の風格は、自然界における強者の威勢そのものだ。
「…俺は、ココの顔を、見に行きたいと言っただけだ」
それがどうして、局長の許可を得るまで、一か月間も待たされなければならないのか、と。
念を押すように今一度尋ねると、応対した事務員は緊張で強張った面を更に引き攣らせた。
どうもおかしい、と思ったのは、今回が初めてではない。
毎度、面会というか、ちょっと様子を見るだけだと言って、ココが組織内で隔離されているゼロ棟にある地下の研究室を訪れようとする都度、書類やら面談やら上層部の許可の取得方法やら、大層なことを告げられては七面倒くさい真似は御免だと自ら断っていたが、回を重ねる度に頑なにこちらを拒むような所員の対応には毎回疑念を抱いていた。
特が付くほど最上級の危険生物と見做されたわけではないだろうに、幾らなんでも厳重過ぎる。ココ自身は、普通に生活のできるレベルの制御が可能であることなら、新人の所員ではない限り誰もが周知の事実だ。
にも関わらず、まるで放射能が漏れる危険な物質から人々を遠ざけたいかのような、対処の深刻さは異様だ。
確かめなくとも、当人と自分、もしくは部外者を会わせたくないという何者かの作為が働いているのではないかと。
動物的な勘がもしもっと早くに働いていたら、と思わないこともない。
だが、自身と相手は、他者が認めるほど目に見えて親密な関係というわけではなかった。
数回ミッションで庭での野外行動をともにしたくらいで、あとは気の合わない人間だとの認識しかない。
出会った当時はそれほど険悪な仲ではなかったはずだが、些細な意見の食い違いで、よく喧嘩をしたものだ。
周囲の連中も、大人しく真面目だと定評のあるココがなぜ自分には特に辛辣とも思える辛口を吐き、遠慮がないのか、不思議がるほどだ。
常に常識的な行動を重視する相手にとって、自身の奔放な言動がよほど癪に障るのだろうと解釈していたが、完全に敵対するような間柄でもなかった。
他人とどこかで距離を置くようになったのは、無論、ココが毒人間とあだ名された頃からだ。
肉体が他の美食屋をも超えた、異質なものになってしまったとの認識がココから人を遠ざけ、本人も他者と接し、深く知り合うことを本能的に恐れるようになった。
けれど、そんなものはココが抱えた自らの傷であって、自分が顧る必要のない、負い目ではないと確信していた。
なぜなら、現実に悲劇と呼ぶべき変化があったとて、自分が態度を急変させなければならない根拠になどならないと悟っていたからだ。
その、警戒心と興味の希薄さが、後手に回らざるを得なかった一因であったかどうかは定かではないが。
実際、起こってみてからでなければ、修行に明け暮れる日々を過ごす自身は、この異変に気づくことができなかったかもしれない。
「差し入れを持ってくる度に面会を断られちゃ、こっちも大人しく帰るわけには行かなくなってくんだろうが?」
一度や二度の話ではないからこそ、こちらも困っているのだと回りくどい言い方をしてはいるが、眼は背後の事務員の動きを具に追っていた。
どうやらここの責任者が、部屋の中央で上司と連絡を取っているらしき素振りが見受けられる。
今更お偉方が乗り込んできたところで、自分を止められるわけがないと理解した上で、宣戦布告のように堂々と放言した。
「…そういうわけで、勝手をさせてもらうぜ」
みしり、と片腕を突いていたカウンターのテーブルが軋み、次いでばきばきと音を立てて真っ二つに割れた。
関係者以外立ち入り禁止と書かれたドアへ辿り着くなり、道行を阻もうと慌てて取り縋る所員と、緊急のコールを押せと命じる人の叫び声が交差する。
すぐさま警備に当たっていた数人の兵士が銃器を構えて室内に飛び込んできたが、特にそこへ気を配る必要などなかった。
無表情のまま、ちらとどこかで見たような顔触れの男たちを一瞥する。
「…おまえら…」
俺と、闘り合うのか?
一言も声を荒げることなく、全員の目をひたと睨み据えると、唾を飲み込む音すら水を打ったような静けさの中から聞こえてくることはなかった。
踵を返して数分。
ようやく重苦しい沈黙の闇から我に返った研究所員が口々に呂律の回らない舌で各自に指令を出していたが、制止の命令を聞かずに禁断の地へ足を踏み入れた者のあとを追おうとする者は、誰一人としていなかった。
「…にしても、相変わらず」
辛気くせえな、と笑いながら漏らし、どかどかと地面を外股に蹴り付けるような足取りで狭く長いコンクリートの階段を下へと下りて行く。
ココが押し込められた研究室は、エレベーターで下った先の、さらに下だ。
階を下る毎に、ナンバーが記された食糧貯蔵庫ほどの大きな扉が迫り、その多くは死後剥製となって飾られた歴代の危険生物であったり、それが持っていた肉体の一部や臓器や遺伝子などの保管庫となっていた。
生身かどうかの区別はともかく、人間で第一級との判定を下されたのは、ココの他にも実は前例がある。
IGOの能力が及ばず、身柄を確保できずに今に至るだけで、こうして大人しく監獄のような場所に自ら出頭したのは相手くらいのものだろう。
普通なら、逃げる。
社会と完全に隔離され、人として生まれながらに平凡な生命をまっとうすることのできない環境になど、誰が好んで身を置きたいと願うだろう。
なのに、甘んじて受け入れたココの気持ちの半分ほどは、わからないでもない。
だからこそ、その勇気と優しさを尊重し、敢えてこんな黴臭いところから抜け出して来いと唆すような真似だけはしてこなかったが。
不意に、鋭い嗅覚が何かの変調を捉えた。
死臭や保存剤の薬品臭の類いであれば、ここが曰くのある施設であるという建前からさほど頓着をしなかったが、血が混ざったような腐臭は、その中でも特に新しいものだった。
つと廊下を歩く足を止め、無表示の、白く塗装された分厚い鉄壁のドアに片手で触れる。
指先から伝わってくる温度は、常人では察せられないほど微量の熱を含んでいた。
この厚さ数十センチにも及ぶ鉛の壁を隔てた室内に自分以外の生き物がいるとの見解は、恐らく間違ってはいないだろう。それが、目的としている人物であるのか否か。
「………」
顎を持ち上げて数メートル先の天井を見上げ、無数に張り出したパイプの流れを読む。
清浄な空気の循環が行われ、水の配管と思しき装置も見受けられた。
こちらから声をかけて、音が内側にいる人間に届くとは思えない。
だが確かに、扉の奥からか細い音が届いた。
トリコか、と。
確信を持って告げたであろう一言は、しかし酷くやつれている。
消耗した人間が放つ、微弱な波動に、無意識にちりりと首筋の毛が逆立った。
高熱の針でいくつもの焼印を施されたときのような、わずかでありながら強烈な刺激は、半ば怒りのためだ。
生命を保証するとの組織側の方便は、所詮は口約束でしかなかったとの現実と、ここまで相手を疲弊させておいたことに対する自責の念が、胸中で殊更穏やかに渦を巻いたが、表面上は飄々と、憎まれ口を叩くことで自身の正気を促した。
「よお。……以前と変わらず…ってわけには、行かなかったようだな」
会うなり皮肉を漏らした相手にいらえは返らなかったが、少しだけ安堵をしたような印象が、見えない空気から伝わる。
もう少し早く来てくれれば、とココは吐息のような言葉を吐いた。
そうすれば、長く辛抱をする必要はなかったのに、と。
「今からでも、遅くはないんじゃないか?…ココ」
ん?、と年下の子どもに対して優しく尋ねるような口調で答を促すと、今度こそ、壁の向こうのココは深いため息を吐き出した。
静かで重い、疲れきった呼吸だった。
やがて、一呼吸置いて、頼みがあると告げた。
正常な息継ぎすら大儀であるらしきココが言わんとする先を察し、とりあえず安全なところに隠れろ、と命じたが、動く気配はない。
動く意図がないのではなく、動けないのではないかと心中で即座に直感したが、それならばと思い改め、力の加減の操作を拳大の大きさに変えて、掌を身体の真横へずらしただけの位置で壁を一度軽く叩いた。
こおん、と小気味良い音調が狭い空間に響き、次いでもう一度、今度は力の強弱に幅を持たせて、振動の波を一定の面積に広げる目的で同じ場所を穿った。
ぴしぴしと、張った水面の氷が軋み上げるような細かな音が扉全体に行き渡り、暫くして鉄板の内側から、まるで外壁の外側の部分だけが剥がれ落ちるように、かつてドアだったものは上から真下に向かって垂直に崩れ落ちた。
鉄粉を含めた屑が周りに散乱しないように仕向けたつもりだったが、やはりわずかな埃は立った。
ガラクタに姿を変えた鉄片を踏んで目的地へ侵入を果たすと、ようやくそこに探していた人影を見つけた。
「……………」
ベッドと言うにはスプリングすら満足に入っていないような、手術台を思わせるような簡素な布板の上で、ココは静かに仰臥していた。
その、腕や脇腹。首筋や耳朶や、手指や足の指の先に至るまで。
張り巡らされたように刺さった皮膚から伸びる管は、栄養剤の注入と、そして別の溶剤用のものだった。
両サイドと枕と足元の上下に、まるでココを囲う檻のようにして佇む点滴用のスタンドを忌々しげに一凪ぎですべてを横倒しにすると、案の定甲高いような金属音を立ててがしゃがしゃと床へ崩れた。液体が収まった袋が跳ね落ち、靴の真ん前に転がってきた瞬間、無感動のまま部屋の隅へ蹴り飛ばした。
ココはその耳障りな騒音を聞くなり、蝋のように沈んだ色調の表情にかすかに苦笑を浮かべたようだった。
白く痩せた頬に血の気はなく、限界まで体液が搾取されていることは一目瞭然だ。
栄養剤で生きながらえてはいるが、健康体には程遠い。
ただの虜囚で、その上、組織の連中に良いように利用されている。
こんなものは、違う、と。
瞬時に湧き上がってきた衝動とともに発すべきだと悟ったのは、これがココの望んだ姿ではないという事実だった。
ここを出たい、と、物言わず告げられた相手の唇の動きに頷きを返し、体に繋がった管を地面に倒れた器具の根元から一息に引きちぎると、針を抜かずにココの肢体を担ぎ上げた。
時間を置いて、まるで凶悪な猛獣を仕留めるために結成されたような特殊部隊が、地下から地上に戻る直前、自分たちの前に現れたが、結局のところ兵士たちは与えられた指令を果たすことはできなかった。
力で押し伏せたのではなく、漲る精気がそのまま形となった威嚇の形相に気圧され、道を譲らざるを得なかったと表すのが正しかったのだろう。
心底からの怒りで煮え滾った本心を組織が雇った傭兵風情に悟らせるつもりはなかったが、肌を抜け、毛穴から噴き出すようにして溢れ出る殺気が、研究所の周囲の猛獣たちにすら恐怖を伝染させたのだろう。自身が一時の避難場所と見定めた庭へ移動する間、すべての生き物が息を殺し、自分たちが前進をやめるまで、ひたすらに鳴りを潜めていた。
窶れ果てたココを背負い、幹部連中が執務を行う本部へ向かうよりも先に、体力の回復を優先事項だと定めたのは理性ではなく本能だ。
局長と話がしたいと言い出したココは、ぽつりぽつりと掠れきった声音でこれまでの経緯を語った。
ほとんど意識が朦朧としていたのだろう。
険のない、素のココの声色はいつにも増して透き通り、そして純粋な思いだけが、透明な湖の水面に映る景色のように映し出されていた。
本当は、あの時。
自らの足で隔離される施設へ向かったのは、ここを出る意思を明確に告げるためだったということ。
だがその願いは、科学班に属するIGO直属の科学者らの相対する主張によって、上へは伝えられなかったこと。
自身の体が、体質を治療するという名目で彼らの研究対象となったこと。
医療と科学の進歩を目的に、利用し、活用されることになったこと。
どれもが、繊細な人の心を持つココにとっては、本来の意向とは正反対のものであったのだろう。
無言ですべてを聞き終え、ただ内心の静寂を裏切って、握り締めた拳がぎしぎしと悲痛な叫びを上げた。
自分たちが人権など無きに等しい環境でモルモット同然に扱われていたことを、知らなかったわけではない。
だが、それがおのれ個人の問題であった当時はまだ怒りを殺すこともできた。
与えられたスタート地点が、模擬の実験の如き闘いに明け暮れる場であったとしても、そこから這い上がりさえすれば確実に道が開けると信じられたからだ。
「………局長に会って、直接話をつけたい」
それだけを告げて、ココはようやく意識を手放した。
窶れ、痩せてしまった体は、別れた時の三分の二ほどしかなかっただろう。
蒼く、死人のようになった全身は、体温すら維持することができずに、触れている背で冷たく凍えている。
黙ったまま、担いでいた肉体を下ろし、柔らかな草の上に仰臥させる。
ココの五体を切り刻むようにして貫いていた針と管を慎重に抜き取り、余計なものの一切を取り払った。
浅い呼吸音がわずかに耳に聞こえてきたが、それ以上の反応はない。心音は小さいが、少しずつ音が弱くなっている。
夕刻から夜に向かう低温の外気に晒され、徐々に冷えて行く肉体を見据え、そっと剥き出しのままの額に掌を置いた。米神と頬を辿り、細い顔の輪郭を包むように厚みのある掌を添える。
凍えるように震え、薄く開いた唇から、微弱な呼気が吐き出される。
それを見下ろす眼に、感情は篭っていなかった。
ただ、体中に人工の管を通され、薬と称して体液を搾取され続けた傷ついた獣だけが、昏い視界の中で青白く輝いているだけだった。
「毒人間と、蔑まれたままで良い」
そのままの自身で、おのれの理想とする真の美食屋を目指す。
朝になり、救出後、三日ほど意識を失っていた人間とは思えぬほどに回復をした戦友は、生来の調子を取り戻したように淡々と冷静さだけを前面に押し出したような口振りで告げた。
お互い裸のまま、暖を取る炎を間に真向かいに座し、覚醒するなり早々に捕ってきた獲物の肉に齧り付く。
肉汁が口元から顎のラインを滴り落ち、芳醇な香りが休息場所として選んだ大木の下で溢れかえった。
「健闘を祈るぜ」
おまえの好きなように行動しろと、放任したような突き放した返答を耳にするなり、相手は綺麗に揃った歯と牙で、同じく脂の乗った食材をぶつりと噛み切り、骨から筋ごと塊を毟り取った。
粗野とは似ても似つかない端正な容貌が、肉食獣さながらに表情筋の全体を歪めて食物を咀嚼し嚥下する光景は、どこか卑猥さすら感じる。
だが、美食屋としては当然の食欲であり、衝動だと、何よりも自身が理解していた。
「これは、借りだな」
そのうち、埋め合わせはすると告げ、ココは右手の親指に付いた脂分をぺろりと長い舌で舐め取った。
「ああ。…技術的に考えて俺が手に入れるのは無理だと思った食材を探す時は、遠慮なく呼ぶからな」
覚えて置け、と言い放つと、ふんとココは鼻を鳴らした。
「おまえに呼ばれたくらいで、ボクがのこのこと出向くと思うな」
尖ったような人差し指と中指の汚れも、丁寧に舐めて掃除をする。
「だったら、押しかけるから、そう思え」
「…………………」
そこでようやく、ココの機嫌を損ねることに成功したようだ。
こういう口喧嘩というのは、本気で頭に来た瞬間、そこで勝敗は決するというのが常識だ。
「……わかった。……それくらい、嫌な思いをさせられても無理のない規模の借りではある」
嫌か、と口に出すなり、不機嫌な面のココに笑いを誘われて思わず大声で笑い出した。
「おまえに関わると、碌なことがない……」
これまでの記憶を辿ってみて、いきなり良くない思い出にぶち当たったのだろう。渋面で苦言を吐く白い相貌を無視して、平らげた獲物を次々に取り替えて行く。
「今回も、そうだったか…?」
「……………」
暫く黙し、やがて、いや、と答が返った。
どうやら数日前の件を思い返して、また後悔を感じているのだろう。
単独で研究所を脱出できなかった自身を恥じているのだ。
余人の力を当てにしないのは、おのれの実力に絶対の自信があるからではなく、単に物怖じをしているからだ。
他人と対等に接することを恐れる、小心なる孤独。
「…そんなに頻繁に頼み事をするつもりはないから」
安心しろ、と。
勝ち誇ったように双眸を伏せて嘲笑すると、向かいに座った側は、納得をしていない風に短い眉を顰めさせた。
自らの負い目を抱えたまま、飽くなき道の探求を志す旨を、IGOの本部の責任を預かる局長のワインは理解したようだ。
直接の交渉などではなく、直訴に近い本人からの訴えは、正に掟破りと言っても過言ではなかった。
組織お抱えの人間と、その幹部と。
どう考えても検討の余地などないと思われたが、熟考の末、その願いは聞き届けられた。
尤も、反対をしたところで、如何なる人間も目的を定めたココの固い決意を覆すことなどできないだろうと見越した上で。
ココとの本当の付き合いは、あの夜から始まった。
-2008/12/03
→NEXT