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満干の毒
 弛緩し、濡れた綿のように重くなった身体を軽々と肩に担ぎあげ、片足で乱暴に寝室のドアを蹴破る。
 家が壊れるほどの衝撃ではなかったが、けたたましい音を聞くなり、耳の横にあるココの脇腹の筋がぴくりと振れた。
 摂取した酒の成分の影響によって意識が朦朧としていながらも、眉間の辺りに無意識に皺を作っているんだろうなと適当に見当をつけたものの、取り合わずに半裸の状態のこの部屋の主をベッドの上へ放り投げた。
 ぎしり、とスプリングが軋み、背中に当たった柔らかなシーツの感触に、瞬間ココはほっとしたようだ。
 元々他人に気取らせるには表情に乏しい作りをしているため、あからさまというほどではなかったが、ゆったりと四肢を伸ばしてようやく惰眠を貪れるとでも思ったのだろう。またしても微笑をうっすらと口元に浮かべ、次いで厚い瞼を閉じて深い眠りに落ちようとした。
「どんだけ弱いんだ?…おまえは、」
 無造作に着ていたシャツを脱ぎ捨て、短い名を呼びながら寝台の上へ乗り上がる。
 分厚い筋肉を何層も敷き詰めたような胸板の真下で仰向けに横たわる姿態からは、緩慢で静かな呼吸が聞こえ始めた。
 いくらなんでもこの状況下で本気で寝入られては、これからがメインディッシュだと思っていた側は堪ったものではない。
「おい。……わかってんのか?」
 親指と人差し指を伸ばして、つんと持ち上がった形の良い鼻先を摘まんで力をわずかにそこへ籠めると、面白いように長い睫毛に縁取られた目元の黒い線が下から上へと持ち上がった。
 放さずそのまま掴んでいると、帯状の布が巻かれた右手が邪魔者を追い払うような仕草で顔の前面で横に振られた。
「…っと、」
 伸びてきたその掌をすかさず捕え、痛みを与えないように指先全体を握り込む。
 高価で良質な酒精の甲斐あってか、相手にしては珍しく、ぽかぽかと温かい体温が触れた肌から伝わってくる。
 普段が、ある種の威勢が良いと思えるほど、思い切りぶっきらぼうな態度であるだけに、前後不覚となったココの様子は、思わず相好を崩してしまうほどに初々しい。別段いつも通り、けんもほろろな対応であっても一向に気にはならないが、この光景もまた自分だけが覗くことを許された一面だとの自覚があった。
 ギャップが良いとか、そういうんじゃねえんだよな。
 ただ、矛盾を含んでいると思えなくもないほどのオーバーギャップも、それがココという個体を形成する為人というものであるだけで、特段重要視をしなければならないような問題でもない。
 相手が相手以外の何者でもないという認識が特別なのであって、これ以上の醜態を見せ付けられたとしても、落胆は一過のものでしかないと表するのが妥当だった。
 今更、隠すような秘密もないしな。
 そう感じたのは、ココ自身がそうであるように、おのれの内面や事情を本能的に尋ねることを忌避している節があるからだ。
 当然、その理由は、自分がされて嫌だと思っているからに他ならないが、出生や過去について、興味を持つような素振りを見せたことはなかった。
 時折、何か油断があったかのように、凡人と同じレベルで他人が抱える事情に首を傾げることがないわけではないらしいが、持ち前の冷静さが前に出ている時はこちらの心中の深い部分までを覗き込むような無粋な真似はしなかった。
 自然界には当たり前のように存在する、暗黙の了解があるといえば相応だろうか。
 だから、踏み込めないでいるが、それもいつまで続くかどうかはわからない。
 本当ならすべてを曝け出した方が楽なのかもしれないと、殊、ココとの情事の場面ではそう思う。
「ココー…」
 まるで鶏のようだと思いながら間延びした声調で名前を呼び、平らで滑らかな額や頬を叩いていると、顰めた顔と目が合った。
「………」
 トリコ、とこちらの名を呼んだらしいが、やはり集中力は通常の三分の一以下だ。
 無防備を通り越してマグロか、と思えなくもない酔態だが、それならばと思い改める。
「こっちはこっちで勝手にやるから、眠ってて良いぞ」
 …寝ていられればの話だが。
 口中で不敵に呟き、目にも鮮やかな緑色の腰布を空いた手で器用に解くと、下肢を覆ったズボンに躊躇なく手を突っ込んだ。
 反射的に双眸を見開いて包帯だけを残した上体がベッドの上で跳ね起きたが、掴んだままの掌を軸にして、ゆっくりとシーツへ押し戻す。枕はココの頭の隣にあったが、押さえ込む方が先決だと判断し、相手の顎と胸の間に太い肘を押し付けて抵抗を封じた。
 また名前を呼ばれたが、拒絶するような意思はなかったのだろう。
 そう思うことにして、下着の中の柔らかい性器をあやすことに専念した。
「…っ……」
 敏感に反応を示し、剥き出しになった白い胸部が上下に上がり下がりを見せる。
 完全に意識が覚醒しているわけではないだろうが、重石となった男の腕の下で、与えられる下腹部の刺激に素直な反射を示す。
 先端の窪みを馴らすように指の腹で撫で、括れた箇所で輪を作り、性急過ぎぬ動きで根元まで下ろす。指を揃えて軽く絞るように握り込むと、徐々にではあるが人並みよりも大き目の芯がふっくらと硬さを備えてきた。
 自然と腰が引け、倣うように長い膝が立てられたが、動きの邪魔さえしなければ好きなようにさせておいた。
 表情を覗き込むと、先ほどの顰めっ面とは別の、靄がかかったような淡い視線とぶつかった。
 動きや爪先から伝わる微弱な変化の都度、律儀にぴくぴくと眉根を引き攣らせる様がいじらしい。
 大層体格の良い、歳だとて薹が立っていると言われてもおかしくはない年頃の男が、声を殺しながら喉の奥で喘いでいる姿が好いなどと誰が考えるだろう。
 わかってはいるのに堪らなく嗜虐をそそられるのだとしたら、ココが自分の持つ趣向に合致する資質を持っていることに他ならない。
 プロの美食屋が求める至高のフルコースは、その個々の能力、キャリア、技能。そのどれを取っても、中身などは千差万別だ。
 それと同じく、自身も性交の相手がココでなければならない理由が何某かあるのだろう。
 それが、向こうにとっても当てはまるかどうかの是非はともかく。
「…ココ。その手は、どけろ」
 見目よりもよほど柔軟な頬肉に苦笑を浮かべながら、静かな声で諭す。
 身体の中心を弄る右手に伸びた手指が、動きを遮るほどではないものの、思うように好い反応を見せる部分にまで至ることができなくなると悟ったからだ。
 だがココは、拒まれていることを知りながら、おずおずと自身のペニスを握る手の甲に指を絡ませてきた。
 上から握り、力では止められないとわかっているのに男にしては長い尖指を逞しい五指の隙間に忍び込ませた。
「おいおい、」
 これじゃ、動かせないだろ、と、揶揄する意図なく言葉にすると、ボクよりも、と心地好い掠れたような低い音が耳に届いた。
「…トリコが、先に」
 気持ち好くなれば良い、と。
 聞くなり、あまりにもしおらしい内容に、思わず枕に突っ伏しかけた。
「……嬉しいこと、言ってくれるなよ」
 はは、と屈託なく眦を綻ばせて笑ってはみるが、内心は逆で、密かに流れる冷や汗を禁じ得なかった。
 前戯の最中に我慢が利かなくなることほど、男として情けない失態はない。
 まさか胸中を悟られたわけではないだろうが、現実にはあまり余裕があるわけではなかった。
 その部分を、さらに舌で舐め上げられるような真似をされれば、プライドよりも快感に従順になりたくなるのが惚れた者の弱みだ。
「行かせてやれないかもしれないぜ?」
 胸の上に置いていた腕を裾の長い濡れたような黒髪の下に回し、相貌を近づける。
 ぐっと距離が縮まった空間で、ココは鮮やかに片方の眉を持ち上げた。
 皮肉屋の、毒人間の微笑み。
「……その時は、…大いに、笑って…やる」
 理性は当に桃源郷をさまよっているだろうに、酔っ払ったまま、大層な口上を言ってくれる。
「……………オーケイだ」
 この際、待ったは聞かねえ、と前以て宣言をし、望み通りに自身の下衣を脱ぎ捨て、全裸になった。
 二人分の体重を受け止めた特製のベッドが、いつまで持つかどうかは無言の賭けに出ることにして。
「酷くなったら、そう言え」
 できるだけ、止められるよう努力するから。
 相手の下穿きもさっさと取り払い、箍が外れて乱暴な行動に及んだら、遠慮なく制止しろ、と言い放つ。
 大丈夫、と、置かれた立場をわかっているのかいないのか、最終的な場面でも要所要所のテーピングを必要とする肉体の主は舌足らずな物言いで頓狂なことをのたまった。
「……ボクも相当、頑丈に……できてる、から……」
 はあ、と嘆息のような短い呼気を吐き出し、シーツの海に沈むように後ろへ重心を移動させる。
 首の裏に回していない方の手の下で、蜘蛛の足のようなココの下肢が躊躇いもなく開かれたことに気づき、警戒心や呆れを通り越して、燻っていた貪欲な食欲が見えない食指を皮膚の表面まで伸ばしてきた。
 マジで、止まらないことになるかもしれねえ。
 極上の獲物を前にしたときと同じ生々しい感覚を心底から実感しながら、溢れた唾液を舌で拭い、身体の上へ乗り上げると、下になった側は額に前髪を垂らしたまま悟りきったような面持ちで瞼を下ろした。


 トリコ、トリコ、と。
 まともではない思考回路で、繰り返し名を呼ばれるのが好きだった。
 まるで何人もの男を知っている情婦のように、相手を喜ばせる手管を知っている。
 おのれの肉体が希求し、喰らいたいと願っている者に存在の証を、好む声色で立て続けに音として聞かされて、それを至福と思わない奴はいないだろう。
 五体の支えである太い頸に両腕を回し、繋がった局所以外の上半身を起こして縋り付くのは、本人に自覚のない行為だろう。
 そう感じているのは過信などではなく、どうやらココ自身の癖であるらしいからだ。
 毒性を持つ人間となってからというもの、他人とのスキンシップ自体を避けていた手前、あまり知られていないが、相手はそれほど他者の温もりを毛嫌いしているわけではない。
 本来であれば、子どもの頭を撫でたり。唯一の家族となった怪鳥を安心させ、宥める時など。
 知らず、自ら手を差し伸べていることが多かった。
 それはココ本人の優しさであり、危害を与える人間ではないという事実を示す最も簡単な方法であったのだが、その本能を体質の因果によって束縛されたことは当人にとって間違いなく不運だった。
 だからこそ、安心できる場ではその裸の心が行動となって現れる。
 組織内での同志でありライバルであるからこそ。また、それ以上に親しい間柄であるからこその証明そのもののような抱擁は、現実に心も体も温まる。
 恋人同士ではなく、単なる捕食者同士の戯れであっても互いの自尊心を傷つけることにならないのは、受け入れ、求める行為が、一方的ではないからだった。
 だが、ココとの長時間の交合は自身の首を絞めかねない。
 あやふやな理性によって拡散されているとはいえ、外部からの刺激によって、いつその身に潜む棘が体表に出てくるとも限らない。
 精神的な動揺が、すぐさまココが持つ数多の毒腺を開く切っ掛けとなることを理解する相手の判断で、半ば同意の上で酒を盛って性交に及んでいるが、最後までやり遂げられた経験は、少なくはないが決して多くもなかった。
 律動が激しさを増した最中にも、強烈に湧き上がる身の内の性欲を超えるほどの危機感を察知した途端、猛っていた性器を濡れて絡みつく内部から無理矢理引き抜き、咄嗟に身を引いたこともある。
 大事には至らなかったとはいえ、油断がならないことには変わらない。
 触れている皮膚だけでなく、交わった箇所に滲み出る少量の体液そのものにも数限りない危険が潜んでいるからだ。
 致死性の毒が情交のさなかに溢れ出したことはなかったが、実際にセックスの翌日、片腕や足の痺れが一週間ほど取れなかったこともある。
 短時間で回復できるような毒もあれば、致命的だと細胞が知覚するような、厄介な類いもあった。
 五体満足で終えられたことは、一番最初か、最初から三番目か。或いは、指で数えるくらいしかない。
 それほど、ココとの情事はリスクが大きいが、得られる満足も少なからず大きかった。
 最後までココの体に眠る毒素を呼び起こさずに終えられたことに対する達成感よりも、交わっている間の充足が、まず並大抵ではない。
 元来、労力を惜しまず、危険を顧みず。長い時間をかけ、財力や体力を削っても、目的とした獲物を獲るために尽力するのが、真の美食屋だ。
 本当に、欲したものを手に入れるのに、どれほどの損失があろうと後悔はしない。
 その意味で言えば、ココは人として存在するはずのない、最高の食材なのだろう。
 どんなに咀嚼し、味わい抜いたとしても、また新たな食欲を意識の根源の部分から湧き立たせるもの。
 分子レベルで手を伸ばしたいと肉体が欲し、手に入れ、自らの一部となれば漲るほどの力を与える。
 セックスの間中、得られる感覚というのは、獰猛でありながら強靭にして強烈な飢餓と、それと同レベルの飽食感だ。
 交互ではなく同時に与えられる満干のような相反する作用と衝動は、他では絶対に味わうことのできない、人間界における最も有毒な毒質そのものだと言っても過言ではなかった。




-2008/12/05
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