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傷だらけの侵凌者
 心地好い暖かな日差しの匂いを運ぶ、澄んだ風の淀まぬ流れを受けて、機嫌よさげに。
 今日の昼飯の前菜となる予定の一トンもの重量がある大型の爬虫獣類を背中に背負い、単調なフレーズを口ずさみつつ歩いていた途中、知った気配に足を止めた。
 お、と上向いた口先を持ち上げて短く驚きの声を上げたのは、それがよく知る人物のものだったからだ。
 距離はここから大分離れているが、鼻腔に忍んで来る匂いには、若干だが湿った汗の成分が混ざっている。おそらく、自身がここにたどり着く数時間前から、同じことを繰り返していたのだろう。
 晴れた午後。丘というほど明らかな斜面ではないが、なだらかな傾斜が続く地面の中央の木陰に割と近い場所で、漆黒の上下の胴着に身を包んだ手足の長い肢体が単独で修練に励んでいた。
 同じ美食屋の中でも屈指の実力を持つ顔触れの中で、一人異彩を放つ黒髪の男。
 数か月前に上層部から第一級危険生物との判定を下されながら、研究所を脱出し、庭での修行に復帰してからというもの、以前にも増して基礎的な体術に磨きをかけるようになったとの噂を耳にしていた。
 肘まで袖をめくり上げ、普段、体内の毒素の流出を制限している手首の戒めを解いているにもかかわらず、体表にその危険物質が滲み出していないのは、今現在のココの精神状態が非常に落ち着いていることを表す。
 気の優しさゆえに軟弱と表される心を鍛えるため。また、四人の中で体力的、体格的に見劣りをする部分を極力補うために、組織でのココは自己の鍛錬に余念がなかった。
 無論、ココが習得している体術は、そのほとんどが自然界の猛獣相手には通用しない旨も、本人は当然のように理解しているのだろう。
 ただ、研究所を抜け出せなかった自らの脆弱さと甘さと。何よりも技量の低さを責めているかのように、繰り出される動きの一つひとつにまったくと言って良いほど隙がなかった。
 何とかという大陸の山奥の寺に古くから伝わる、武器を使わぬ武術から派生したものがその基礎であるらしいが、対戦相手を得ずに行う一連の動作の反復や独特の動きの流れは、一般に演武と呼ばれるものであるらしい。舞、という当て字もあながち間違いではないが、舞いと呼ぶには力強く、次の間合いに移るまでの速度が並大抵ではない。
 重心が常に前後左右へ移動し、にも拘らず体勢を崩すことなく連鎖するきびきびとした模倣の型は、素人眼から見れば甚だ慌ただしく、目で追うだけでも大層骨の折れる運動の連続であるとしか思えないだろう。
 手の運び、足の位置が規則正しい列と律を刻みながら、上下に移動したり前後へ下がったりと、一見してまったく不規則な動きをする。
 一八〇度脚を開脚して地面にぺたりと座り込むこともあれば、そこから片腕一本で逆立ちになり、回し蹴りのように開いた両足を頭上で一周させるようなパフォーマンスもある。
 それを眺めていると、ココの身体が柔らかいのはなるほどそういう理由か、と納得できないこともない。
 静かな殺気を全身の細胞の奥底に漲らせ、猛禽類が獲物を見つけ捕える時のような仕草や構え、鋭利な眼差しは、遠くからでも見ていて飽きるものではない。
 決して恵まれてはいない肉体に宿る手練の技は、確かに美食屋よりも殺し屋や盗賊などに好まれる部類であろうが、ココにとっての精神的安定剤になるのならば探求するのも悪くはないのだろう。
 人間を相手に戦うことは滅多にないが、剛法や柔法だけでなく、極技と呼ばれる関節技に関係する体術も体得し実践できるココには、自分でも実際に手を焼いた。
 体格やパワーで押し切れる部分があっても、しなやかで鋭い動きを持つ獣は率直に言って仕留め難い。
 一度捕まえてしまえばあとは容易いが、時間を要すれば必ず勝てるという保証もないからだ。
 しかも、毒憑き。
 飽くまで体内で形成される毒という手段を用いずに手合わせをしたところで、勝敗は時の運とは言え、一〇〇パーセント確実な形での勝利を手にしたことは少ない。向こうも端から勝てると思って闘ってはいないだろうが、自身の知識よりもさらに戦略的、実践的に、対人の戦闘における人体の機能と構造を具に学習し、何よりも体で会得している者の扱いは難しかった。
 自分は間違っても人を殺す道具ではないと自負しているからこそ特に問題視はしていないが、喧嘩に強くなることをココ自身も求めているわけではないのだろう。
 なぜなら、半年前を単純に振り返ってみても、諍いから発展した殴り合いでも、ココが身に着けた技を他者に向かって駆使する場面はほとんど見受けなかったからだ。
 すべては、おのれの心的な成長と、未熟な心身の暴走の抑制を図るため。
 そう結論付けていた戦友の舞いは、時たまに眺める程度ならば丁度良い暇潰しになった。
 目の下の表情筋を持ち上げ、双眸を細めて音もなく微笑うと、興味を切り替え、食事に有りつくために踵を返して自らの縄張りへと向かった。
 その、瞬間。

 どう考えても場違いな侵入者の匂いを察し、弾かれるように後ろを振り向いた。
 ココが鍛錬を行っている間合いに、突如として踏み込んできた巨大な影。
 天然の岩盤を思わせるような傷だらけの巨躯が、地中から這い出してきたかのように黒髪の青年の前に立ちはだかった。
 圧倒的な質量と威圧感を前に、それでも対する側が怯むことはない。
 知った顔であったからこそだが、しかし、密かに眉間に刻まれた皺がある種の緊迫感を表していた。
 聴覚はさほど優れているわけではないが、常人の数百倍は長じている知覚で捉えるに、どうやら対戦を提案されているようだ。
 ココの様子から、その要望が当人にとっては不本意であることが知れる。
 元々無闇に人を傷つけることを好まない性質であるとともに、相手が意図していることが単に持て余した力を発散させたいだけに留まらないからだ。
 類い稀な、欲求の根源から湧き上がるような際限のない闘争心、と、回りくどいような形容を付け加えて、同様に四天王と称される男が口にしたことがある。
 抑える意思が初めからないのではなく、留める術が現実にないのだと独自の審美眼を持つ強者に断言をさせた、その巨漢が持つ特質の一つは、猛烈な暴力の嵐と表現しても行き過ぎではなかった。
 一対一で対峙するには、生半可な心得では煙に巻けない。
 向こうが期する目的そのものが、戦闘と欲望の発露という極めて異常な次元である限り、拒否することはできないし、一度火蓋が切られれば、完全に戦闘不能にするまで攻撃することを止めないからだ。
 ゼブラ、と呼ばれた、組織内でも要注意人物と定められたこの問題児は、あらゆる食材を無差別に暴食するだけでは飽き足らず、手に入れた食物を食べきらないうちに、残飯のように食い散らかした死骸を打ち捨てたまま、新たな獲物へと鞍替えをすることからも特に注意を払うべき存在だった。
 ココに目をつけたのは、勿論偶然だったのだろう。
 ただの興味本位で近づき、いつか手酷いしっぺ返しを喰らったにも拘らず、溢れ返る闘争本能に抗えず再び眼前に立ったのだろう。
 たとえ実力行使に出たとしても、断固として断れば、この場は治まる。
 しかし、ココの忍耐はそれほど鍛えられてはない。
 売られた喧嘩は買うという、男らしい気概が相手にはある。負けん気の強さは絶対に好ましくないものではなかったが、今時点では望ましい展開ではなかった。
 白い貌が対峙者から目線を逸らすことなく下に振れた様を視覚が捉えたと同時に、脳裏の片隅で嫌な予感が警鐘を鳴らした。
 自身は部外者であり、二人の間に割り込む権利も、必要性もない。
 だが、予期せずとも知れる惨状を想像するだけで、渋い思いが胸中のどこかに滲み出してきた。
 その懸念通り、手合わせという名の殺し合いが始まった途端、ゼブラから放たれた覇気と殺気に、それまで恐ろしく平静だったココの顔色が一変した。
 公の場で数回拳を交えた経験があり、腕試しくらいの気持ちで油断をしていたのだろう。
 研究室に監禁されていたため時間的なブランクがあったがゆえに、相手の力量を読み間違えていた。
 ココが格段に武術の腕を上げたのと同様、ゼブラが日々得ていた力もそれ以上の増幅を見せていたからだ。
 猛追してくる波状とも突撃とも表しがたい猛攻を目にも止まらぬスピードで交わしてはいるが、一呼吸吐き出される都度、巨体の全身から噴き出す高熱の水蒸気の如き威圧感に押され、形勢は明らかに不利だ。
 気を呑まれたようなココの表情には余裕がなく、一旦退いて攻撃に転じては見るものの、迎撃のように押してくる攻勢を跳ね返せるほどの威力はない。パワーという分野で、明らかな相違がある場合にのみ通用するでたらめな闘い方であり、ココが最も苦手とする荒っぽい戦闘スタイルだった。
 打撃のみの攻防では勝ち目がないと悟った黒い肢体が、急所を極めに懐へ入った直後、ばきばきと本能的に嫌悪を覚えるような音が鳴った。
 衣服についた虫を力任せに毟り取るように、頸に絡めた腕を、ココの顔面ほどある巨大な掌が肩ごと鷲掴みにしたからだ。
 そのまま骨ごと筋を握り潰され、遠くからでも聞こえる苦悶の声が、緑の包帯に包まれた白い喉奥から搾り出された。
 わずかに血を吐き、重心が傾いた隙を逃さず、片手で捕らえた五体を地上に激しく叩き付けると、容赦なく両方の拳を振るう。獲物の息の根を止めるように降る慈悲のない鉄拳の雨に晒され、ココは両腕で頭部や腹部を反射的に庇っているものの、到底防ぎきれる量と規模ではなかった。
 剥き出しの肌が見る見るどす黒い血の色に変わり、吐き出される呼気の間断が広がり、呻きへと変じる。
 直感的にこれ以上はココの身が危険だと判断した刹那、地を蹴って飛び出したのは自分ひとりではなかった。
「!」
 注意を払っていたわけではなかったが、いつの間にか距離を詰めていた見えない触覚が空気の中を伸び、音も立てず目的地へと本体を運ぶ。
 繰り出される殴打の破壊力を物語るように舞い上がった土埃の中で身体を丸める戦友を助け起こし、長身の影はすぐに相手と向き合った。
 今更何を言っても無駄だろうと考えていたのか、ひたと対峙する側を睨みつけたままであるのは、挑発でも威嚇のためでもない。この場合、一歩でも退くような素振りを見せた時点で、肺を圧迫され咳き込む同僚と同じ目に遭うと判断しているからだ。
 しかし、そんな事情などお構いなしに振り上げられた拳を防ぐように、今度は自らが躍り出る。
 重たい鉄の金槌で打たれたかのように振り下ろされた豪腕を片手で弾き落とし、そこでようやく詰めていた息を深々と吐き出した。
「……暴れる相手を、間違えちゃいないか…?」
 ゼブラ、と、比較的穏やかな口調で語りかける。
 話すだけ余計な手間だと思っていたもう一人の四天王が、その背に向けて小気味好い音色の口笛を短く吹いた。
 同意見だとばかりに、賛同の意を表明してくれる。
「…オレとトリコの二人がかりで、おまえ一人を苛めるような真似はしたくねーけど」
 ま、この場は多少目を瞑っても誰も文句は言わないだろうと、漂白したように真っ白な歯を見せて口元だけで笑みを作る。
 言葉の表面だけを聞けば、それは確かに向こうの思う壺だろう。
 端から弱者を虐げるために動いたのではなく、湧き上がる闘争心を満足させるために強い者を求めたに過ぎないからだ。
 ゼブラからのいらえがなかったのは、どうやら標的以外の人間がしゃしゃり出てきたことに些か機嫌を損ねたからだろう。興味という名前の食指が、わずかずつだが他へ移行しつつある。
 もう一押しだ、と思ったところで、足元まで伸びる長い髪の持ち主の腕に抱えられたまま束の間意識を失っていたらしき黒い頭がぴくりと反応を示した。
「………三人がかり、の間違いだろ…」
 強打された胸と腹を庇いながら、逼迫したような息遣いで、何とか自力で立ち上がろうと試みる。
 仲間の体を片腕で支えていたサニーは、ココを一瞥するなりあからさまに驚いたように細い眉を持ち上げたが、すぐに持ち前の掴み所のない様子でからかうような声を上げた。
「ぅおっ?四天王、ついに決裂か!?」
 明日のグルメ新聞のトップ記事はそれで決まりだな、と快活に笑う斑模様の髪の男の眼は、やはり笑ってはいなかった。
 長い睫毛を携えた酷く切れ上がった眼差しは、対する側を見据え、少しも視線を外そうとしない。
 自分やココよりも多くの修羅場を経験した者だからこその芯の強さを物語るような落ち着きは、ここぞという時に効力を発揮する。
 嘲っているわけでも、軽んじているわけでもない。
 本気で自身を怒らせた時はどうなっても知らないという、無言にして確信したような嚇しがそこにはあった。
「…………」
 やがて、興が醒めたのか。一切の感心事が失せたと言わんばかりに、こきこきと首の筋を鳴らしてゼブラは背後を振り返った。
 足音を響かせ、次なる獲物を探す。
 その様子を見送るなり、残された側はやれやれと肩を竦めた。
 子どものような突発的で気まぐれな好奇心を生身の人間から逸らす度に、つくづく手のかかる奴だと実感すると。
「命拾いしたな?ココ」
 予期せぬ災難が降り注ぐと今日の占いには出ていなかったのか、と質すと、おまえには関係ないと突っ撥ねられた。
 サニーはそんなやり取りを眺めて、今度こそ目を細めて笑ったが、それ以上は何も告げず、掌を振って庭を後にした。
 ココのことを任せると言われたようで釈然としなかったが、このまま放置しておくこともできないかと納得し、飄々と去って行く後姿にとりあえず礼を言って別れた。
 放置の言葉からふとある事実を連想して、今更のように待てよ、と自身に問いかける。
 まだ二の足で立ち上がれない相手を放り出し、捕ってきた餌を確認すると、案の定他の猛獣に奪われた後で、その姿は跡形もなく消えていた。
 本来の自然界と同じような環境として人工的に作られたビオトープ内では、食糧を放っておけば抜け目ない略奪者に奪われるのが鉄則であり常識だ。
 今日の昼飯のフルコースを、計画通りに終えたかったのだが。
「………ったく、仕様がねえな…」
 がしがしと青い髪を掻き毟り、嘆息することで理不尽な怒りをやり過ごす。
 他所に目を奪われていたおのれの責任だと結論づけて元の場所に舞い戻り、今だ歯を食い縛って膝を突く青痣だらけの四肢を腕に抱き上げた。
「今回はサニーに免じて、貸しにはしねえよ」
 最初に間に割り込んだのはそもそも自分ではないのだし。
 ついでだ、と断りを入れて医療室へ向かう間も、逃した食材への未練は尽きない。
 あ〜あ、と明らかに落胆したようなため息を何度も漏らしていると、渋々といった風情で片言の謝罪が、上腕の辺りで揺れる小さな頭から届いた。




-2008/12/16
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