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侵凌者
「ここで良いのか…?」
 ココ、と当たり前のような口調で名を呼ばれ、ああ、とぶっきらぼうな返事を返す。
 本当に医務室には行かなくて良かったのか、と尋ねられ、抱き下ろされた私室のベッドに腰掛ける。
 身に馴染んだ硬いスプリングの感触に、ようやく安全地帯に辿り着いたといわんばかりに全身から力を抜いた。
「……ボクには用がない所だ」
 あちらはどうか知らないが、と語尾を切り、胴体を縛り付けていた腰布を解いて上着の裾を捲り上げ、腹部の怪我の程度を探る。
 斑紋のような内出血の痕が散在し、肋骨も四本ほど逝っている。無数に受けた打撃の破壊力を物語るように、両腕は今も痺れ、まるで筋肉を酷使した後のように腕自体が小刻みに痙攣しているといった有様だ。
 つい最近、IGOお抱えの医療班がしたことを思えば、確かに顔を合わせたくないという道理も通ると考えたのか、トリコはふむ、と独りごちたが、しばらく間を置いてから一言だけ付け加えた。
「…中には、おまえに同情的な奴らもいるんだがな…?」
 特に忠告のつもりで口にしたわけではないのだろう。それだけを告げると、青頭の友人は入ってきたドアの奥へと消えて行った。
 トリコが退室したお蔭で、やっと一人きりになれたことを改めて実感し、ほ、と安堵の息を吐く。
 鉛を括りつけられたかのようにだるくなった二の腕を持ち上げ、痛みを訴える箇所に再度視線を移せば、やはり痛打した部分を塗り潰すように体内の毒が滲み出している。
 紅に近い鮮やかな色彩が、白い腹部全体を覆っていた。
 だが、攻撃を受けている最中も、毒性を持った体液が外へ放出されることを未然に防げたのは幸いだった。
 一旦毒腺から毒が分泌されると、それが誘い水となって止め処なく溢れ出し、身体を満たす水分がすべて猛毒に変換される点が特に厄介だと、自己を冷静に分析している。
 敵と定めた者や、食材となる猛獣の類いであるならばまだしも、今回の相手は同じ四天王を名乗る仲間だ。
 事故であっても、互いに禍根が残ってはならないと思っていたからこそ、大事に至らず幸運だったと思う。
 そして、最悪の事態にならぬ前に、制止に入ってくれた顔触れにも感謝の念を抱いた。
 遅かれ早かれ、あのまま半殺しの目に遭っていれば、いずれにせよ致死性の毒焔が皮膚を突き破って外へ漏れていただろうと推測できるからだ。
「ゼブラも、困った奴だな」
 ぎくり、と反射的に身を強張らせたのは、早々に自身の縄張りへ帰ったのだろうと思い込んでいた美食屋の雄とあだ名される男の声が、突如として壁の向こうから聞こえてきたからだ。
 二メートルを越す大柄な体を折り曲げて敷居を跨ぎ、両手に抱えた大量の食物を咀嚼しながら主に断りもなく足でドアを蹴って入室を果たす。
 一気に部屋中に広がった、統一性のない雑多な食材の匂いに、む、と顔を顰めると、抱え込んだ荷物の中から果物を一つ掴んで手首の動きだけでこちらへ投げて寄越した。
 そして左側から、今度は救急箱を寝台の上へ器用に放り投げる。
「……………」
 掌に丁度収まった果実は、瑞々しさに溢れたウォータースィーツと呼ばれる種類の中でも、アクアカラーの名で区別される極めて珍しい品種だ。
 梨の肌のように若干粗い表面だが、薄い皮を歯で破ると、文字通り滝のごとく、高濃度の糖質を含んだ水分が溢れ出す。非常に繊細なフルーツであるため、運送にはマンボウクラゲ並の注意と設備が必要だった。
 研究所の貯蔵庫から捕ってきたと厚かましい態度で告白をした男は、自らの空腹を満たすかのように携えてきた食糧をぱくぱくと口へと運んで行く。
 ものの数分とかからないうちに、たくさん持ち込んだはずの食品が、半分以下の量まで無尽蔵と思しき大食漢の胃袋の中に収められて行った。
 休憩を挟むことなく、消化器に直接放り込むかのような勢いのある食事風景は、毎回のことながら辟易するほど品がない。
 がつがつと食い物に喰らいつきながら、食した食材の感想を二言三言漏らすのがトリコの癖であり、ポリシーであるらしい。
 一つひとつの情報を脳細胞や体細胞に刻み込むように、独自の手法で学習をしているのかもしれないが、大型の肉食獣が捕らえた獲物をなりふり構わず食い荒らしているような姿と大差がなかった。
「ゼブラが本気じゃないことなら、わかっていたさ…」
 本当にこちらの息の根を止めるつもりであったのなら、これくらいの規模の被害で済むはずがない。
 互いに暗黙の了解があった上での闘いではあるが、闘技場でもない庭という空間で行う必要性はなかったのではないかとの意見は、確かに正しかった。
 だったら何で喧嘩を買ったんだと少しだけ驚いたような顔つきで問われ、シーツの上に目線を落とした。
 トリコにとって、今回の件は特別興味を引く問題ではなかったはずだと解釈をしている。
 あれほど激しくはなかったとしても、仲間内での諍いならば、自身と相手の間で行われた回数の方がはるかに優っているからだ。
 同じ道を目指す連中が多数育てられているような環境で、牽制や挑発などは珍しくない。
「……驕りだろう。…勝てると思ったからな」
 自らの力量を過信していたわけではないが、あの時は演武の切れ味が殊更良く、鍛錬によって高揚した気分が普段よりも自分を好戦的にさせたのだろうと思う部分が、実際にないわけではなかった。
 あるいは、自身も心のどこかで持て余した衝動を暴れさせたいと願っていたのかもしれない。
 それに、対したゼブラ側にも抜身の殺意があったわけではなかったと説く。戯れにしては容赦がなかったが、それも当人の性質であると思えば取り上げるべき事柄ではなかった。
 両者が抑えていた鬱憤が一時的に爆発したようなものだろうと説明をしたが、前々からやりにくい奴だと思っていた通り、トリコは言葉を額面通りには受け取らなかったようだ。
 だが、それ以上追求することを放棄したように、無言で肩を竦めると、右手に掴んでいたホロホロとうきびに齧り付いた。
 会話が一段落したと思い、自身も受け取った果実を口に含み、丹念に顎を動かして噛み締める。
 ぷつりと犬歯が食い込んだ肌理の粗い肌から清涼感のある果汁が溢れ、喉を通って体中に染み渡って行く過程を愉しむように味わった。
 これは天然に近い状態で育てられた極上の品だと、肥えた舌が訴える。市場価格で、一つ何十万もするだけの価値があるだろう。
「……トリ、」
 無意識に声を掛けようとして、いつの間にか距離を詰められていることに気後れし、思わず言葉を切る。
 驚いたことに、何の気配も感じさせず、相手はこちらの間合いに入っていた。
 息を呑んだのは、影となって見下ろしてくる者の双眸が酷く細められ、どこかで怒りを感じているようだと察したからだ。
「…………トリコ…?」
 改めて名を呼び、怪訝な表情で下から睨みつける。
 額に巻いた包帯が緩み、解けつつある感触を覚えながら。
「…おまえは昔から、ゼブラの肩を持ってたよな?…ココ」
「…………………」
 指摘をされた通り、組織内で揉め事があった場合、当人を庇うように上層部に口添えをした経験は何度もある。
 だがそれは、他の連中が問題事を起こす人間に対して無関心を決め込んだり、傍観をするだけだったからであって、代わりがいるならば自らが前に出る必要はないと考えていた。
 勝手気ままに振舞うおまえやサニーの所為だと返答をしようと、鼻腔から酸素を吸い込んだ矢先、胸元から覗き込むように大きな影が前屈した。
「……………?」
 トリコの体躯を覆っているのは、普段と変わらない光だ。
 それは精神的にも肉体的にも、常態と変わらない事実だけを安直に示した。
 食後の満ち足りた暖色系の色合いが消化器官を通って肉体の細部に流れ込む様が、傍からも窺える。
 よほど真剣に取り組まねばならない課題や食材を相手にしない限り、トリコが本性を曝け出すことは少ないが、発光する電磁波の色がわずかだが蜃気楼のように立ち昇っていると思った。
 眼を凝らさなければ到底見出すことはできないだろう、かすかな変調は淡く、何よりも無色透明であり、酷く静かな佇まいだった。
「…今更、俺の知らないうちにおまえらの間にあったことを詮索するつもりはないが」
 トリコ、おまえは何か誤解をしているんじゃないのか?
 そう問いかけようとして、つと切れ上がった眦が特徴的な獣の視線が、さらりと腹の傷を撫でる気配を感じた。
 瞬間的にぞくりと皮膚の上を戦慄が走ったのは、単なる偶然ではなかったのだろう。
 突然の訪問者に注意を奪われ、剥き出しのまま放置していた箇所を今更のように隠すため、上着の裾を引き下げようとして、服ごと肘を掴まれ制される。
 食べ物を吟味するかのような慎重な眼差しが、変色した腹の上を見えない食指となって這った。
 反射的に振り解こうと試みた腕をさらに五指を使って下から握り込まれ、何のつもりだと厳しい声で質す。
 それを耳にして、ようやく現状を把握したとでも言うかのように、ああ、とトリコは頷き、一度瞬きをした。
「左右の肋骨四本が骨折。おまけに、腕には皹が入ってるな…?」
 臆面もなくそうだと肯定すると、つんと上向いた唇の端を持ち上げて、そうか、と言いながら目元を綻ばせて微笑った。
「だったら、遠慮しなくても良いってことだな?」
「…何の話だ!?」
 我知らず、湧き上がってきた嫌な予感に背中を押されるように、声を荒げる。
 その眼前で、ベッドに両脚を突くや否や、早々に着ていた服を脱ぎ捨てた。
 獣肉と骨のワンポイントがトレードマークの、半袖のシャツが床でくしゃりと潰れ、皺を作る。
「…冗談は、よせ…」
 言いながら、表現し難い汗が背筋を過ぎ、流れ落ちる。
 いつの間にか、捕らえた獲物を素手で捌く時のように、太い両腿で跨いだ下肢を押さえられ、逃げ場がない。
 ベッドの端の向こうには扉とは逆の空間が開けているが、二〇〇キロを超える体重を押し退けて逃れる術はない。しかも、今のような手負いでは、短時間での傷の回復は難しかった。
「ん?…ああ。冗談だと思ったか…?」
 まるで日常的な行為に及ぶかのような気楽さで返ってくる返答が癪に障る。
 あちらにはまったく悪気がないという情況に、益々自身の神経が逆立って行くのがわかった。
 それが、相手も自分も、深みに嵌らせるという真実に気づくことのないまま。
「……性欲を持て余しているなら、ボク以外の奴を当たれ」
 暗く、怒気を押し留めたような低い声音で命令をする。
 つい数分前までは、視覚的にそれらしき兆候は見つけられなかったはずだが、とは口に出さず、心中で盛大に舌打ちをした。
 本当に、つい先刻まではそれらの可能性はゼロに近かった。
 なのに、いきなり。
 片鱗など見せなかったはずの欲望が、さながら甘美な実を花弁の中に隠し持っていた蕾が咲うように、忽然と目の前に拓けた。
 脈絡のない、天災のように突飛な行動だと思っているのは自分だけで、それともどこかにその発端が見え隠れをしていただけかもしれないが。
「…………危険性は、熟知しているんだろう…?」
 毒人間と称される自分と交わることで被るだろうリスクについての確認を促せば、不敵でありながら無邪気な笑顔が返った。
「…残念ながら、今回を入れてもまだこれが四度目だからな」
 前代未聞の未知の毒性を有する人間を相手にセックスをした経験は、今回でやっと四回目だと抜け抜けと告ぐ。
 リスクを回避する方法はこれから学んで行くつもりだと、いけしゃあしゃあとのたまう態度は、今に始まったことではない。
 一見余裕のあるその口振りが、余計に癇に障った。
「……ボク自身に殺意がないからって、勝手をできると思わないことだ」
 意思がブレーキを促しても、細胞単位での制御は利かないことを示唆する。
 事実、留めようとすればするほど、焦り揺らいだ精神力では肉体のコントロールが利かなかった記憶がある。
 苦い過去だが、おのれの特質を今よりもさらに随意に扱うには、これからの修行なしでは実行不可能だと考えている。
「生憎、過信はしていないが…?」
 おのれの実力に関しても、命運についても。侮ってはいないし、驕ってもいないと明言する。
 憎らしいほど饒舌であるのが、トリコという人間だ。
 美食屋としてのセンスや血筋からしても、自分が適わない相手だとは思いたくないが。
「…ボクにその気がないっていう事実は、無視するってわけか…」
「それは、後で考える」
 思い立ったが吉日だとお決まりの文句を吐いて、とんと服に包まれた肩を前から叩いた。
 激しいほどの衝撃ではなかったが、木製の棒が地面に倒れるように、後方の枕の脇へ上体が傾いだ。
 やがて、静かな振動とともに、資質に恵まれた大きな肢体が覆い被さってくる。
 跳ね除ける能力は、今この場ではない。
 無論、五体満足であったとしても、トリコの要求を拒否し、相手の意思を折ることができる自信はなかった。
 だからこいつは嫌なのだと、心底から思うのは、どんな方法でもトリコを負かすことができない現実だ。
 常に敗北を喫させ、おのれに限界を感じさせるような特異な人物を、誰が好き好んで受け入れられるのか。
 今とて、胸中に渦巻いているのは、明確な憎しみと嫉妬でしかない。
「…どうしても嫌なら、抵抗して良いんだぞ?」
 に、と口の両端を吊り上げて、子どものような笑顔が眼前に迫る。
 内心の苛立ちを隠しもせず、シーツの上に転がっていた枕を片腕で弾き落とした。
 そんなことができるわけがないじゃないかと言い返してやりたかったが、だから詰めが甘いのだと侮られるのが落ちだからだ。
「…おまえの手管は、充分に理解しているつもりだ」
 余裕綽々といった風情で手綱を緩めているように見せかけて、その実はこちらを追い詰め、選択肢のない場所へと追い込んでいる。
 自分に逃げる気がなくなるように、振る舞いでも口調でも穏やかに焚き付けて、放さない。
 噛み合わないのではなく、その逆だと、第三者の視点から、仲間のサニーなどにそう評されたことがあった。
 苦手な奴だと思っている者と、むしろ相性が良過ぎるのだと言われれば、侮辱同然の苛立ちを感じざるを得ないにも係わらず。
「そうか…?」
 頓狂な声音で尋ねられ、ぐっと反論したい気持ちを堪える。
 思う壺だとわかっていても、これ以上の醜態を晒したくないと願う理性が、浅ましい見栄を助長させた。
 ポーカーフェイスを気取って、口を噤んだまま睨み返していると、わかったような、失望したような、微細な翳りを帯びた微笑が返された。
「合意という判断で、異論はないんだな…?」
 好きにすれば良い、と無感動な表情のまま答え、顔を背けると、何がおかしいのか声に出してトリコは笑った。
 好もしい食材に遭遇し、手に入れた後の満悦である時に聞くことのできる、屈託のない心の底からの笑い声だった。




-2008/12/22
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