思わず目を見張ったその先にあるのは、見慣れているはずの少し日に焼けた体。
裸の上半身の背後には、肩の後ろから肩甲骨の下にかけて膨大な気を抑制するための無数の印が、中央の陰陽のマークを中心に彫り込まれている。
独特の紋が彫られたその刺青は、体内を巡る気の出口を意味した。
通常の拳士であれば必要のないものをこれほど周到に用意しなければならなかったのは、有り余る李功の気力が五体の其処彼処で暴発するのを防ぐためでもある。
外部に膨大な量の生命力が漏れないよう、着衣に封印の札を貼り、仕込んでいるのは李功だけではない。
白華一の勁の使い手と呼ばれている自身も、幼少の頃から泉のようにあふれ出る気力を抑えることを目的に、印を施し、特殊な札を身につけるよう指導されていた。
その体内で抑えなければならない気の量が自分と李功とでは桁違いであることは、背に施された合計九つの印の数とその形からも明白だった。
しかし、にも関わらず李功の体は屈強な一般の拳士よりも小柄な部類に入る。
まだ二十歳にもなっていないからだとも言えるが、人並外れた実力と体格を持っていた、歳の離れた実兄・劉宝に比べると格段に見劣りしていると言えた。
無論、余分な脂肪など見当たらないほど鍛え上げられた体躯を見て、それを貧弱と言う輩はいないだろう。
手を動かしていないことに気づいたのか、どうした?、と肩より下の位置から声がかかる。
咄嗟の時に言葉を濁すことがないのは、自分の心を隠すことに慣れている自身の特質のひとつだろう。
「黒龍も大分力をつけてきたな」
手合わせの前にざっと黒龍拳の門弟たちの修練の様子を見てきたが、先代の指導者がいた当時と同じくらいの覇気が戻って来ているのではないかと自身の手応えを告げる。
「次のトーナメントは五年後だからな。それまでに間に合うかどうかはわからんが…」
めぼしい実力者がいないままで出場はできないと、李功は語る。
実質の黒龍拳のナンバー一と二であった王きと劉宝は先の西派トーナメントで謀略を巡らせた罪を問われ今も刑に服している。
今のところ出場に値する拳士が総帥である李功以外にいない現状に流派の威信が揺らぐことを危ぶんでいるのだろう。
勝者が西派の実権を握ることのできる大会は十年に一度開かれ、遠い昔から白華という歴史のある一門が勝利を収めているが、そこで目覚ましい活躍ができないということは、その十年の間に門派が衰退していることを他に示すことになるからだ。
自身がナンバー一になった以上、李功は黒龍拳が受けるその不名誉だけはどうしても避けたいと考えている。
「焦っても仕方ない。実力があるなら、芽はそのうち芽吹く」
他派だからこそ冷たく聞こえる冷静な見解に、
「どうせ他人事だと思ってるんだろ」
と、皮肉屋の笑みが綺麗に切りそろえられた黒い前髪から覗いた。
「まあな」
表情一つ動かさないまま本心を偽らずに返すと、やはり屈託のない笑みが帰って来た。
それが、当たり前の日常だった。
拳士に自慰という行為は基本的には存在しない。
精液を伴った精気を体外へ出すことは気の無駄使いであり、昂ったものは体内で循環させ、自らの気力と精神力を高める術を習得しているからだ。
欲望が鎮まるまで気の巡りを体内で操り、最終的に放出するのはエネルギーを伴わない、所謂残り滓だった。
どんなに連日激しい鍛錬を行っていても、相応の歳になれば自ずと催してしまう生理的な欲求だが、そうした循環(環気)の法によってすべての拳士は自らの肉欲を制御していた。
ただ、白華でも例外的に射精を無益だと考えない無尽蔵の性欲を持つ智光(ちこう)という師範もかつてはいたというのは余談だが。
その男は今、遠い灼熱の大地で世界最強と呼ばれる者とその家族を守る任に就いている。
「……っ……」
小さく喉の奥で呻き、少量の種のない精を吐き出した。
全身にはうっすらと汗が滲み、上下に大きく波を打っていた胸筋が次第に緩やかな動きに変わる。
静かに瞼を開き、米神や額を伝う水滴の間から正面の壁を睨みつけた。
西派の師範の私室らしく、簡素な装飾の室内だ。
脳裏に描かれていた人物を思い出し、そっと頭を振った。
白華の大道師は女性の身だが、他人の心を読む能力を持っている。
目の前にいなければその恐れは少ないが、敷地内にいると考えれば隠し通したいのが本音だ。
目の裏に残る面影は、柳の枝のように撓る少年のような肉体。
艶のある黒髪の裾から覗く項から肩に続く線上に描かれているのは円に縁取られた人工的な気の出入り口だ。
そこから下へ向かって、なだらかだが触り心地の良さそうな筋肉の隆起があり、その線をさらに下方に辿って―――
循環の法を行うための型を組んでいた掌を開けば、そこには大量の汗が光った。
こうして興った精力を体中に巡らせる度に相手を思い浮かべるのは、自分だけなのだろうなと思う。
どんな風に向こうが性欲を制御しているのかを想像して、後悔と罪悪感と同じくらいの慕情を覚えてしまう自身に、正論を叩きつけて怒ったり、抗うことはもうやめてしまった。
-2013/10/09
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