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李功(りこう)という男、その兄

 李功には元々兄がいる。
 聞けば、黒龍の里で生まれ、兄の手で育てられたが、時の最高指導者・王き(おうき)に見出されて兄弟ともども黒龍の門をくぐったそうだ。
 両親はどうしたのかと聞けば、そんなのは物心つく前に死んだ、とだけ帰って来た。

「親の顔なんて知らねえよ」
 どうやら父は兄が幼い頃に亡くなり、母親は自身の出産で命を落としたらしい。
 通常の拳法家でさえ驚くほどの気の量の持ち主であった赤ん坊の李功をこの世に送り出すことは、やはり命がけだったのだろう。
 考えてみれば当然のことだったが、確かに西派に属する拳士で家族を持たない者は少なくない。
 貧困ゆえに苦しみ、門派に生まれたばかりの赤子を預ける親もいる。
 かく言う自分も、血のつながった親兄弟とは離れて暮らしている。
 李功の口振りからは、肉親の顔を知らなかったとしても何ら不都合がないと言っているようにも聞こえた。
「悪いことを聞いたな」
「気にするなよ。どうせ、お互いさまなんだろ」
 こちらの内情を知っているわけではないのに、わかったような、そうではないような、素っ気ない返事を返される。
 そこでようやく、李功は探していた箱の中から目当てのものを見つけたようだ。
「おれがガキの頃、着てた服だ。兄貴のは大き過ぎて、どれも入らなかったから、わざわざ仕立ててもらってたんだ」
 少し色あせて、ぼろぼろになった道着を引っ張り出し、目の前にかざす。
 背丈が毎日数センチは伸びているのではないかというほど、成長の速度が日を追うごとに早まり、とうとう着られる服がなくなってしまったので、何か代わりになる物はないか探している時だった。
 白華の大道師から、だったら歳の近い李功から貰えばいいのではないかと言われたのが発端だった。
 足を延ばして黒龍の里まで出かけてこいと言われた当初は驚き、反論したが、白華の村で探すよりも早く見つかるはずだ、と言いくるめられた。
 正論なのだが、これでいいのか、とも思う。
 何のために古来から西派が他流との関わりを禁じているのだろう。
「どれも縫い目が粗いな」
 自給自足で貧しい山村に暮らしている西派拳の者たちは新品などではなく、一着の古着を何度も直しては使い続ける。
 ほころびを見つけた都度、一枚一枚手で修復をするのだが、予想通りそれは目の前の友人の手によるものだったようだ。
 文句言うなよ、と嫌そうな目つきで睨み返される。
「兄貴が、自分でやれっていうんだよ。…当たり前だけどな」
 『兄貴』。
 李功と過ごす時間、必ず一度は同じ言葉がその口から発される。
 李功の兄、劉宝(りゅうほう)。
 西派に属する全ての門派を牛耳る白華拳の後塵を拝す、黒龍拳の、かつては実質的なナンバー一の実力者だった。
 絶対的な黒龍の支配者であった師の王きを立て、強さに関しては二番目を名乗っていたが、他の里にもその実力と名は知れ渡っていた。
 今は王きとともに刑罰に服し、岩の牢の中で暮らしている。
「………劉宝とは会っているのか?」
 独房がある岩屋へ面会に行っているのか?、と尋ねる。
 どんな顔をしているのか気になり、ちらりと一瞥を投げると、くい、と李功は薄い唇の端を持ち上げた。
「たまに手紙を書いてる。何とかやってるっていう報告だけだけどな」
「…………」
「…返事は来ないけど、読んではいるんだろ」
「…………」
 そうか、と受け止める。
 現在の黒龍の窮状を作り上げたのは李功の兄・劉宝と師である王きだ。
 二人が共謀して白華拳の第七十五代目となるはずの大道師の後継者と白華の拳士を見殺しにしただけでなく、トーナメントで出場選手の殺害を企てた事実が発覚し、二人は刑を受けた。
 なぜそんな策を弄したのか、理由は単純で、黒龍拳が西派の実権を握ろうとしたからだ。
 黒龍は西派の拳士を暗殺者として海外に派遣し、外貨を得たかったのだ。
 そのためには古いしきたりを頑なに守り続ける白華の存在は邪魔であり、西派トーナメントで勝利を収めることで、三十二門派すべての拳士とその力を掌握する腹積もりでいた。
 その悪だくみはすべて明るみになり、阻止されたが、自分たちの村や門派の貧しさを厭う気持ちはわからないわけではない。
 だが、門外不出の暗殺拳を外へ出すことは決してあってはならない。
 首謀者は王きだったが、賛同し、協力した劉宝にも罪はある。
 そして、それを止めることができなかった自身にも咎があると李功は言う。
「おれは心配しちゃいねえよ。…兄貴のことだからな。ただ、黒龍のことは気になってると思うんだ」
 同じようにここで育った人間だからこそ、黒龍拳の行く末に関してだけは気にかけているはずだと語る。
 そうかな、と思った。
 他人である自分の目から見ても、劉宝の黒龍への忠誠は厚い。
 それはイコール、師の王きへの忠誠心にも比例するが、それだけではないと感じるからだ。
 劉宝は李功を溺愛している。
 それは、試合で自分の両目と両耳を潰された後ではあったが、試合会場で戦闘不能になった李功に対する嘆き方にも現れていると思った。
 まるで人が違ってしまったかのような男の、慟哭の様。
 年若い未熟な弟の頭を抱き、頬をすり寄せ、滝のような涙を流し泣き叫ぶ気配を肌で察し、おそらくそれが他者を驚かすための芝居ではないのだろうと感じた。
 次の瞬間、何事もなかったかのように忽然と平素へ戻った姿も、実力のある拳士として当然の、公私の切り替えの速さだと実感することができる。
 そして、気の流れでしか知覚することはできなかったが、李功もまた、兄のそんな変貌振りにうろたえることがなかった。
 どちらも負けず劣らず、充分なブラコンだろう、と。
 だからこそあの時の企てが、黒龍のため、引いては、近い将来そこで名声が高まるだろう自身の弟が、貧しさを捨て、豊かに暮らすための最短手段だと考えたのではないだろうかと感じる。
 確かに当時、李功は十代前半の子どもだったが、策謀が他へ漏れないようにするために弟である李功をないがしろにしたのではなく、故意に謀略の中から外したのではないかとすら思えるからだ。
 元々善悪の判断の前に、一流の拳士としての自覚が強く、プライドの高い李功を仲間に引き入れるよう画策しても、成功する可能性は低かったのかもしれないが、それでも、と思う。
 慣れ合うだけの血のつながりであれば、自らの野心の道連れとして、一緒に地獄へ落としても構わないと考えたはずだ。
 それでもその選択を選ばなかったのは、劉宝なりの実兄としての深い愛情と配慮があったのではないかと感じる。
 黒龍への頑迷なほどの信奉と、歳の離れた幼い弟への、愛。

「とりあえず丈を合わせてみろよ」
 両方の袖を持って広げながら、頭一つ分高い位置にある相手の顔が近づいてくる。
「合わせなくても、すぐに着れるようになるさ」
「すごい自信だなー」
 服を毟り取るようにして奪うと、ほんとに着れるようになるのかよ、とからかうように、李功は相好を崩した。
 そして思い出したように外を見る。
「そうだ、暇なら手合わせして行かねえか」
 親指を逸らし、扉の外の演武場を指す。
 折角ここまで来たのだから、互いの技を確認しないかと。
 もしかしたら、大道師もそれが目的だったのかもしれない。
 歳が近く、同等の実力者など白華にいるはずがないからこその、わかりづらい親心。
「何本勝負にする?」
 了解の意味で、試合の回数を尋ねる。
「それはまあ、闘ってから決めようぜ」
 久しぶりに全力でぶつかれる相手を見つけた李功の顔は、とても嬉しそうに輝いていた。


「だから途中で切り上げ時じゃないかと言ったんだ」
 今更小言を言うつもりはなかったが、どうしてこうなったんだという体で、渋々李功の寝台に潜り込む。
 空腹で腹が鳴ったが、何だか思う存分気を使った所為で眠気の方が強かった。
 隣からは、黙って寝ろよ、と舌打ちが聞こえる。
 古い慣習がいまだに残る西派の村では、仲の好い友人同士が男同士で共寝することは珍しくない。
 しかし、自分にとっては初めての経験だった。
 熱中している間にとっぷりと夜が更け、結局この地で寝泊まりをする破目に陥るとは。
 他人の私房はどうにも落ち着かないなと思いながら、何とか体勢を整えていると、淡い月の光が差し込む室内で空気が振れた。
「…兄貴とは昔一緒に眠ったんだけどなー…」
 ぽつり、と聞こえてきた言葉に、なぜかどきりと胸が鳴った。
 一人で眠れなくてぐずる幼い李功というのも想像し難いが、小さな頃から黒龍でともに鍛えられていたのだとしたら、兄とともに眠ることもあったのかもしれない。
「『兄貴』、が恋しいのか?」
「…そこまでガキじゃねえよ」
 李功は眼を瞑っているようだった。
 さらりと短く切りそろえられた髪が肌理の細かい皮膚の上を流れる音が聞こえた。
 瞑目したまま天井を仰ぎ、李功は軽く唇から息を吐いた。
 眠る時に着ている衣服は道着と似たような形だが、襟はゆったりと寛げられ、鎖骨が覗いている。
 口を噤んで静かにしていれば、確かに女みたいな顔をしているなと思った。
「…おれは、…黒龍に、兄貴がいれば、それで………」
 それでよかったんだ、と。
 あとは寝息に紛れたが、聞くべきではなかったかのような、奇妙な気持ちに襲われた。


 翌朝、元気に朝勃ちしているところをあろうことか李功に目撃されたのは最悪の悪夢だったが、その夜のうちに三センチも身長が伸びていた。




(時を二三年ほど遡りました)
-2013/10/10
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