白華の鍛錬は主に午前中に行われる。
夜が明けると同時に各武術の型ごとに大演武場に集まり、集団で稽古をするのが習わしだ。
午後は主に個人の自由時間に割り当てられるが、その中には当然鍛錬以外にも食事の準備や汚れものの洗濯などの日常的な仕事も含まれていた。
赤子の時分に白華拳に預けられた経緯があるため、そんな習慣にはもう慣れてしまった。
自身の一部と言ってもいいほどだ。
大人数の食事を準備したり、繕い物などを素早く丁寧に行えるようになったのは、やはり慣れというしかないだろう。
仕事が丁寧だとほめられることも少なくない。
そんな時決まって、照れくさい気持ちになってしまう。
「趙(しょう)師範、それは我々がやりますから…」
ああ、いいんだ、と返す。
朝食の分と一緒に昼食も作ってしまおうと厨房に立っている時だった。
雑用は下っ端に任せてしまえばいいのだが、こういうものは本来用事を済ませて手が空いている者が担当するべきだ。
朝の演習が終わってしまえばあとは趣味の時間になってしまうので、やることがなくなればこうして炊事を手伝うことは珍しくなかった。
他派はどうかわからなかったが、白華での食事は一日二回。
早朝の鍛錬が終わった後に一度、午後の鍛錬の合間に一度。
食堂に大勢が出入りすることもあれば、好きな時間に火にかけたままの鍋から掬った野菜の汁ものを腹に流し込んでもいい。
祝い事のときには白華の村人たちが料理をふるまってくれることもある。
が、拳士というのは通常、ほとんど空腹に近い状態で生活をしていた。
門派が貧しいことも事実だが、満腹になればなるほど正常な精神状態を維持することが難しくなるからだ。
気力の充実のためには、飽食という概念は微塵も存在しない。
「…それに、こうしていた方が落ち着くんだ」
ことことと煮込んだ料理から上る湯気を眺めながら、ぽつりと呟く。
独白は他の作業をしている者たちに聞かれることはなかったようだが、立ち上る蒸気に紛れてそっと頬を赤くした。
一人でいるとどうしても、あの時のことを思い出してしまう。
冷たい夜の暗闇の中で睦み合ったこと。
名前と姿を脳裏に思い浮かべただけでよみがえってしまう。
あの後、後ろから腰を抱えて獣のようにまぐわってしまったこと。
体を洗うために滝に打たれながら、立ったままで繋がったこと。
それから、何度も繰り返したのは、ずっと胸の中に抱いていた変わらない想いと――
「童貞でも捨ててきたのか?」
突然振ってきた指摘に、ぎくりと肩が振れた。
「……梁(りょう)師範」
相貌の中央に斜めに走った傷痕。鋭い眼光の精悍な髭面の拳士。
「何のことですか?」
咄嗟に平静を取り繕ったが、焦りは隠せなかった。
普段であれば表情を変えることなく返せるはずなのに、参った、と思った。
「女にのめり込むようになるのは、おまえらにはまだ早え。趙。深入りする前にやめときな」
「…………」
至極尤もな意見だった。
それ以前に、童貞など捨てていないと頭から否定されるとは考えていないような口振り。
台詞の中の『おまえたち』、というのは、白華の年若い門弟すべてを指してのことなのだろう。
まさか、当の『相手』まで含まれていないだろうな、と邪推しそうになった。
「どうも最近、落ち着きがないようだってんで、気になってたんだが。…そーか、ついにおまえも…」
にやにやと突然相好を崩し、色好みそうな中年男らしい、垂れ下がった目尻になる。
「だから、何のことですか」
しらばっくれるために顔を背けたが、うまく誤魔化せなかったらしい。
顔面が熱い気がするのは錯覚ではない。
「けど、おれがおまえの歳の頃は、想像だけでマスかいていたぞ」
またしても真顔に戻る。
ころころと変わる忙しい表情だとは思うが、おかげで何を考えているのかわかりやすい時もある。
もちろん、それが下手な交渉相手よりも難敵だということも熟知している。
「当時はまだ、大道師様に打ち明けてなかったんですか?」
眼前の梁が自分と同じ十六だった頃、ちょうど前々回の西派トーナメントに出場し、黒龍拳の王きを破って優勝したと聞いた。
当時は無敗の拳士とおそれられ、現在もその実力は些かも衰えていない。
間違いなく、自他ともに認める、西派拳法最強の男だろう。
「そんなことはねえよ。おれは優秀だったからな」
第七十四代目大道師、今の七十五代目の父親も公認だったと説く。
ただ、婚前交渉はご法度だったから、それはそれは毎晩想像だけでなー、と聞きたくもない他人の性事情を聞かされる破目になる。
確かに、白華の開祖の子孫に対して、結婚前にその純潔を頂くなどという大それた真似はできないだろう。
「大丈夫ですよ」
目だけで笑って告げたつもりだったが、小手先の言葉で矛先を収める相手ではなかった。
「保証するものは何もねえくせに、大層なこと口にするんじゃねえぞ、趙」
これは忠告なのだろうと思った。
姦淫に耽ることは拳士としては重罪に当たる。
若い身空で道を踏み外すなよ、と釘を刺しているのだろう。
同門であり、入門したての頃からその実力を期待されていた者同士、兄弟のように心配しているからこそ、言ってくれているのだということも充分に理解できる。
そして、梁の後ろには、その妻となった若き大道師の姿が見えるような気がした。
「保証はできませんけど、おれは破滅しようとは思ってませんから」
精一杯感情を抑え、平素のように人当たりの好い顔を作る。
おい、趙、と尚も梁は食い下がってきたが、失礼しますと頭を下げて、厨房を出た。
意識していないと思ったが、思いの外強い力で地面を蹴りつけていたらしい。
門弟数人とぶつかったが、適当に謝ることすらできなかった。
上空を見上げると、乾いた空気が空の青さを際立たせていた。
-2013/10/11
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