相手は、少し緊張をしているようだった。
白華の里には珍しい、漆黒の道着に身を包んだ、額に『竜』の墨を入れた少し背の高い少年。
村人たちは呆けたように、遠くに近くに、彼を見ていたようだ。
けれど躊躇うことなく、さくさくと土を踏んでこちらに近づいてくる。
よお、と。
目の前で立ち止まり、ぶっきらぼうに、短い挨拶の言葉を前方の拳士へ放る。
黒龍拳の里から訪れた少年は、名を李功と言った。
人が持つ五感のうちの二つを破壊され、周囲の気配だけしか感じられなくなってしまった身の上だが、目が見えていても見えなくても、普段の生活にはさほど支障はなかった。
しかし、白華拳の師範がこのままでは、最悪、破門という沙汰が下るとも限らない。
そのことをわかっていたのだろう黒龍の李功が自ら治療役を買って出てくれたのは有難かったが、要するに李功にとっては身から出た錆。
自分に責任があることを認めての所業だが、おかげで顔を合わせていた試合中にはわからなかったことに気づくことができた。
李功が持つ、独特の気の色だ。
相対した西派トーナメントでは同門の劉宝や王きが放つ邪念の影響で見えなくなっていたが、李功本人が持つ本質的な部分はやはりというか、予想通り他の二人のように濁ったものではなかった。
黒龍拳に接触をしてきた海外のブローカーたちと直接交渉を持っていなかった所為かも知れないが、李功自身はどこにも歪んだ野心を持っていなかったためだろう。
師や兄が何を企んでいようと気にすることもなく、むしろ感知しないことにして、自らは戦える舞台と相手とそして目標があればそれで満足していたのだろう。
だからこそ、真実の部分は年相応の。
けれど、自分などから見れば、良くも悪くも随分と稚い『気』だなと思った。
例えるならば、野生の動物の子どもが放つそれのような。
大人びた見た目によって大分緩和されているが、中身は、他人に対する警戒心を露にしながら、内面のどこかに人懐こさを持っている人間なのだろうと思った。
馴らすまでは必要以上に手を焼くが、手懐けられたら、それはもうかわいいと思える対象になるのだろう。
尻尾を振って四六時中まとわりついてくるというよりは、つんと顔と目を背けながらも、気配だけを感じてこちらを気にかけてくれる、あるいはそれ以上の愛情を注いでくれるような、ちょっと厄介な性格の持ち主なのだろうと。
とは思いながらも、勝負に負けたのは自身の能力の半分も使えなかったからだとはいえ、李功に倒されたことに悔しさを感じていないわけではない。
トーナメントは文字通り真剣勝負なのだから、手加減をする方が流儀として間違っているとはいえ、二度と立ちあがってこられないように肋骨はおろか二の腕に至るまで修復不能になるまでへし折られたのは、実際生まれて初めての屈辱だった。
だから、いつもより余計に、李功の良心が咎めるように仕向けてしまう。
「相変わらず無駄な気が多いなー」
抑揚もなくそう告げる。
治療を繰り返してかれこれ二週間ほど経つというのに、向こうの回復術は一向に進歩しない。
李功が連日白華の里まで通って自身に施してくれているのは、内養功の術という、回復を行う勁の技のひとつだ。
全身の気を使って細胞の再生を助け治癒する、コントロールとバランスが最も必要とされる高度な術だ。
逆に自分などはその手の技によく通じており、頻繁に重度の怪我を負った門弟を治す仕事を請け負っていた。
気と呼ばれる、人が生来持つ活力(生命力)が豊富な人間であれば、集中を切らさず勁の操作さえうまく行えば誰でも優秀な使い手となれた。
「黒龍ではあんまり使わねえんだよ」
不機嫌な様子を隠すことのないまま、メカニズムの基礎は学ぶものの、それに特化する人間はいないと李功は説く。
「おまえ自身にも必要ないしな」
あー、と続く肯定は、相変わらず投げやりの色だ。
「どんな怪我でも自分で治せるからなー」
事実、トーナメントに出場する白華の助っ人としてジャングルから来たターちゃんに全身の骨を一瞬で折られても、一試合が終わった後には李功の体は立てるまでに回復していた。
まさに、驚異の回復力。
なのに、おのれの身体は瞬く間に治せる反面、こうして他人の傷を治療することは難しいのだ。
「………まあ、スタミナがあるおかげで、こうして通って来れるわけだけどな」
村人の足であれば一日かかる距離を半日もかからずに往復できるのは、李功ならではだろう。
だが、自身の治療は白華拳へのつぐないのひとつだと本人は言っていたが、その言葉だけで一途に約束を守り続けることはできないはずだ。
李功本人の強い意志がなければ、毎日飽きもせず同じことを繰り返しにやっては来れない。
李功が並の拳士以上に、おさないながらも情理に厚いことは間違いなかった。
「今日はこれくらいでいいか」
そ、と頭上にかざしていた両手を下ろす。
暗闇の中に感じていた光が消え、ぼう、と、ぼやけたような人影が、利かない視界の中に見えた気がした。
相手が折っていた膝を伸ばし、立ち上がろうとする前に、座ったまま手を差し出すよう仕草で伝えると、李功は素直に少し白い掌を前へ出してきた。
口調は粗いが、言われたことには大抵従ってくれるので、根はとてもいい奴なのだろう。
無言のまま、差しだされた掌の上から自身の五指を開いて掴む。
いきなりの接触にびっくりしたようだったが、想像よりも大きな手指に包まれたのが意外だったのか、李功の側から左手を引くことはなかった。
「内養功ってのは、こういう感じで勁を使うんだ」
わずかに指を浮かせ、手と手の隙間に膨らんだ繭のような気の塊を作る。
適当な傷がなかったので本当に治療をしているわけではなかったが、正しい内養功の術に直接触れることで、回復のために必要な気の練り方が理解できるだろうと思った。
じわり、と、触れた部分が人肌よりも若干高いくらいの温度に上昇していく。
戦いの時に発する勁とは異なる、独特の熱量と光だ。
内養功は、生まれたての赤ん坊の肌に触れているような感じだと評す人もいる。
「なんだ、結構元気なんじゃないか」
「何のことだ?」
「気が使えるだけの力があるってことは、もう自分で治せるんじゃないのか?」
それは違う、と思った。
これは、先刻まで送り込まれていた李功自身の気のおかげだ。
相手から与えられた温かな生命力が細胞を巡り、まだ体内に残っている、いわば名残のようなものに過ぎない。
普通であれば長時間気を放出し続けることは術者の体力を根こそぎ奪う事態に直結すると言うのに、辛抱強く、李功が豊かな命を送り続けてくれた結果だ。
心地よい、ぬるま湯のような光を、体がまだ覚えている。
「これは、さっきの…」
慌てて説明をしようとして、無意識に握っていた手に力を込めた。
他人から見れば、熱烈な告白でもしそうな情景として映ったかもしれない。
「ま、これでこの次使うときはもう少しマシになってるだろ」
「…………」
こうしておまえに教えてもらったんだからな、と、李功は少しだけ笑ったようだった。
後日、白華の村人たちは、包帯頭の師範の趙に進歩ないなーと言われ、いじめるなよ、と居たたまれない様子で返す黒髪の少年の姿を目にすることになる。
(四年前のお話(「(おれを)いじめるなよ」は、李功の名台詞のひとつだと思います))
-2013/10/12
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