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李功(りこう)という男、その約束

 その日の李功は様子がおかしかった。
 明らかに感じる気配が弱まっており、平素と異なり、その表情は険しくゆがめられているようだった。

「大丈夫か」
 受け答えも曖昧なようだ。
 言い訳めいたことを言うつもりはないようだが、少し厳しいことを挙げ連ねて、無理矢理理由を聞き出した。
 李功は元々『気』が強い人間だが、その文字が表す通り、性格的にも気が強い。
 他人に弱みを悟られたくないという面倒な意地を早々に丸めこんで、李功の本音を丸裸にしてやる。
 これが結構、退屈を紛らわしてくれる面白い作業なのだ。
 李功には気の毒だが、相手と付き合うとそんなひそかな、少々悪趣味といえる『愉しみ』があった。


 話を聞けば、前指導者の王きが所蔵していた黒龍拳の古文書を読み耽っていたという。
 通常であれば明日の訓練に差し支えるから適当なところで終わらせるはずだったのだが、その双肩にかかった責務に使命感を刺激されたからか、とうとう朝まで読み続けてしまったそうだ。
 一度や二度の徹夜くらいでへこたれる体力と精神力ではないだろうとは思ったが、五日間完徹を続けたと聞いた時には同情よりも馬鹿にするような呆れた気持ちの方が強くなった。
「休憩してからでいいぞ」
 疲れているなら、短時間でも身を休め、体調が回復してからいつものように治療を行えばいい。
 気を利かせたつもりだったが、李功は首を縦に振らなかった。
「服を脱げば、内養功の術くらい使える力は残ってる」
 強力な気の放出を封じるための札を貼ったいつもの道着を身につけているから、こんなに弱った姿をさらしていると言いたいのだろう。
 おもむろに李功が詰めていた襟に手をかけようとしたところを空気の動きだけで悟り、慌てて制した。
「だからといって、外で裸になるな。部屋なら適当なところが空いてるから…」
 妙に声が上ずったのは気のせいではなかったらしい。
 幸いにも言われた側は気づかなかったようだが。
 こっちだ、と村の建物の中へ案内する。
 白華の門弟は西派一の人数を誇る。
 開祖の時代から続く最古の門派であることはもちろんだが、それゆえに武術の型が多岐にわたっているため、幅広い人材がひしめき合っていた。
 当然、白華拳の広大な敷地内で暮らしている者もいれば、村から通う者もいる。
 とりあえず今はその一房を借りることを選択して、李功を連れて部屋に入った。

 足を踏み入れた瞬間、李功はぎくりと身を強張らせたようだ。
 わずかな気の乱れだったが、小さな動揺を見過ごすことはなかった。
「……?」
 しかし特に何も気づかなかった振りをして、寝台の上に腰を下ろすよう促す。
 先に腰かけ、相手の様子を窺った。
 見せたのは一瞬の変化だったが、李功は気を取り直したらしい。
 背を向けた恰好で突っ立ったまま襟を外し、上着の留め具を一つ一つ解いた。
 衣擦れの音とともにその下から覗いたのは、色白の肌に浮き上がった九つの紋。
 試合で見た時ほどの勢いこそ感じなかったが、立ち上る気の強さが徐々に李功の身体を満たしていく。
 充分と思えるほどに回復したのか、手を伸ばせば届く距離を残して、李功が隣に座った。
 そのまま呼吸を整えて、包帯の上から治癒の法を施す。
 頭上に温かな気の光が集中し、傷つけられた組織を修復していく。
 李功の内養功の術は回復のスピードこそ遅いが、無駄に散じている分の気が目的の箇所以外にも自身の五体のあらゆる部位に及んでいるのではないかと思うところがある。
 普通、こうして全身の気力を本来必要のない部分にまで放出していれば、根こそぎ精気を奪い取られて干からびた廃人になってもおかしくないのだが、そうはならないのが李功の持つ特質だ。
 自分にも李功ほどの気の量があれば、とかつては嫉妬したが、コントロールが得意とは言えない所業を目の当たりにする限りは、各々に相応の素質だったのだろうと感じることも少なくない。
 実際に相手のような無尽蔵の気の力を手に入れたとして、それをどう制御すればいいのか、一生をかけて悩み続けそうな予感もある。
 生まれ持った能力が大きければ大きいほど、扱える技術に限界が生じるのだとしたら、人間は万能にはなれないという、人が持つ運命と呼ぶべきものを自分たちは忠実に体現していたのかもしれない。


「少し眠っていけよ、李功。…このままおまえを帰して、無事に黒龍に辿りつけなかったら、それは全部、白華全体の責任ってことになる」
 治療を終え、すぐに帰ろうとした李功を制したのは当たり前の配慮だった。
 足取りがおぼつかないのをそのまま放置してはおけない。
 休息を取って行けという言葉裏に白華に迷惑をかけるなという意味を滲ませて冷たい言葉で諭すと、わかったよ、と渋々ながら承知したようだ。
 脱いでいた服を羽織りなおし、座っていた長椅子の上に横たわる。
 こちらの視界が利かないことをわかっていたからか、さほど逡巡することはなかったようだ。
「……………」
 背を向けて眠りに就いた李功を頭上から少し覗きこむようにして上体を捩り、気配を窺うと、すぐに整った寝息が聞こえてきた。
 よほど疲れていたのだろう。
 黒龍拳の王きは、黒龍のすべての門弟に稽古をつけた指導者だったと聞く。
 それゆえ短期間のうちに黒龍の技は飛躍的に進歩した。
 若くしてその一番の実力者となった李功もまた同じように弟子たちの個々の鍛錬に付き合うのだとしたら、その肩にかかる重責は想像して余りある。
 人数だけなら白華の方が勝っているとはいえ、多人数を一同に指揮する自分の修練とはものが違うだろう。
「……………」
 見えない先にある面影が脳裏に描かれる。
 初めて目にした時に感じた強者の一人としての印象よりも、やはり李功そのものは、年齢相応の少年なのだろうと改めて思った。
 自らに課された役目に悪戦苦闘し、悩み、立ち向かっていく、誇らしい人物なのだと。
 わずかな身じろぎとともに黒い前髪の間に開けた額の曲線が見えたような気がして、自然と手が伸びた。
 そっと重さを感じさせないくらいの細心を払い、けれど温かさが伝わるような優しさで、艶を残した黒髪を一度だけ撫でた。
 少しだけ、ほんの少しだけ。
 安堵したような吐息が李功から漏れたのは錯覚ではなかったのだろう。



 月日が流れ、あと一か月もすれば冬になろうかという頃。
 自身の両目を覆っていた包帯が解かれた。
 茫然とした薄い暗闇から解き放たれた直後、拓けたのは感じていたよりも大きな世界。
 瞬きとともに、白であったものから鮮明な形あるものが視界に浮かび、光から感じられる明瞭な色彩というものを今一度知った。
 最初は驚いたが、嬉しそうな顔を並べている心優しい村人たちや大道師の姿を捉え、これが現実なのだと実感した。
 おめでとう、趙、と。
 姉のような存在であった白華の大道師・蓮苞(れんほう)から真っ先に快方を祝われ、礼儀正しくその言葉を受けた。
 が、ふと我に返った。

「李功!!」
 すでに村の出口に向かっていた少年の元に辿りつくと、顔だけを傾けて振り返る様が目に映った。
「もう走れるのかよ」
 立ち止まり、高い位置からこちらを見下ろしてくる。
 気後れしそうになったのは、その眼差しが知っていた頃よりも柔和になっていると思ったからだ。
「患部以外は白華の師範に治してもらっていたからな」
「そーか」
 長い睫毛を瞬かせることなく、まっすぐに見つめてくる。
 物怖じすることのない、強い気を感じる視線。
 相手を実際に知覚できるようになると、懐かしさと一緒に、言い様のない思いが胸中に湧いてきた。
「もう帰るのか?」
 快復祝いにと、小さな祝宴を開くと言っていた大道師の意思を伝えると、李功は否と首を振った。
「黒龍の拳士のおれが参加できるわけがねえだろ。…それより、これで最後だな」
「……え?」
 西派三十二門派の掟では、他派の拳士同士が交わることはない。
 十年後の西派の強豪たちが一同に会する武術トーナメントで会おうぜ、と李功は言った。
 そこに浮かんでいる、特別な感情はない。
「……ああ、」
 そう答える自分の声にも同様の違和感は浮かんでこなかった。
 ただ、これが最後とは思わない。

「また、必ず会おう。」
「……………」

 わずかな沈黙の後、じゃあな、と李功は踵を返した。
 前を振り向く直前、その頬のこわばりが解ける。
 綻ぶような満面の笑顔を初めて見せて、李功は白華の里から去って行った。




(四年前のお別れ話(『その兄』で再会))
-2013/10/13
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