西派白華七十五代目大道師の婚礼。
結婚式を挙げる、と主語を明らかにせずに伝えた瞬間、誰の??、と李功の額がもの凄い数のハテナの文字で埋め尽くされた。
「…おれの、じゃないぞ」
勿論そんなことは年齢的にも当たり前なのだが、それを聞いて李功は少しというか明らかにほっとしたようだ。
何か、そんな様子すら嬉しいと感じてしまうのは気のせいではないだろう。
「梁(りょう)師範がアフリカから帰国し次第、婚礼を行う予定なんだ」
白華拳からターちゃん流空手に入門し、他流派で修業を積んだ功績を長老たちに認められて、いよいよ大道師との結婚の許可が下りたそうだ。
門派の最高指導者は他派から結婚相手を選ぶことが定められている。
同門である梁が、亡き兄たちに代わって白華の大道師の座に就いた蓮苞と結ばれる裏道として、そうすることを選択したためだ。
そして十代の頃から梁と恋人同士だった蓮苞の喜びは言葉では言い表せないほどで、遠い土地まで夫となる男を迎えに行くと言っているくらいだと、白華の塀の間を歩きながら明かす。
西派白華の代表として、供の一人でも連れて行けば良いと進言する者もいたが、彼女はひとりで行くと決心しているようだ。
ただの一人の男の妻として、大切な夫を迎えに行くと。
「そうか、梁師範が帰って来るのか」
二人のほほえましい姿を想像したのか、にこり、と李功が破顔した。
最近、本当に李功はよく笑うようになった。
どうやら黒龍の中でも稽古の合間に表情を和らげることも少なくないらしく、先の支配者・王きの呪縛がようやく解け始めたのだな、と思う。
あの非道な男の恐怖に支配されていた時分には決して見せることがなかった一面だ。
他の門弟たちの間にも、かつての緊迫したような、ぎすぎすした雰囲気が薄れてきたと聞く。
無論、いまだに『王き派』を名乗る連中もいるらしい。
李功が黒龍拳の総帥を名乗るのは時間の問題だったが、正式に認められるにはもう少し時間がかかりそうだった。
「大道師様が結婚するってことは、七十六代目の大道師誕生も近いってことだな」
よかったな、と李功は満面の笑みを絶やさないまま傍らから笑いかけてきた。
嘘偽りのない本心が心地好くて。
釣られて自身も笑顔になったのは言うまでもない。
相談相手を求めて訪ねて来た李功を白華の里の境界まで送り、門をくぐって暫く歩いていると、何やら建物の一角から不穏な空気が発されていることに気がついた。
生来、読心の術を持っている現大道師と同じく、人の放つ特に邪悪な念には敏感な体質であったので、またか、と仕方なく思わないこともない。
そしてこの発信元は、よく知っているあの人物だろうと嫌々ながらに直感する。
蓮苞も扱いに手を焼く変わり者――
「智光(ちこう)師範」
こちらがかけた声に、はっ、と我に返ったのは、巨漢の醜男(ぶおとこ)。
実際の背丈は自分よりも大分低いが、腹と顔の横幅が同じくらいという、アンバランスな見た目の、白華の高弟の一人だ。
梁のように武術全般に秀でているというよりは、その逆の方面に特化した能力の持ち主と言った方が的確だろう。
「一応白華の敷地内は神聖な場所なので、そういう真似をすると懲罰の対象になるすよ」
冷え切った目線と口調で、男の足元に転がっている恥ずかしい紙屑の山を一瞥する。
拳士としては法度とされる、大量の精液を放出した自慰の跡。
昔は目撃の都度その所業を咎め、諫めていたが、ここ数年、自分の勤勉過ぎる態度にも嫌気がさしてきた。
正論だけであらゆる人間に対して自身が信じる正しい道の在り方を説いてもそれは万能ではないのだという処世術を、この男から学んだためかもしれない。
ある意味、肩肘を張らずに生きていけるようになったのだとしたら、精神面が成長した、ということになるのだろうか。
軽蔑を込めた目つきで男を傍観してしまうのは、そういうものに敏感で、わずかだが抵抗を感じる年頃だったからという理由もあったのだろう。
あわわわ、と智光は泡を食ったようにうろたえ、頭を下げてきた。
「趙(しょう)師範、これは、大道師様には内密に――」
顔面を真っ赤にし、大量の汗を流して懇願をしてくる。
師範と呼ぶには相応しくないほど滑稽で醜悪な言動だったが、性根は悪い人間ではない。
根底に真実純粋な心の在り様がなければ、人を癒す内養功の術に長けているわけがないからだ。
実は、勁(けい)の中でも特に難しいとされる回復術を行う技は、心の平穏と密接に結びついている。
技を使っている間、集中力を途切れさせないことは当然だが、現実に長い時間をかけて治癒の法を施している際に気を張り過ぎていると、結局は自分自身の生命を脅かすことに繋がるからだ。
全身の気の力を使って怪我人を癒すことは、とても危険な作業だが、おおらかで穏やかな気持ちで術を行うことで大勢の人の命を救うことが可能だった。
その点、自分などは平静を装っているが、他者に気を送り続けることに本能的な『恐れ』を感じていないわけではない。
それは生き物であれば誰もが持つ普遍的な部分で、自身の死を予感したまま他人の傷を癒す行為が、生存本能と相反するものと捉えるのは必然だった。
黒龍の親しい友人などは、生来の生命力の強さゆえにその恐れを感じないようだったが、本質的に回復の術には向いていない気質であり、まさに苦手だと断言するような人間だった。
だがこの智光という高弟は、信じがたいが、その治療分野のエキスパートだ。
有り余る性欲ならぬ性(生)命力を元に、傷や病の平癒を行える数少ない達人。
そうであればあらゆる門弟や村人たちに尊敬されるべきはずなのだが、この悪癖の所為で智光を重く見る者は少なかった。
そうした細かな事情を頭でわかってはいるが、ところ構わず発情するような身も心も汚れきった男と気長に向き合えるほど大人でもなかった。
独り情事に耽った汚い手で足にすがられないだけまだマシだろうと思ってしまったのも無理はない。
「別にいいすけど、せっかく白華にとってめでたいことが決まったんですから、少しは……」
下半身を弄ることを自重したらどうかと忠告しようとして、地面に転がっている卑猥な洋物の雑誌の一つに目を奪われる。
そこに、見慣れた顔があったからだ。
「……!?」
幸い、男の恥ずかしい染みで汚れてはいなかったが、女の裸にくっつけられたのは、どう見ても見覚えのある端正な、そして涼しげな横顔の笑み。
それに気がついたのか、あ、と智光は短く声をあげ、下がりそうになるズボンを片手で持ち上げてこちらの顔色を窺ってきた。
「趙師範の友達を写真に撮って使わせてもらったんだけど」
もしかして、恋人だったりした?、と尋ねられる。
「……………………」
李功は男すよ。
端的に答えてしまえば良かったのだが、なぜかできなかった。
相手は物怖じしないというか、他人の怒りを買うことを恐れているのに恐れていないような図々しい性格であることは知っているし、そんな矮小な事柄に対して本気で憤る必要もないのは承知している。
そして智光が、興奮を促す対象が程度の低いものであっても充分に役割を持たせてしまうほど、低俗な性癖の持ち主であることも然り。
「…………趙師範………?」
物言わぬ怒気に気圧されたのか、汗だくだった男の表面から徐々に血の気が引いていく。
さすがにこの期に及んで拳士としての素質が警鐘を鳴らしたのだろう。
「……そいつは、李功は、おれの親友なんで」
男には見えないほど綺麗な面をしているからといって、そういうことに使うのはやめてほしいんすよね、と笑いながら顔を上げ、さらりと告げる。
にこり、と目元口元を綻ばせて、人の好さそうな笑みを作る。
柔和で人当たりの好いその顔を、帽子を被った仏様みたいだ、という村の子どももいたかもしれない。
それが、恐ろしかったらしい。
「………!!!!!!!」
智光の全身が総毛立つほどの激しい動揺を見せ、文字通り色んな部分が縮みあがったようだ。
ごめんなさい、と即座に平伏し、謝罪の意思を示してから、雑誌を畳んで目の前から素早く走り去った。
後からさらに慌てた様で、放置していた恥ずかしいごみを集めに来たが、お詫びだったのか、あれに使った李功の写真だけは表面を傷つけないようによく拭ってその場に置いて行った。
その手で処分をして、身の潔白を確かなものにしてほしかったのだろう。
金輪際、その場限りとはいえ、友人を欲望の対象としては見ませんと。
きっとその心中には、男だったの!?、という智光自身の驚愕も含まれていたかもしれない。
映った姿は塀から覗く首から上だけだったので、詰め襟を着込んでいた李功が少女のように見えても不思議ではなかったのだろう。
実際、ここ数年で気迫が優しく様変わりしたおかげで、頗る美男になったという評判も聞く。
しかし、彼の全体の容姿を目にしていたら、誰も李功の顔が見目の好い女性のそれだとは思わないはずだ。
「…………」
根っからの悪い人間ではないが、油断がならないなと思いつつ、身を屈め地面から紙切れを拾い上げる。
写真には傍らにいた自身の肩も少し映っているようだった。
横を向いているので、王きの高弟だったことを示す額の『竜』の文字が長い前髪で隠れている。
邪気のない笑みは、心の底からのものだったのだろう。
こんな姿をしていたのだな、と思った。
自分の前で、李功はこんなに無防備に心根をさらしているのだと。
その事実を知って、素直に胸が温かくなった。
件(くだん)の写真は白華にある私房に収めた書物の間に、誰にも知られずこっそりと挟められている。
(梁師範の帰国は、一年前くらいの話になるのではないかと思います)
-2013/10/14
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