李功が劉宝(りゅうほう)と面会すると聞いた時、一瞬気後れをした。
普段、あまり表情の変化がないと思われがちだったが、さすがにその時ばかりは自分でもわからないほどの動揺が興った。
思わず、両目をこれまでにないほど大きく見開いた。
絶句した、と形容した方が相応しかったかもしれない。
なぜか、理由はわかっているようで、その実。
「趙(しょう)、おれの代理として李功に付いてってやれ」
牢屋住まいの兄と会うには、それなりの肩書を持った立会人が必要になり、梁(りょう)を訪ねて来たのだろう。
襟を詰めた公式の服を着て姿勢を正した李功を従えた男が、顎でしゃくって手招きをする。
「…………」
白華の大道師の婚礼以来だったので、実質一月振りだったろうか。
長い間離れていたわけではないが、顔を見ればほっとする部分はある。
しかし、今回は違った。
恐らく、劉宝が面会を申し出たのは、白華の後ろ盾で李功が黒龍拳の総帥になった件が発端になったことは容易に推測できた。
兄には手紙を書いていたと言っていたから、初めてその相手から返事が来たのだろう。
李功の手には、色褪せたような紙切れが握られていた。
「釣れねえ兄貴だな。…会いに来いって、一言しか書いてねえ」
たった一人の実弟だろうに、と言いたかったようだ。
「……劉宝は、見るからに寡黙な男だったじゃないですか」
徒手武術の達人らしく、余計なものの一切を削ぎ落としたような見目と志を持った拳士だった。
必要以上の返答は期待するだけ無駄だという、自身の見解を語る。
四年前の西派トーナメントで相対した時のままだとしたら、突然饒舌な男に変貌するとは思えなかった。
それよりも気になったのは、何のために李功を呼んだのかということだ。
「何を苛ついてやがるんだ?趙」
何気ない一言だったが、上司の言葉にはっと我に返る。
態度に出ていたことに気づき、思考を改めた。
「すみません。……これから行くなら、時間を空けますよ」
午後から白華の村の様子を見に行く予定だったが、急な用事を言い渡されたのなら、それに従うだけだ。
梁の代理を務めろというなら、それを断る道理はない。
「着替えて来る。ちょっと待っててくれ」
李功に声をかけ、白華の敷地内にある私房へ急いだ。
相手が何も言わないのはわかっている。
あの、何事にも真っ直ぐな親友の、思いが定まらず、何かを堪えているような姿は初めて見たと思った。
「梁師範の話によると、赤羅漢(せきらかん)拳の里の外れにあるらしいな」
実際に行ったことはなかったが、地図を書いてもらったので何とかなるだろうと踏む。
村人の足だと二三日ほどかかるようだが、夜を徹しておまえたちが歩けば一晩で着けるかもな、と男は笑いながら言っていた。
李功は慕っていた兄と早く会いたいのかと思ったが、やはり自分と同じように複雑な心境だったようだ。
付き合いの深さで向こうの心中が手に取るようにわかるだけに、いつも通りの和やかな雰囲気にはなり得なかった。
並み以上のスタミナの持ち主とはいえ、休憩を挟まずに険しい山道を歩き続けていると、途中でさすがに息が上がった。
勁(けい)の力によって常人よりも体力の消耗は少ないが、それでも永久に持続するわけではない。
気を操る技は本来二種類に分けられる。
自らの体内で練り発する内気功(ないきこう)と、周囲の自然などのエネルギーを利用する外気功(がいきこう)。
自力と他力、という別の仕方は相応ではなかったが、この二つを状況に応じて扱い分けることが西派の拳士となれるか否かの分かれ道になる。
自分は前者の方が得意だったが、後者が使えないわけではない。
今のように野外で疲れた体を休めるには、外気功を使うのが効果的だ。
そして当然、湧き出る泉のように豊富な気を持っている李功には体得する必要があまりなかった。
「悪いな、急いでるんだろ」
適当な岩場に腰かけ、規則正しく呼吸を繰り返していると、徐々に緊張していた筋肉の強張りが解けてきた。
こうした些少の時間ですら退屈なのではないかと気になり、少し離れた場所で腕を組んで考え事をしていた李功に声をかける。
ずっと無言で歩き続けていたので、なぜか至極長い年月、会話をしていなかったような感覚に襲われた。
「ん?…ああ、気にすんな」
いらえに若干の間があったが、汗一つかいていない顔がこちらを見た。
外見からはとても持久力がありそうに見えないのに、屈強な男たちが驚愕しそうなほどのタフさだ。
何百といる白華の拳士の中でもここまでの素質を持った人材はいない。
仮に李功が白華の人間だったら、簡単に師範になれただろうな、と思う。
逆を言えば、各派の最高指導者は皆、白華の師範級のレベルだということだ。
自分のように若くても実力を認められれば白華では重用される。
だが、だからこそ、競合が激しい白華ではない他派で頂点を目指そうという意気の入門者もいるだろう。
基本的に拳士は門をくぐったが最後、一派の中で生涯を終える。
流派の間で人を派遣したり、留学させたりといった交流はなく、もしあるのだとしたら、それは最高指導者の婚姻の時だけだ。
門派を統率する者は、身内である同門から伴侶を選ぶことはできない。
それは古来からの鉄の掟であり、才能を一極に集中させないために作られた規律でもあった。
今回、白華拳の大道師は女性であったが、本来であれば白華以外の場所で育った者が夫となるはずだった。
梁師範も、『裏道』を使ったことは認めているからな――
思い立ったが最後、何としてもおのれの本懐を遂げようという、その心意気には共感するが。
やっと夫婦になれたことを心底から喜んでいた、大道師の姿を思い浮かべる。
敬愛していた二人の兄の暗殺。
辛いことが重なっただけに、これからは幸福になれるだろうと確信できる。
何しろ、世界最強の拳法家が側についているのだから。
意識が散じていたのか、目の前に平たい靴を履いた足元が迫ってきていることに気づかなかった。
頭上を見上げると、額の拓けた黒髪の友人が立っていた。
「趙、おまえ、外気功は得意だったよな」
藪から棒に問われ、そうでもないという意味で肩を竦めると、的が外れたのか李功は眉をしかめて横を向いてしまった。
「…なんでそんなことを聞く?」
不得意ではないが、得手というほどでもないだけだと付け加えると、視線を合わさないまま李功は言った。
「おれの気を使ったらどうだ」
「………………」
外気功の一つに、他者の生命エネルギーを使って内養功の術を行う技がある。
達人級の腕前を持つ智光(ちこう)という師範が絶妙なセンスでそれを実践することができたが、無論、自身も習得していないわけではない。
李功の提案は要するに、集めるのに骨を折る自然界のエネルギーを使うよりも、早々にあるところから取って回復しろ、ということだ。
無理矢理ではあるが、合理的ではないとは言い難い。
「…やってみる価値はありそうだな」
自分の持っている力を解放するよりも、溢れ出る気の量の多い側の性質を利用した方がいい。
得心し、いいぞと承諾する。
眼前の友人が内養功を使うことができれば、そもそも話が早かったのだが。
無駄に李功に『気』を使わせるよりもいいな、と思ったのが快諾した一番の根拠だ。
「こんなところで、ゆっくりしている暇はねえからな」
言いながら封印の札を縫い込んだ上着をおもむろに脱ごうとした李功に、そこまでする必要はないと慌てて声を上げた。
処構わず脱ぐな、と言いたかったのは当然の心理だ。
裸になるのが好きだと評すよりも、恐らく本人にとって札で力を抑え込まれることは自然とストレスになっているのだろう。
有り余る生命力を思う存分発散させたい、と願うのは、特異体質の李功だけだという気もする。
勁を使うことに躊躇しないというのは、拳士としては天才的だと言えないこともなかったが。
「背を触れさせてくれればそれで間に合う」
脱がずに背中に施された人工的な気穴に直接触れさせてもらえれば事は足りる、と説明したが、言った後で、ん?、と思わないこともない。
上着を着たままということは、服と素肌の間に手を差し入れると言うこと。
もしかすると、太陽の下で露になった体に掌を乗せるよりも恥ずかしい真似だったかもしれない。
他人の懐に手を忍ばせるのと似たような行為というのは――
「……………それでいいか?」
さすがに良心がとがめたので相手に許可を求めると、ああ、いいぜ、と気前の好い返答が帰った。
李功のことを男らしいと思うのは、こうした些細なことにほとんど頓着しない点だろう。
暑かったのか一つ開けていた留め具を、李功が手で上から順に下までぷちぷちと外すと、綺麗に整った腹筋が合わせ目から覗いた。
視線を上に伸ばすと、その上部にある、胸の谷間も。
同性ということでさほど気にならないかと思ったが、わずかに顔面に血の気がさしそうになり、咄嗟に顔をしかめることで体裁を保った。
「前からで、背中届くか?」
李功は首を捻って、自分の背後を確認しているようだ。
「………こういう時は後ろからだろ、普通……」
どういう考えをしたら、前方から、ということになるのだろう。
今の体勢のままで背後に腕を回したら、想像しなくても立派な、男女の抱擁になってしまう。
見咎めるような人のいない閑散とした山道であるとはいえ、その行いは相応しくないように思う。
少なくとも、この場では。
瞑目したり瞠目したり、よくわからない汗をかいたり真顔になったりと、忙しない朋友の表情に気を取られることなく、黒い頭がくるりと回れ右をした。
李功は立ったままだが、こちらが腰かけたままでも届くので距離は充分だ。
ふと短い黒髪の裾野から続く項を思い出し、見えなくなった陰で頬を上気させる。
しかし、ここで躊躇っていても李功に要らぬ疑問を生じさせるだけなので、観念して服の裾から右手を差し込んだ。
思ったよりも高い温度の肌に触れてしまわないよう、細心の注意を払って気の出口を探す。
下からわき腹を通り、右側の肩甲骨の下部あたりの印を目指すと、見えない顔が応えた。
「どうせなら真ん中触れよ」
背中の上部中央にある陰陽の大きな出口を使え、と言われた。
ここをキーにして、小さな気の出口が作られている。
陰陽のマークは魂(こん)と魄(はく)を意味し、気本来が持つとされる性質のバランスを表わしているのだが、これを体に大きく彫られた拳士というのはあまり見たことがない。
飾りやまじないのために施す者も稀にいるが、李功のそれは勿論護符のような役割もあるのだろうが、周囲に規則正しい配列で置かれた六つのマークに、集中した力を分散させ、均衡を安定かつ強固にしているのだろうと思った。
特に、両肩の裏のそれぞれに置かれた二つの印は、形状は他と同じでもあとから付け加えられたものだと言うことがよくわかる。
上半身だけでなく、上腕に至るまでの経路から多量の気が放出されるように仕向けたのだろう。
よく考えられた配置をしていると思ったが、それは当然、生半可な知識を持って施すべきではないほど、李功自身の力が強力だったということだ。
下手をすれば、経絡を激しい気の奔流が通り、内側から頭蓋を破裂させる危険性があったのだろう。
持って生まれた特質であるにもかかわらず、それがおのれの死とも直結する、あやうい力。
李功は常に平気そうな顔でいるが、体質ゆえの幼少からの気苦労というのは自分だからこそよくわかった。
生来それらの能力が人の倍以上抜きん出ていたからこそ、懸念した自身の親が故郷から遠く離れた白華にわが子を預けたことは間違いではない。
扱い方を知り、役立てることができたのはその両親の選択があってこそだ。
そして強い気を持つ子どもを産んだ母親が一時は衰弱し、それ以来病弱になったことも知っている。
思い出しながら手を這わせていると、李功が時折息を詰めていることに気づいた。
「……?」
ああ、と胸中で合点をしたのは、不規則な動きで肌をなぞっていたからだ。
他人の皮膚であるからこそ敏感になっているのかもしれないが、後ろから窺える耳たぶはほんのわずかだが紅潮しているようだった。
さすがに申し訳なさと気恥かしさを感じて、外気功を使うために集中する。
余計に李功の熱さが気になったが、ほどなくして自らの気が満たされたことがわかった。
これまで人体から直接精気を得たことはなかったが、輸血をされるのとはまた違った感覚がある。
目の前の友人だからだろうか。
強い力が全身をめぐり、満たされたような気がする。
「済んだか?」
触れていた手を凝視していたので答えるのがほんの少し遅れたが、ああと今度は実際に口に出して頷くことで了解の意を伝えた。
手早く前を整えると、李功は先へ進むために足を前へ踏み出した。
それに続くように自身も歩を進める。
李功の兄・劉宝が軟禁されている岩牢に到着したのは、それから一晩経った後だった。
(上級プレイ(?)にどきどきする十代)
-2013/10/17
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