劉宝と対面するのは三年振りになる。
先の西派トーナメントで黒龍拳と対戦した時以来だ。
十年の間に目覚ましい進歩を見せつけた黒龍の中で異質の気を放つ、師である王きを凌ぐほどの実力の持ち主だった。
その面は鋭利な青龍刀のように研ぎ澄まされ、どこか大蛇を思わせるような眼差しの、油断のならない雰囲気を漂わせた男だったと記憶している。
罪人として今も刑に服している劉宝はわずかに痩せたようだったが、髭を反り、伸びた髪を束ね、拳士らしいたたずまいで弟の来訪を待っていた。
兄を一目見るなり、李功の顔色が変わった。
はっと息を飲み、静かに拳を握ったようだ。
久しぶりの再会であれば、昔のようにすぐに傍らへ歩み寄りたかっただろう。
だが今は、鉄の格子が行く手を阻んでいる。
劉宝は弟の姿を認め、次に背後に控えていた自分を見て、少し額を顰めたようだ。
何者であるかを観察し、特徴的な容貌から即座に結論に至ったのだろう。
硬い頬をわずかに引き攣らせたようだった。
距離を置いて膝を折り、二人の話の邪魔にならないように控える。
連れて来た人間が面会の監視役であることを認めると、劉宝はそこで初めて李功に視線を合わせた。
男は長年離れていた挨拶もなく、ただ端然と一言だけを黒龍拳を統率する座に就いた弟に告げた。
おれは黒龍をやめる、と。
「……………」
予想していた言葉だったので、特段の驚きはなかった。
李功も少なからず予期していたのだろう。
しかし、動揺は隠せない。
慎重な声音を作って理由を問う弟に、男は何の感情も示さず淡々と答えた。
李功が黒龍拳の総帥になることで、自身の居場所はなくなる、と。
師である王き以外に従うつもりはないこと。
王きが黒龍の最高指導者に復帰しない限り、黒龍に戻るつもりはないと。
まるで硬い岩壁のように強固な忠誠心を持ち続けられる精神力はさすがと言うべきだろう。
盲信していると言っていいほど、劉宝の中でいまだに王きは絶対の存在であるらしい。
だが、答えはそれだけで終わらなかった。
「白華の犬になったおまえに、教えを請うつもりはない」
「……………」
ぐ、と息が詰り、李功が言葉を失う。
男は、かつて敵対した白華を、今も憎んでいるのだろう。
西派の掟を破ろうと画策をしたのはそちらであるにも関わらず、この期に及んでも白華拳と大道師に怨みを持っている。
自身と師の野望であった白華の打倒を阻止した師範の梁の後押しで李功が黒龍のトップに立ったことを認めないからこそ、黒龍を捨てるのだ。
頑迷におのれの意思を信じ、他人の意見を受け入れない。
この手の人間はどう諭したとしても結論を変えることはないだろう。
実の弟を『犬』だと評した時点で、それは確定的だった。
「……おまえは、刑を終えたら出家するということか?」
「…………」
無感動な目がつらりとこちらに宛てられる。
そうだ、と低い声音が帰った。
「おまえが金輪際、西派と黒龍。…それに李功と関わらないというのなら、それでいい」
白華はその選択を認める、と李功に代わって告げる。
元来拳士が門派を脱退する場合、習得した技のすべてを封印される。
歴史の中には両方の手足の腱を切り、戦えない体になった者もいるらしい。
だがそのほとんどは仏門に入り、世俗からの接触を断つ方法を選んでいる。
それはつまり、生きている間も死んだ後も家族や友人たちと二度と会わないということだ。
西派の技を捨て、弟を捨てるというなら、それでも構わない。
白華にはまったく関係のない内情だ。
それに怒りに覚え、言葉を誤る真似ほど、滑稽なことはない。
梁の代理として訪れた自分は、決定を認めて受け入れ、その手続きを機械的に行うだけだ。
自身の米神が無様に震えているのは錯覚のはずだ。
「用は済んだ。…帰れ」
抑揚のない調子が殊更男の非情さを強調しているようだった。
李功に一言の声もかけず、立ち去るよう命じる。
決別を告げられてから微動だにしなかった李功の身体がぴくりと振れた。
「……………」
蒼白になっていたと思っていたその顔は、幾筋もの見えない涙に濡れていた。
赤羅漢(せきらかん)拳の里から離れ、山道に入った後も、李功の頬が乾くことはなかった。
これまでも李功がこうして目を腫らせることはなかった。
どんな苦境にあっても、困難を前にしても、その意気には常に闘志が宿る、心の強い人間だからだ。
止め処なく流れ落ちる水滴は、恐らく李功の一生分の涙なのだろうなと思った。
李功はわかっていたのかもしれない。
けれど、知らなかったとしても良いのだろうと思う。
今頃、肩を震わせ、むせぶように泣いているのは独房にひとり残った兄の劉宝なのだと。
黒龍に戻ることを選択しなかったのは、王きを師として崇め、尊重している以上に、裏を返せば新しい指導者となった李功が指揮する一派に、旧体制の人間が紛れないように仕組んだためだ。
旧派の存在は必ず新指導者が進む道の大きな妨げになる。
李功にとってはそうではなかったとしても、劉宝が黒龍に戻れば、その下に付く門弟たちの間には少なからず波紋が広がるからだ。
李功を好しと思わない者の中には、王きの復権を望むものも出てくるだろう。
そういう人間に担ぎ出されるのが、劉宝のように力のある者たち。
これから李功の手によって再建され、成長するだろう黒龍に争いの火種を持ち込ませないために、劉宝は自らの処遇を決断した。
弟を悲しみの底に追いやることになろうとも、李功と黒龍。二つの未来のための捨て駒になることを選んだのだ。
馬鹿な男だ、と思う。
それほどまでに愛している肉親を、自らと同じように泣かせているのだとしたら。
李功は崖の上から遠くの景色を眺めているようだった。
ぽたぽたと地面に黒く染みを作るその目の感情など意に介さないように、見えない場所を捉えようとしているようだった。
「…………」
無言で隣に腰を下ろすと、暫く経ってから李功もまた尻を付いた。
互いに会話はなく、じっと時間が過ぎるのを待つ。
ひとりにしようとは思わなかった。
そして李功自身も、他人の存在の有無のどちらも望んでいなかったのだろう。
呼吸をしているのかも定かではないほどの静寂と、風の流れだけを感じる。
やがて移ろう時が暗闇になる前の赤い光を連れて来る。
空気の動きすら無に還ったかのような沈黙の中、ぽつりと李功の声が届いた。
途切れ途切れに、別れた兄との思い出を語る。
聞かせているというより、思い出した順に口に上らせていると言った方が正しかったかもしれない。
返事など期待していない、単なる独り言のようなそれを。
夜が更けても傍らで聞き続けた。
黒龍に戻る前、李功は白華の梁の元へ今回の報告をするために立ち寄った。
里へ入る前、つとその背に声をかける。
何か用かと振り向いた李功の貌を見て、苦笑する。
「目、腫れてるぞ」
一晩中泣いていたのだから冷ます暇がなかったのは当然だ。
相手はこれまでに一度もそんな状況に陥ったことがなかったので、自分がどういう外見をしているのか見当もつかなかったのだろう。
鏡もなかったのだから、無理もない。
「じっとしてろよ」
返答を待たずにその側へ寄る。
数歩進んだ先でそっと身を屈めて、何事かと眉をひそめた李功の眦に口元を寄せ息を吹きかけた。
「…………………」
もう片方。
何もなかったかのように顔が離れると、李功が怪訝な表情をしていた。
「梁師範に泣いていたことがばれたら、体裁が悪いんだろ」
他人に弱みを見せたくない性格だからな、と暗に指摘する。
双眸の赤みを内養功で取り除いたのだと察し、ようやく李功が口を開いた。
「…………」
否。
開こうとして、やめた。
「………行こうぜ」
「ああ」
音に成らなかったわずかな間(ま)に、ありがとうという感謝の意が込められていたことを、柔らかく綻んだ相貌が語っていた。
-2013/10/18
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