黒龍拳の開祖の血は数十年前に絶えたと聞く。
実質的な最高指導者は大道師に相当する総帥であり、その次に最高師範が続いた。
名実ともにかつての黒龍の最高師範であった李功の兄・劉宝は当時の総帥・王きとともに刑を受けていたため、実質的には総帥以外は不在ということになっていた。
一人ですべてを取り仕切ることは難しかったため、李功は門弟たちの意見を広く聞き入れ、彼らと協力することによって旨く門派をまとめているらしい。
二人の指導者を失うことになった黒龍は李功が一から出直しだと言っていた通り、開祖の一族が生きていた時と同じようなシステムに戻したのかもしれない。
そしてそれを実行に移せるということは、劉宝と李功の兄弟はその実力とは別の場所でもひそかに尊敬を集める対象だったのかもしれなかった。
あるいは、西派を暗殺集団として雇おうと金をちらつかせながら接触してきた白人ブローカーが現れる前の、黒龍本来の姿に戻っただけなのかもしれないが。
白華拳の拳士を象徴する白の道着を着たまま、黒龍の門をくぐる。
入口に控えていた拳士に案内は必要ないといつものように断り、寄り道をせずすたすたと目的の方角へ進む。
ほとんどの門弟たちは朝の稽古に集っているので敷地の中は閑散としているが、こうした雰囲気は嫌いではない。
常に大勢の人が犇めく大所帯の白華拳とは違った緊張感で満たされているような気がするからだ。
やがてしんとした空気の中、拳で打ち合う独特の音が聞こえてくる。
すぐにそれは止み、おお、という歓声に代わった。
高弟たちの実戦を公の場でを公開するのも、他の門弟たちの修練の参考になる。
指導者自らが毎日組み手を行うのも、黒龍拳ならではの鍛錬方法だった。
「……………」
二人同時に繰り出される左右からの連撃をやすやすといなし、これ以上こちらへ踏み込むことは無理だと悟ると、電光石火で反撃を食らわせる。
手っ取り早く技の精度を高める方法としては間違ってはいないのだが、説明を伴わないのであまり丁寧とは言えないやり方だ。
口下手というわけではないけれど、そういえば人見知りをする質だったのかもしれないと思わないこともない。
実際に相手がこれまで、技術のすべてを体に叩き込ませるような覚え方をしていただけかもしれないが。
気づいているのだろうと思っていたので、そのまま腕を組んで立ったまま勝負を見守る。
次々に壇上へ上がる高弟全員を場外へ叩き出すと、端正な容貌が振りかえった。
汗を拭くための布を持って控えていた門弟に、あとは任せると言って壇を降りた。
当然のように、その体には汗の一つもかいていない。
しばらく待っていると、李功の方から出向いてくれた。
客分であるこちら側から門派を仕切る側に何かを要求することは非礼だからだ。
「何か用か」
普段通りに、直接用件を問う。
何も言わずに見返していると、気分を害することなく、次々と他愛のない話題を持ち出してくる。
人見知りは確かにするのかもしれないが、深い部分まで打ち解けてしまえば、李功が非常に親切で人懐こくなるのは言うまでもない。
黒龍拳を統率する身となってからは、弟子たちの前では口調が柔らかいのも特徴だ。
年々風格を備えていっていると言っても過言ではないだろう。
「暇ならいっちょやるか?」
余暇を貰ってここに来たわけではないが、李功の涼しげな眼を見ているとどうでもよくなってくる。
ああ、と片言で返すと、李功はその整った顔をほころばせた。
久しぶりに互いに思い切り汗を流し、濡れた服を脱いで休憩がてら適当な石の上に腰かける。
若干の疲れはあるが、白華で感じるのとは違う、気持ちの好いものだ。
本気で打ち合うことができるライバルがいるのは本当に恵まれていると思う。
勿論、攻防の中で心理的な駆け引きがないわけではなかったが。
「スタミナ付いてきたんじゃねえのか、趙」
長時間勁(けい)を使い続けても突然ぶっ倒れることがなくなったと説く。
そこまで体力がなかったつもりはないが、常人以上の回復を可能とする李功にとってはそれらの増減すら勝敗を分ける要素になり得るからだ。
「無駄にでかくなってるわけじゃないみたいだな」
憎まれ口のようなものを叩き、李功は裸の肩を震わせてくくくと笑った。
根が真面目だと言われるので楽しい会話というのは自分にとっては些か苦手な部類に入るが、李功が笑っていてくれればそれで良い気がしてくる。
大した返答も返さない人間を相手に飽きもせずにしゃべり続けられるのは、恐らくあちらの本質のようなものなのだろうと思う。
話が尽きないということは、それだけ頭の回転が速いのだと思わなくもない。
そして友情という好意も、その行動に加味されているのだとしたら。
「……で、本当の用件はなんだ?」
頃合いを見計らって、李功から仕掛けてきた。
気づくだろうとは思っていたので驚きはしなかったが、こちらの様子から何かを察していたのだろう。
無論、他派の師範がわざわざ実践相手だけを求めてここに来るはずがないと踏んでの言だ。
「当ててみないか?」
「……?」
自分が何の用事で李功を訪ねたのか。
問われ、李功は口を噤んだ。
深意を読み解こうとしているのだろう。
「そりゃ、良いことか?…悪いことか?」
伝えに来た事柄の善し悪しを問う。
「…おまえにとって良いことかどうかはわからない」
思わせ振りな言葉で向こうの出方を見る。
澄ましたような友人の口元が笑っているのはあまり参考にならないだろうと考え、李功は別の方法で探ることにしたようだ。
丸い頭の天辺から爪先まで、何度も見上げたり見下ろしたりを繰り返す。
相手の長い睫毛が持ち上がったり伏せられたりするのを眺めていると、何となく愉快な気持ちになって来る。
やがてその視線が自身の眉間に止まり、わずかだが李功は顎を引いて考えるような顔つきになった。
神妙な雰囲気だが、鋭い中にも妙な色気があるのは気のせいだろうか。
「……見た感じじゃ、『白華にとって良いこと』、ってところだな」
「…………」
そんなに幸せ一杯の気分に溢れていたわけではなかったが、李功を見ているうちに内心が外へ現れていたようだ。
けれど、指摘はあながち外れているとは言い難かったので、肯定する代わりの頷きをひとつ。
そこでピンと来たのか、李功の唇がかすかに開いた。
「………………大道師様の関係か……?」
白華だけでなく、西派三十二門派を従える女性を指す。
「…………」
ほとんど当たっていたので、大きな目で真っ直ぐに李功を見つめ返すと、どうやら真意が伝わったようだ。
すぐさま李功は、本当か?、と大分慌てたように言葉を放った。
「…まだ内密だぜ」
「………!!」
このところようやく落ち着いてきたから、極一部の人間にだけ伝える許可が下りたのだと告げる。
母子の体調が安定し、流産の危険性がなくなったので、やっと身内以外にも報せられるようになったのだ。
他流派の長老には、今日にも情報が伝わるはずだ。
そうか、と言って、李功はふと横を向いた。
が、すぐにこちらを振り返り、よかったな、と言って笑ってきた。
「無事に生まれて来るまでは安心できないと梁師範は言ってたんだが、」
確かにその通りだが。
「慎重に受け止めてるつもりでも、毎日蓮苞様の様子が気になって仕方ないみたいだぜ」
稽古の合間にひっきりなしに妻子の身体を気にかけて彼女が執務を行っている塔に戻って来るので、鬱陶しいのだと苦笑しながら大道師が話していたことを明かす。
「…梁師範が父親になったら、意外と親ばかになりそうだな」
数多くの修羅場を経験し、常に厳格そうな見た目をしているが、クールに見えて実は情に厚い事実は、男の指導を受けた者なら知らない人間はいない。
「意外どころの話じゃないかもな」
今でも充分その素質があると話すと、李功は声に出して笑った。
(おめでた蓮苞さん)
-2013/10/23
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