馬鹿野郎、と雷鳴のような怒号が響いた。
西派拳法最強と呼ばれる男の怒りは真っ直ぐで、真摯なものだった。
だからこそ溢れる怒気は地面や空気をびりびりと揺るがすほど強烈で、立ち向かうことができる者など誰もいなかった。
この場に細君であり白華の大道師である蓮苞(れんほう)や彼女の息子が同席せずにいたことは幸いだったと思う。
床に折った膝の上で握った拳に力を込める。
道理としては筋が通っている男の言葉は、すでに何回も、何千回も自身の中で自問自答したことだったからだ。
「撤回する気はねえって面だな」
加減を知った大人らしく、怒りの矛先を身の内で鎮めながら、静かに男は吐き出した。
「梁師範が言ったことは、すべて真実ですから」
真っ向から視線をぶつけ、きっぱりと明言する。
怖いもの知らずなのではない。
自らの覚悟をはっきりと相手に伝えるためにも、強力な気迫を前にしてうろたえている場合ではなかったからだ。
黒龍の総帥となった李功と関係を持っていること。
度々白華の里を出ては、逢瀬を繰り返していること。
「…………おまえがそんなに馬鹿な野郎だとは思わなかったぜ……」
梁は口元を苦々しく歪めたまま、絞り出すような声音で呟いた。
その額は険しさを留めたままだったが、目元にはどこか憐憫にも似た思いが宿っているようだった。
恐らく男にとって、自分だけでなくここにいない李功も含めて庇護の対象であり、信頼できる仲間として認めてくれていたからだろう。
双方の処遇に対して心を砕いているからこそ、真剣に咎め、諭そうとしているのだ。
相手の心情が手に取るようにわかるだけに躊躇う部分がないわけではなかったが、だからといって退くつもりはなかった。
中途半端な気持ちで、李功に心の内を打ち明けたわけではないからだ。
男の言い分は、正に自分が考えていることと同じことだった。
どう考えても立場が違う。
異なる門派の拳士同士であるだけでなく、自身は西派を統率する白華の師範だ。
かくいう李功はかつて三十二門派の中でナンバー二の実力を持っていた黒龍拳の、今や最高指導者として確固たる地位に就いている。
性別の問題を議論する前に、どう考えても結ばれる道がないからだ。
これまでのように李功と関係を続けるのであれば、いずれは自分が白華を出なければならなくなる。
破門という形ではなかったかもしれないが、先の大会で師範を三人も謀殺された手前、白華はこれ以上実力者を欠くことはできない。
そしてその原因を作った黒龍の代表者である李功も、白華拳への罪滅ぼしという贖罪が残されていることを理由に、白華の力を弱めるような事態を認めるわけにはいかないだろうからだ。
さらに言えば、今だ立て直しの最中である弱体化してしまった黒龍から、若き指導者である李功を白華の側が引き抜く真似などできるはずもない。
「……頭が冷えるまで、当分謹慎してろ。趙」
深い縦皺を眉間に刻んだ男の顔には、神妙な、複雑な影が何重にも差しているようだった。
私房に蟄居を命じられ、部屋に入るなり備え付けられた椅子に腰を下ろした。
特に思い浮かぶことはない。
上司に知られてしまったのであればあとは沙汰を待つしかなかったからだ。
十中八九、李功との交際は認められない。
それほど寛大な場所でも、若い拳士の私情を理解してくれる人間がいるわけではないことは自明だからだ。
もしかすると最高師範の梁がすでに門弟の一人に命じて黒龍の里へ李功を呼びに行かせたのかもしれない。
両者の言い分を聞いて、その上で最終判断を下すかもしれない。
李功が男に対して如何なる選択を示し、どんな結論が出たとしても、おのれの決心が揺らぐことなどないと断言できるが。
「…………………」
書棚から一冊の薄い草紙を取り出す。
ぱらぱらとめくると、すぐに目当てのページに辿り着いた。
視界の中に、李功が笑っている数少ない写真が映し出される。
横顔だったが、ここまで明らかな姿は早々留められる機会はない。
偶然の産物だったが、これに慰められたことは一度や二度ではなかった。
立ち上がり、寝所へ着くと仰向けに横たわる。
眼前に件の写真を掲げ、無言のまま凝視する。
再び片恋に戻ったとしても、きっと後悔はしないだろう。
歴とした覚悟の前に李功に対する思慕だけではない。
思慮や配慮や思いがあるのだという事実を、改めて悟った。
-2013/11/30
→NEXT