よお、と、昔と同じような短い挨拶を放ってくる。
李功はまるでここ数カ月の間に何事もなかったかのような清廉とした佇まいでこちらに笑いかけて来た。
「…………………」
返すべき言葉を失いながら、濃い朝霧が包む空気が室内に入ることを懸念するように、気づけばその腕を引き寄せていた。
小柄だが人並み以上の素質に恵まれた体躯を部屋に引き入れ、素早く扉を閉じる。
慌てていないと思っていたが、相手にとっては予想を裏切るような性急な動きだったらしい。
おい、とどこか焦ったような注意が耳に届いたが、気にかけている場合ではなかった。
どうしてここにいるんだ、とか、なんで会いに来たんだ、とか。
異なる門派のそれも最高指導者が白華拳の敷地内で門が開放される時刻よりも前に他者にその姿を見咎められてはまずいと考えるよりも先に、誰の目にも触れさせたくないという本音のような本能が先に働いたのかもしれない。
長い指が余るほど自分から見れば細い手首を掴んだまま、その視線から逃れるように一旦は背を向けたが、再び身を翻して李功の頭上を見下ろした。
靄のようなおぼろげな光しかない空間に、頭ひとつ分。
否、それ以上下にある小奇麗な風貌、艶のなまめかしい真っ直ぐに伸びた黒髪。
バランスを備えた肩幅、胸から下の、衣服に包まれた線、容姿。
よく見知っていたはずの姿態が、はっきりと視界に映し出される。
その拓けた額には怪訝そうな、非難するような影が浮かんでいたが、それをしたいのはむしろこちら側だ。
本心を言えば相手を責めるのは間違っていたのかもしれないが、それでも言わずには居れなかった。
確認したいことがある、と言い置いて言葉を投げた。
李功の強い眼差しを捉え、真っ直ぐに見詰めながら念を押すように語りかける。
掴んでいた手は振りほどかれることはなかった。
「先におまえに劣情を覚えたのは、おれだ」
だから、非があるべきは自分自身だと。
今回の件で李功に責任はないと告げる。
一言を告げた後は即座に相手を解放し、他の門弟たちに悟られる前に黒龍の里へ帰すつもりだったのだが。
そうか、と、李功から素っ気ないような端的な応答が帰った。
意思の強そうな目元と陰ることのない切れのある鮮明な印象の双眸は、記憶と寸分も異なることのない、普段通りの強い光を放っていた。
対話という動作を行うために必要なのは、かわしたり逸らしたりといった緩慢な駆け引きなのではない。
年相応の深慮はあっても、常に目線を逸らすことなく、李功は相変わらず偽らない本心だけを告げることを信条としていたのだろう。
「けど、欲情したおまえの顔を見て、欲情したのはおれだぜ」
「……………」
暫時、沈黙が流れた。
予期していなかったというよりも、告げられた意味を咄嗟に反芻してしまったからだ。
「……興奮した、おれの顔が好きなのか…?」
しかめっ面になっているのだと思っていたが、声を発する自分の頬がわずかに紅潮しているのがわかる。
長い間隠してきた思慕を告白し、当たり前のように体で交わってしまったからこそ、互いのどこを好もしいと思っているのかを、これまで具体的に話したり尋ねたりしたことはなかったからだ。
言わなくてもわかるだろうと自惚れていたわけではないが、思わず聞き返していたのはそのためだ。
特に機嫌を損ねるなどという醜態は見せず、李功は口の端をくいと持ち上げた。
得意そうな、けれどどこかにおのれ自身への皮肉を込めたような、困ったような貌。
「おまえは昔から大真面目な奴だったからなー」
だからこそ強い責任感と一本気な気質を買われて、幼い時分から西派を束ねる白華拳の師範を務められたのだろう。
その現実を踏まえて、小さく鼻を鳴らした李功は自らを嗤ったようだった。
「欲情してんのを仏頂面を作って無理に我慢してる面なんか見せられたら、もっとおまえを興奮させたくなるんだよ」
昔からそうだった、と、自嘲気味に横に目線を流して呟く様は、発した内容はともかく、とてもこちらを挑発しているようには見えない。
門派を束ねる指導者として、露骨な性欲を戒めるべき立場であるとの自覚がそうさせているのだろう。
それなのに、むしろ。
今感じているのは、空虚な思いでも滾るような羞恥でもなかった。
「……………そうだったのか」
そんなつもりはなかったが、と心中で独りごちる。
勁(けい)の力を使って人の心を読むことができる大道師のように、自分こそが他者の内面を覗き見る術に秀でていると思っていたが、元来最高師範の梁(りょう)や李功の方が先天的に人の本質を見抜く目に長けていたのだという事実を改めて回想する。
だとしたら、いつしか友情を超えて李功に肉欲を覚えるようになった頃から、相手には少しずつ気づかれていたということになる。
そして気づいていながらずっと見守り続けた末に、やっとのことで打ち明けたおのれの告白を聞き、受け入れてくれたのだとしたら。
「…だから、この件でおれたちのどちらかが悪いかそうでないかってのは問題じゃねえんだ」
呟いた李功の声は、親友を辛抱強く諭すためのものではなく、かといって慰めるためのものでもなかった。
「梁師範と白華の大道師様には、おれの気持ちを言ってある。その上で、白華と黒龍と西派の立場を考えて、どうすればいいのかも――」
言葉はそこで途切れた。
おい、と、今度こそはっきりと訝しげな李功の声音が耳に届く。
大人びているようで、少年然としたような、どこか透明な響きを含んだ声。
握っていた手を掴み寄せ、大股に部屋を横切った。
寝台へ続く長い布を払いのけ、辿り着いた寝具の上に上体を倒す。
趙、と名を呼んだ眼前に自身の鼻先を突き付ける。
「悪いがおれはやめる気はない」
大きな目で正面から見据えた先の顔には、純粋な驚きだけが浮かんでいた。
-2013/12/16
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