待てよ、趙(しょう)、と。
慌てたように李功は圧し掛かって来る大きな影を押しのけようと肩を掴んだ腕を突っ張らせた。
指が食い込むほど力がこめられていたわけではなかったが、李功の鍛えられた上腕の筋肉が、ぐ、と盛り上がる。
相手が明らかに拒絶する動作を見せるのは珍しい。
確かにこのまま寝所で及ぶには唐突すぎる展開だったかもしれないが、昏い期間を経て待ち望んでいた瞬間でもある。
何をいまさら、と言いかけた言葉を飲み込み、辛抱強く李功を説得することに集中した。
この場合、言葉ではなく行動で示した方が手っ取り早い。
素早い手つきで李功の腰帯を解き、上着の止め具を外さないまま裾から掌を忍ばせる。
一瞬李功の目つきが鋭くなったが、下肢を持ち上げて力強い脚で蹴りつけてくることはなかった。
口で口を捕え、噛みつくように塞いだ空洞の空気を奪うように吸い上げる。
びくりと一瞬大きく上体が振れたが、抵抗することなく受け入れられた。
一度でもこうして肌を触れ合わせてしまえば、相手が拒めないだろうことは李功には悪いがすでに学習済みだ。
一般の恋人同士よりも間隔は広いかもしれないが、重ねた行為の大小によってどうすれば肉欲の導火線に火が点くのかを知っている。
こうして自分の側から性急に求めるようなことは今までなかったとは言えないが、そういう時は決まってわずかな余裕を見せつけるように李功はどこか嬉しそうに微笑っていたと記憶している。
にもかかわらず、今も李功は眉間を険しくしたままだった。
普段であれば向こうの変化に些かの懸念を覚え、中断したかもしれないが、一旦堰を切ってしまった思いに歯止めはかけられない。
かけたくない、というのが本心だった。
下衣を剥ぎ、後ろから抱きしめたところでようやく相手から声が発された。
「……こうなるってわかってたら、ここに来なかった、……ってのは、きっと方便になるんだろうな」
腕の中の低い位置にある黒い頭から深い嘆息が漏れた。
けれどそれきり何も言わず、李功は振り返るような動きで後ろに腕を伸ばしてきた。
そのまま腰を抱くようにぴたりと身体を添わせる。
それを了承の意と解釈して、前に伸ばした手で李功の胸の前を肌蹴させる。
背後から覆いかぶさるように繋がった後も、繋がる前も、重ねた両方の五指を放さないようずっと握りしめていた。
「………用は済んだかよ」
「……………………………………」
黒い髭の下の口をへの字に歪めたまま、怒気を内面に漲らせた男の前で李功と並んで立ち尽す。
どうやら、というか、途中から何となく気がついていたが、自身の上司であり白華の最高師範である梁(りょう)を私房の外で待たせてしまっていたらしい。
李功が早朝であるにもかかわらず敷地内に足を踏み入れることができたのも、恐らく男の手引きがあればこそだったのだろう。
そうであったのなら、李功があれほど焦っていたのも頷ける。
結局は合意の上で行為に及んだとは言え、こうなることを予期していたからこそ李功本人としては何とかして避けたかったのだろう。
ただ、室内に引っ張り込まれた時点で李功が力ずくでもこちらを止めようとしていれば話が早かったのだが。
「すみませんでした、梁師範」
先に口を開いたのは年上の李功の方だった。
思わず自身も言葉を発そうとして、男に留められる。
「おめえらが悪いのは当たり前だ。何時間も待たせやがって」
おかげで朝の演習を挟んじまったじゃねえか、と恨みごとを言われる。
反論する余地がなかったので改めて陳謝とともに李功ともども頭を下げる。
後輩たちの久しぶりの再会に水を差すことなく梁を外で待たせていたのだとしたら、若干の後悔を感じないわけではなかったが、それでも男の厚意に感謝せずにはいられなかったからだ。
李功との関係を許されたわけではないだろうが、見守るだけの懐の深さがあることに知らず感じ入っていると、李功の相貌に一瞥を投げた男が嘲笑するように片頬を歪めた。
「賭けはおまえの勝ちだな、李功」
最後の詰めは甘かったがな、と負け惜しみのような台詞を耳にして、何のことかと相手の様子を窺うと、こちらも複雑そうな顔をしている最中だった。
「……趙だけじゃなく、おれ自身の内心を読み切れなかったのは認めます」
半ば呆れたような口調で、まだまだ甘いんだよ、と梁に揶揄され、李功は困ったように曲げた眉の下で頬をかすかに染めたようだ。
自分以外には絶対に見せない表情だったが、ああ、と納得する部分もある。
男と李功はかつて十年に一度開かれる大会で対戦した経緯がある。
今も昔も西派最強の格闘家である梁にとっては赤子の手を捻るような存在ではなかったかもしれないが、黒龍の先の指導者である王きの手助けがあったからとはいえ、李功が辛うじて勝利を得ていた。
しかし、深手を負わされた経験があるとはいえ、男は当時十四歳でありながら稀有な才能を持っていた李功のことを敵でありながら少なからず評価していた。
王きの手を離れ、仲間の怪我を治癒した事実を知らされた後は、それこそ自分同様に、弟子や弟のように目をかける存在となっていた。
興味深いと思ったのは、四年前の出来事を禍根であるとは一切思わず、王きの私怨などまるでなかったかのように付き合える度量を二人が持ち合わせていたことだ。
臆面もなくものを言う気質が影響しているのか、李功は白華そのものに対しては遠慮というか、つつましげな態度を見せることが多かったが、最高師範である男に対しては自らの考えを明らかにすることが多かった。
胸襟を開くことに何ら抵抗がないような相手の素振りに対して、梁の方も堂々とそれを受け止めている。
立場的には白華の最高師範と他派の最高指導者だが、同時に師弟のようでもあり、どこか対等な位置にいるような気さえする。
若しくは、よほど馬が合うと言うべきか、とにかく考え方が似通っているというより、同質と言えるような、根本的にはかなり近しい間柄であるように見えた。
当人たちにその意識はなかったかもしれないが、実際の親子でもここまで波長が同調している人間というのは珍しいだろう。
だからこそなのだろうか、男の方はと言えば、若輩たちの失態を頭から叱りつけようとしているわけではなかったらしい。
「賭けって、何のことだ?」
質すように李功の頭上を見下ろすと、親友は梁と目線を交わして失笑したようだ。
応える役を引き受けるように、男が口を開く。
「趙、おめえが二月、李功と会わずに堪えたら、おまえらの仲を黙認しろって言って来たんだよ」
もちろんその前におまえ同様李功をこっぴどく叱責したがな、と付け加える。
不義であることを認め謝罪した上で、どうやら李功は白華の最高師範と大道師の前で明言したらしい。
自分と相手の関係が本当に不必要なものであるか否かをその目で確かめてほしいと。
もし単純な肉欲のみが先んじた関係であるなら、二度と白華の里を訪れないとまで宣言したらしい。
結果は、黙々と日々の修行と雑事に身を窶して行くだけのおのれがいた。
それでも私情を表に出さず、自我を抑え、李功が約束をした月日をひとりで乗り越えたのだから、梁と大道師に持ちかけた李功の賭けは成立したと言えたのだろう。
「けど、最後があれじゃなあ……」
再会を果たした途端、とち狂った自分が李功を襲ったのだから、おまえらの関係は友情や愛情よりも性的な欲求の方が強いんじゃないのか、と指摘したかったらしい。
梁は心底不服そうだったが、言ったことを撤回するような卑怯な性分ではない。
「趙がくたびれて干物になる前に終わって良かったな」
皮肉な目つきのまま髭面の下で歯をむき出しにし、再度減らず口を叩く。
威厳も何もあったものではなかったが、それで引き下がってくれるというなら安いものだ。
「…………」
干物に見えるほどやつれていただろうか、と何となく自身の顔に手を当ててみたが、先刻の行為のおかげで血色はすこぶる良くなっていたのだろう。
数ヶ月振りに李功の豊かで強力な生命力に触れ、直に交わることができたので、おのれの肉体は知覚していたよりも大いに満足したようだ。
触れるだけでも、皮膚の下を通る気血の巡りが段違いに良くなっていることがわかる。
「悪いな、何も言わないままで」
遅れて、李功が少し眉を下げ謝罪してきた。
相談もなしに勝手に巻き込んでしまったことを詫びているのだろう。
咄嗟にそんなことはないと言葉を返そうとしたが、おいおい、まだ黙認ってだけだぞ、と男の忠告が飛ぶ。
「……あなた、しつこいわよ」
いつの間にか傍らで見聞きしていたらしい大道師に苦笑交じりに諭され、大きく口を歪めたが、梁は腕を組んで背を向けた。
「どう考えたって前途は多難だってのに、モノ好きな奴らだぜ」
「それくらいでいいでしょう、あなた」
蓮苞(れんほう)の言葉にはあまり執拗に子どもたちを苛めると許さないわよ、という言外の気迫が込められているようだった。
「大道師様にもご迷惑を」
李功が深々と腰を折ると、いいのよ、と長い黒髪の女性は微笑んだ。
「…これで、ターちゃんとヂェーンさんに良い報告ができるでしょ?」
「……………………………」
夫である男に聞こえぬようにこっそりと耳打ちされた内容に、何のことかと今度こそ隣にいた李功の眉間に大きな縦じわが刻まれた。
(祝、黙認…!)
-2014/01/02
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