結論から言うと、自室で寛ぐことが難くなった。
寝台で横になる都度、李功のことを思い出し落ち着かない気分になってしまう。
正確には、毎日自慰に耽っていた某師範のことを馬鹿にできない情況に陥ってしまった。
数ヶ月とはいえ長い隔たりを経てようやく手にした李功との再会とその口からもたらされた予期しなかった告白に我を忘れ、腕を引き寄せてしまったのがそもそもの間違いなのだろう。
時を隔てた分だけ研ぎ澄まされた五感のすべてが、数週間を過ぎた今でも鮮明に当時の記憶を留めている。
李功が伏せていた枕の皺の一つひとつ。
外に聞かれまいと殺していた声を引き出すために腰を使って敏感な箇所を突く都度、整った眉を寄せて流れる汗の間から睨みつけてきた昂ったような眼差しも。
李功が細い指で握りしめていたシーツの乱れも、そこに散らばった艶めかしい黒髪も。
その狭い粘膜から漏れる一声。
隙間なく鍛えられた整った背後の筋の上に浮かんだ汗が流れる一筋に至るまで。
横になる度に熱く湿った時間の息遣いや衣擦れの何もかもが脳裏によみがえり、洗ったはずの寝具に鼻先を埋めながら耽るようになってしまった。
二度とてめえの私室でやるんじゃねえぞ、と師範の梁(りょう)に釘をさされるまでもなく、こんな事態を招くことになるのであれば間違いなく次は場所を選ぶだろうと確信する。
ただ、白華の村の宿屋を使うことになるとまた色々と迷惑がかかるだろうという懸念もないわけではなかった。
その事実を正直に打ち明けたところ、やはりというか、李功は予想通り涙を流さんばかりに笑い転げた。
「本当かよ……っ」
情けねーと言わんばかりに柳のような腰を二つに折り、腹を抱えている様を見て、憮然とする心情すら興らなかった。
「………笑い事じゃない」
所用で白華を訪れた李功と人気のない塀の隅に腰掛けながら、辛うじて出した声は渋かった。
「おまえも自分の部屋でおれに抱かれてみれば、気持ちが理解できるようになるさ」
反撃のつもりでしたたとえ話だったが、そういえば、と頭の中で回想する。
現在の黒龍拳の統率者である李功の私房は、当然先代が使っていたものであったとしても不思議ではない。
ということは、必然的に過去にそこで行われた行為を連想させた。
王きの私室であったということは、そこで、李功は――
「………今のは忘れろ」
忘れてくれ、と念を押すと、笑い治めた李功が可哀想なものを見るような目つきで見返してきた。
「いつまでも気にすんなって」
慰めるような声をかけながら、顔を覗き込んでくる。
襟から覗いた長い首が傾き、さらりと揺れた黒い前髪から目を逸らした。
「門弟から人望の厚い白華の趙(しょう)が、誰よりも独占欲の強い奴だとはなー…」
軽く笑ったようだったが、特に李功は機嫌を損ねているわけではないようだ。
「自覚してる。……それでも、どうしようもないんだ」
李功に関してだけは、自制が利かないことを素直に認め、明言する。
真っ直ぐに見つめてきた視線を受けて、相手は長い睫毛をわずかに伏せたようだった。
「……おれも、そんなおまえが嫌いじゃねえよ」
「……………」
少しだけ驚いたように目を見開き、見つめ返すと、整った白い鼻梁が近づいてきた。
同じ気持ちだと応えようとして、緩慢な動作で距離が縮まった途端。
「……………」
李功と同時にくるりと首を九〇度回転させた。
「おれと蓮苞(れんほう)が黙認してやったからって、処構わず色気づくんじゃねー」
「……………梁師範」
と、その背に背負われていたのは、まだ赤子の第七十六代目の大道師。
きゃっきゃっと無邪気な笑顔を見せている息子を振り返り、鬼の形相だった男がでれでれと相好を崩す。
相変わらず空総(くうそう)に対しては恥も外聞もない姿を見せるなあと呆れ、苦笑しながら眺めていると、その後頭部が横を向いた。
「そういや、趙。あの話はどうなった?」
嫌な予感がする。
「今ここで話さなければならないことですか?」
「ああ。早めに返答を貰った方が向こうにも親切ってもんじゃねえか」
李功がいるこの場でわざわざしなければならない中身ではないだろう。
そう思ったのは、最近やたらと男が縁談の話を持ちかけてくるからだ。
白華の村に年頃の娘がいると聞いては、片っ端から声をかけているらしい。
その上、白華拳では本来最高師範か女性の実力者が務めるべきである異性の門弟たちへの稽古の指導に借り出されることが多くなってきた。
できるだけ断るようにしているが、師範としての責務だと説かれれば納得せざるを得ないことも多かった。
どう考えても、仮に百歩譲ったとしても、自分の恋路を邪魔したがっているように思えてならない。
「おれは誰とも結婚しませんよ」
ここにいる李功以外とは。
腹を据え、堂々と断言をすると、師範の男よりも隣にいた李功の方が愕然としたようだ。
「何言ってんだ、趙………!???」
そんなにびっくりするようなことだろうか。
相手と会わなかった長い時間、いや、その前から、心のどこかで決心し、望んでいたことでもある。
「……開き直りやがって……」
苦虫を噛み潰したような形相で吐き捨てる男を差し置いて、いまだに李功は驚きに目を見開いたままだった。
普段ならば決して見られないであろう、あわあわと口の開閉を繰り返している親友。
黒髪の下で紅に染まった頬が、一層その姿を幼く見せていた。
「李功、おまえにその気はあんのか?」
鼻で笑いながら男から突然振られた話題に、どういった表情で返すべきか判断することができなかったのか、李功は縋るような目でこちらを凝視してきた。
しかし次の瞬間、思い改めたように、居住まいを正した。
「……責任取るつもりがなけりゃ、おまえと契ったりしねえよ」
契る。
言葉の意味とこれまでの性的な内容を想像し、ぼ、と一瞬で首から上が熱を帯びる。
その予定がなかったとはいえ、プロポーズをし、目当ての相手から了承を得てしまったのだ。
互いに茹で上がった蛸のように顔を赤らめていると、
「……おまえら、気が合う上に心底相思相愛なんじゃねえか」
どこか諦観したような梁の声が聞こえた。
-2014/01/03
→NEXT