風呂の用意がしてある、と口早に李功は返答を待たずに説明を始めた。
今は門弟たちが使っているが、自分は一番最後に入るから先に済ませてしまっていいぞ、と。
そう話している間も李功はこちらを見ることなく、落ち着きなく、言葉の合間に唇を噛み締めていた。
「……いや、おれも最後でいい」
やっとのことで出たのは、よくよく考えてみれば意味深な発言だったのかもしれない。
李功が他の拳士と一緒に入浴を行わないのは、体質的な問題が先に立っている。
恐らくその見解が外れてはいないだろうことは、自身もそれに倣うような形だったからだ。
生まれつき常人の倍はあろうかという強力な気を持つ特異体質であるがゆえに、封印を施していない状態で人と交わることは規模の差こそあれ非常に危険な行為だからだ。
西派の拳法家として仮に強靭な肉体を誇っていたとしても、李功ほど恵まれた、ある種の荒ぶる能力を持っていると、必然的に自らが望むと望むまいと強烈な磁場を持つことに繋がった。
生来身にまとっている者には影響は少ないが、一般人には肉体的な悪影響を及ぼすほどの。
西派以外の勁(けい)を用いる門派でも具体的に解明されていることだが、磁力そのものは生身の人間であれば誰しもその大きさの大小にかかわらず持っているが、限度を超えている自分たちにとっては他人との直接的な接触は回避すべきことだった。
でなければ、普段の生活で封印の札をわざわざ仕込む必要はない。
もっと面白い例を挙げれば、目の前の親友などは札を縫いつけた衣服を身にまとっていてさえ、機械の類とは極端に相性が悪いらしい。
要するに、微力な電磁波を持つ機材を狂わせる何か――
詰まる所、強烈な磁界を持っているがゆえに簡単にそれらの機能を誤作動させた挙句停止させてしまうのだ。
だから、という理由は今更相手に語るべき事柄ではなく。
「……………………」
李功に無言で睨まれているのは気のせいではないだろう。
「……おかしなこと、考えてるんじゃねえよな…?……」
一緒に汗を流すことになるというだけで他にどんなことを考えるというのかと問い返しそうになったが、確かにほんの少しだけ、いや、大分想像していたかもしれない。
だとしても、ここでそれを認められるほど厚顔無恥に生まれついたわけではない。
「………………………考えてない、ぞ」
「……即答しろよ」
「…………………」
おまえの方こそ何か良からぬものを連想しているんじゃないのかと問い質したかったが、互いに頬を赤らめているのであれば両成敗といったところだろう。
それにしても、と思う。
宿泊を許可したということは、李功の私室に入れるということだろうか。
勿論、通常であれば黒龍の村の宿屋か宿舎で休むのだと考えるのが妥当だ。
だが、李功とは昔一度だけ同衾をしたことがある。
当時は密かな好意を自覚していなかったとは言い難い関係だったが、部屋の様子を眺める暇すらなく眠りに就いてしまった気がする。
年齢が年齢だったので惜しかったと言うつもりなど毛頭ないが、今のこの状況とは全くと言っていいほど違っていただろう。
おかしなことだと思うのであれば、すぐさま断ってしまえばいい。
断ってしまえば。
それができれば、そもそも李功に手を伸ばしたりなどしなかった。
海綿で軽く全身を撫でるように洗った後、それをこちらへ向けて放ると李功はさっさと湯船の中に浸かった。
まるで烏の行水だな、と思ったのはその行動があまりに迅速だったからだ。
時間をかけ、くまなく体の隅々まで洗浄しようとする自身の行動とは真っ向から異なる。
しっかり洗えよ、と苦言を呈すと、何かが気に食わなかったのか湯気の向こうで相手は眉をしかめたようだ。
「――とおんなじこと言うなよなー」
すねたような口調が耳に届いた。
誰に例えられたのかと疑問に思ったが、意図しなくてもその中身というのは大様に知れた。
あれ以来、李功の口から語られることのなくなったその実兄なのだろうな、と大体の見当をつけたのは、視界を幾重もの蒸気で阻まれながらも心の内が伝わって来たからだ。
元来、勁(けい)の扱いに秀でていた自分には、白華拳の現在の大道師と同様に人の心を読む術に長けている。
実際に思考している内容そのものを読み取ることが叶うのではなく、考えていることの輪郭を悟れるくらいの単純なものだ。
しかし幼少の頃から酷く勘が働くというか、邪念の気配というものに鋭敏だったため、その延長線上として読心の術へと進化したのだろうと考えられなくもない。
元々数々の精神的な修養によって徳というものを積むと、そういったものに敏感になってしまう事例はいくらでもある。
白華で名を馳せた師範や、歴史上の偉人などは例に漏れずその力の片鱗を垣間見せていた。
徳や功徳と言ったものは他人から与えられるものではない。
だからこそ極稀にその力を使うことのできる者が生まれたり、出現したりするのだが、多分これも生来の素質の一つだろうと考えられなくもない。
かといって、おのれなどが過去に偉業を成し遂げた人物と同等に列せられるべき才能を持っているとは微塵も思わないが。
受け取った海綿で丁寧に、だが素早く頭の天辺から爪先までを洗い終えると、倣うように湯船に足を踏み入れる。
ざぶ、と大きく湯が揺れ、水位の上昇とともに湯船から溢れた水が床に広がった。
それをさも楽しそうに眺めていた李功が、両腕を持ち上げ、指を後頭部で組みながら声をかけてきた。
「なんか、おかしな感じだよな」
「…………」
自身も相手から離れた場所で片腕を縁に伸ばし、体から力を抜いて寛いだ。
密室ゆえに声がわずかに籠り、反響する。
視界が利かないはずの空間でなぜか、李功の黒髪を濡らしている水の粒が、その肌や水面に滴る動きの一つすらまるでスローモーションのように捉えられる。
李功の鍛えられているがふっくらと膨らんだ形の好い胸の間と、熱を帯びて桜色になった表面を流れて行く湯とも汗ともつかない流れの一筋一筋すら、鮮明に見えているかのようだ。
そっと、気取られぬよう緩慢な動作で、唾を飲み込む。
意識しないように努めようとするから余計に動揺してしまうのであれば、横柄な態度ですべてを受け止めてしまえばいい。
かなり危険な賭けだと思ったが、それは向こうも同じだったのだろう。
どちらが先に根を上げるのかと思われたが、尋常ではないスタミナを持つ李功との長期戦となれば白旗を上げざるを得ない。
立ち上がれば、湯面がさらに揺れた。
水嵩は膝上くらいしかなかったが、滝のように大量の湯水が肩から流れ落ちた。
「もう上がんのか?」
ゆっくり浸かればいいだろー、と暢気な、そして余裕の滲んだ声が飛ぶ。
明るい場所で相手に対し自らの裸を晒したことはなかった。
引き締まっているが厚みのある腹筋も、その下の太い下半身も。
人並み以上に恵まれた筋骨を覆う素肌は日に焼け、健康的な色艶を保っている。
体格や外見のこうした質を向こうが羨んでいる事実を承知の上で見せつけるように灯りの下に立った。
「……いや、」
そうじゃない、と続け、大きく湯を割る。
前を進むたびに高い波を起こしながら一歩一歩近づいて行くと、李功は言葉を失ったようにこちらを見上げてきた。
「…………よせって……」
何を拒むつもりだったのかは知らないが、居心地の悪さを表わすように上気する面に怪訝な色を履く。
顎を引き、李功は押し黙った。
頭の後ろに持ち上げていた両手はすでに下ろされ、所在なげに水中を漂っていた。
「…なあ、李功」
甘えるような口調とは程遠い、上からものを言う調子だったが、それが殊更相手の羞恥心を煽ることなら学習済みだ。
「これから、どうしたいんだ……?」
李功の前でさらに緩慢な動作でしゃがみ、長い腕で挟むようにその背後の縁を掌で掴む。
至近距離と呼べるほどではなかったが、視界を阻む白い靄のようなものはほとんど見えなくなった。
滅多にない情況だからこそ視覚から得る刺激は、いつも以上に手強い。
けれど、それはお互い様だ。
「………どうって、……何のことだよ……」
片膝を立て、もう片方を倒した恰好のまま、李功は切れのある双眸を細めた。
帰って来る返事は歯切れの悪いものだった。
「おれを、今晩、おまえの部屋に泊めてくれると解釈していいのか……?」
「…………………」
機嫌を損ねたように、再び口を閉ざす。
やがてぽつりと漏らしたのは、そのつもりだったが、やっぱりやめにする、だった。
これにはさすがに苦笑を漏らさざるを得なかった。
期待していなかったわけではなかったので、落胆をした、というのが正直なところだ。
強引に物事を推し進めるのは性分ではなかったので、だったらいいんだ、と瞑目して引き下がろうとした瞬間。
首裏をぐいと掴まれた。
頭部ごと傾き、力を込めていなかった両肘が撓る。
李功の唇が一層近づいた。
すぐに解放されるかと思ったが、正面の貌には思案の色が浮かんでいる。
次いで間髪を入れず、らしくもない撤回の言葉が発された。
「…やめにするってのを、やっぱり、やめにする」
「……………。……泊めてくれるってことか……?」
あー、と間延びした肯定が返る。
頬が真っ赤に染まっているのはきっと李功だけではないのだろう。
「……けど、ここでこれ以上のことをするのはよそうぜ…」
門弟たちも使う公の場だからな、と、至極当然の理由をぶっきらぼうに口にする。
李功の言い分に納得したので離れようと思ったが、やはりというか懸念していた通り、首の後ろから手が放されることはなかった。
「………李功」
このままだと、おまえが歓迎しない事態に陥るぞ、と。
忠告するまでもなく、相手もそれを熟知しているのだろう。
毎日使うような浴場で触れ合えば、ここを使用するたびに今日のことがフラッシュバックするだろう。
「……………っ」
初めて聞くような李功のごくりと生唾を飲み込む音を辛うじて鼓膜が拾うと、覚悟を決め残った自制心を総動員して立ち上がった。
肝心の中心が反応を示す前に自力でけりをつける。
脱衣所を目指して背を向ける直前、項垂れた相手が片手で目頭を押さえた姿を知覚する。
もしかしたら。
否、まさか。
極力思考しないように努力したが、眩暈を感じるよりも先に目的地に着くことだけに集中する。
あんなに困った顔で額はおろか、耳朶まで紅潮させている李功はこの四年間、情事の最中以外では見たことがなかった。
(辛抱堪らん二人)