「これでいいか…?」
新しい上着の内側に膨大な気の放出を抑えるための黄色の札を綺麗に縫い込み終えると同時に、折り目を整え丁寧に畳んで持ち主に手渡す。
ああ、と答えた相手の顔に無心の笑みが宿っていることを認め、知らずこちらも笑顔になった。
李功が素直に満足していることを知れば、余計な口を挟みたいとは思わないからだ。
「何か礼をしないとな」
律義にこう付け加えてくれるのだから、相手との会話は退屈しない。
だったら、と、数日前から思案していたことを打ち明ける。
「……おれの家に来ないか?」
おまえの都合さえよければ、そのまま。
続きを発するだけで、多少の緊張を舌が覚えたのは仕方のないことだった。
そのまま、過ごさないか、と。
明日が休息日であったので、仮に、李功に特別な予定がないのであれば。
立て続けに驚くような内容を聞かされて、李功はやはりというか、案の定何度も瞬きを繰り返していた。
随分昔からの話になるが、大分前から十七になったら白華拳の敷地内にある宿舎を出ようと考えていた。
白華の村に実家を持たず、男で尚且つ独身者であれば修行の場で共同生活を選択することは珍しくない。
数百人規模の門弟が犇めく白華ではそのすべてを収容できるような大規模な施設があるわけではなかったので、毎年空きが出ればその一室やベッドを巡って高倍率の抽選が行われた。
逆に家族を持っている人間は、そこから通ったり、週に数日だけ妻子の元へ帰り、時間をともに過ごすことが慣例となっていたようだ。
自身はまだ未婚の身だったが、幼い頃から養ってもらっていた白華からできるだけ早いうちに独立しようと計画をしていた。
それは飽くまで単純な独立心から来るものであって、大恩のある白華拳という組織から逃げ出すための選択ではなかった。
一人の男として自らの身を立てたいと願っていただけであることは、時に本当の姉弟のように接してくれた第七十五代目の大道師にも前以て打ち明けていた経緯もある。
現に、白華から荷物をまとめ、前々から居住しようと考えていた建物に移る日も、蓮苞(れんほう)は手伝うことはないかと気遣いながらも最後には晴れやかな態度で夫や息子とともに見送ってくれた。
一人前の拳士として成長した弟のような存在である自分がこれまで暮らしていた場所から旅立って行く姿を、どこか眩しそうに見つめていたのが印象的だった。
一人暮らしの舞台となったのは、以前から交流のあった老夫婦が住んでいた一軒家。
大きな村の中でも外へと続く門に程近く、隣は空き家になっているという、閑静な立地が住むのに適していると感じた。
元々の住民は年齢のこともあって息子夫婦の元へ身を寄せてしまったので、もし良ければということで使わせてもらう機会を得ることができた。
借家ではあるが住んでくれるだけでいいとの申し出を丁重に断り、毎月わずかだが金を払っている。
職を持たない西派の拳士であっても、貯蓄することは可能だ。
給金と呼ぶべきものではないが、修行中に何らかの収入を得ることはできる。
農作業を手伝ったり治療を行った礼として、食料が手渡されることもあるし、それをさらに売り払って得られる金銭があった。
それらは決して高額ではなかったが、小さな時分から将来を見越して少しずつ貯めてきた元手を使い、いつか自分の家を持とうと考えていた。
もしこのまま住み続けて行くのなら、いずれは譲り受ける形になるだろうとの憶測もあるにはあったが、その時が来たらまた考えればいい。
役職上、日々のほとんどを白華で過ごしている身分なのだから、定住することにこだわるつもりは毛頭なく、横になって眠れる居場所さえあれば事が足りるという考えは、師範用の私房を与えられていた時と変わらない。
無論その手に入れた家屋が、恋人や伴侶と過ごす愛の巣になるだろうという目論見は、本来ならばゼロであったはずなのだが。
「…黒龍じゃ、住み込みで修行するのが一般的だからな」
白華の村へ続く山道を肩を並べてともに進みながら、大人数を抱える白華だからこそ外から通うことが許されるんだな、と、他門派らしい感想を李功は口にした。
ただ、黒龍拳の場合は三十二門派の中でも少し独特で、人数がそれほど多くないことは勿論だが、暮らしの基盤が鍛錬という一点に絞られている所以ではないかと推測される。
俗世との隔たりを明確にして、朝から晩まで肉体と技を鍛えることに時間を費やすためだ。
だからこそ黒龍拳は古来から女人禁制の一派の代表格であり、それゆえ結婚の適齢も平均より少し上なのだと、現在の総帥である李功から聞かされたことがある。
黒龍とは異なり、修行の場とそうではない生活空間の境があやふやである門派も数多く、それは時代の変化に対応した結果であるというよりも、やはり慣習に近いものであったのかもしれない。
一つの門派につきひとつの村を持つ西派独自の形態に従って、村人たちとの関係はそれぞれの地域で異なる。
白華拳が三十二ある西派拳法の中で抜きん出た数の門弟を抱えていることも古くから変わらないことであったので、自分のように宛てがあれば宿舎を出て行く者がいることは特殊な例であるとは言えなかった。
そして当然、独り身であった者が妻を持てば、おのずと村で暮らすようになった。
「荷物は片付いてるのか?」
とはいっても、ほとんど私物はなかったようなものだから、心配するには値しないか、とかつて私室を訪れたことのある者らしい解釈が続く。
「持ち出したのは、特注の寝台と本棚くらいだな」
それ以外はすでに家の中に備え付けられていたものを使用している。
部屋は台所兼居間と寝室の二つしかないが、風呂が付いているので、独りで暮らすには充分過ぎるほどだ。
近隣の村では当たり前のことだが、用を足すところは村人たちが共同で使っている。
水は雨水を利用するか、自分で運んでくるしかないが、電気も少ないながらも一応通っているのでさほど不自由ではない。
特に電化製品を持っているわけではないので、いっそ、夜は蝋燭一本で過ごしてもいいくらいだ。
「薪も一週間分を一度に運んでしまえば楽だからな」
体力的にも力仕事というものに関して問題があるわけではないし、家の裏に回れば備蓄できるだけの小さな小屋もある。
水だけは必要な時に溜めておかなくてはならないが、風呂など滅多に入ることもない。
ふと、李功が破顔しているのを見咎める。
いや、と李功は笑みを浮かべた理由を話すことを一旦躊躇ったが、隠す必要もないと思ったのか、続けて明言した。
「ほんとにおまえは、しっかりしてるよな」
嫌みのない感情で笑いかけられ、ほのかに頬が上気した。
他愛のない日常的な話題を選んで進んで行くうちに、あっという間に白華の領内に入ってしまった。
李功と過ごす時間というのはいくらあっても足りるということがない。
仲の良い兄弟のようだと評されたことは少なくない。
門派の異なる歳の近いライバルであることは、その力量や素質が拮抗していることを知る誰もが認める事実だが、性格は全くと言っていいほど違うのに、生来気が合っていたのだろうとつくづく実感する。
体の相性もどうやら好いらしいと評価するのは、さすがに調子が好過ぎるだろう。
いつの間にかそうなった、と表した方が相応だったかもしれない。
ぶつけ合うだけだったはずの互いの激しい勁(けい)の力が、重ねた肌を通して調和し、和合しているという実情。
ひとりであれば決して手に入れられなかった幸運。
「…………………」
不意に止めた足に気づき、李功が数歩手前で振り返った。
あと数メートルで、村に続く大門を潜ることのできる距離まで来ている。
なのに、何かが前へ進むことを躊躇わせた。
「どうした、趙(しょう)」
訝るほどではなかったが、李功の問いにはっきりとした返答ができなかった。
明瞭な言葉や形となって見えているわけではなかったが、脳裏に浮かんだのはもやもやというか、鬱々としたイメージ。
嫌な予感がする、と拳士としての第六感が鈍い警鐘を鳴らしている。
回避の可否を逡巡するいとますらなく、それが現実となって現れた。
門をくぐったところで、眼前に飛び込んできたのは。
「……李功さんっ!!!」
長い黒髪を頭上で束ねた影が、一直線に傍らの友人の胸に白い腕を伸ばしてしがみついた。