ごめんなさい、私ったら。
ついはしゃいじゃって、と両方の頬を桜色に染めた妙齢の女性は李功の前でしおらしい態度を見せた。
一瞬にしてそれが何者であるかを、記憶力の高い脳細胞が知覚する。
抱きつかれた側の李功は束の間その綺麗な柳眉を寄せていたが、彼女が自ら名前を名乗ったところでようやく合点が行ったらしい。
「冬の大祝賀パーティ以来ですね」
忘れられていたことに些かショックを受けながらも、にこやかに、そしてどこか照れたようにおずおずと笑いかけてくる。
半年以上前に会った時にはもっと大人びた女性だと思っていたが、今の彼女はまるで少女のような天真爛漫さだ。
どこが違うのか、瞬時にわかってしまったのは恨めしいほど聡い自身の性質が由来している。
唇に施す紅の色が、娼婦のようなそれではなかったからだ。
想像しなくても、白華を束ねる第二の実力者である最高師範の梁(りょう)に窘められたのだろうことは明白だった。
華美な装飾や濃い化粧は、この土地では毒婦や淫売といった堕落した女の象徴だ。
人目を引くどころか風当たりがきつくなることをつっけんどんな言葉で教えたのだろう。
現にあれほど露出が激しかった服装も、襟のついた半袖のシャツと足首が見えるだけのパンツに履きかえられている。
こうして見ると、年齢以上にあどけなく映る。
唯一変わらないのは、頭の上で束ねた長い黒髪と、標的へのあからさまなアプローチだ。
「趙(しょう)…さん、でしたよね。ご無沙汰してました」
ぺこりと向き直って礼儀正しくお辞儀をしてくる。
まるで李功の若妻気取りのようだとの印象を覚えたのは、ただの錯覚だろうか。
何とか波風が立たない程度の会釈に留めつつ、彼女の後方を窺うと、意外な人物と目が合った。
「智光(ちこう)師範」
不機嫌なオーラを隠そうともせずに、毛穴の目立つ、縦にも横にも長い顔面積を持つ白華の師範は、自身と李功。
二人の実力者を値踏みするように見比べた。
「ターちゃんとヂェーンさんに、こどもが生まれたのかー」
赤ん坊を背負いながら奥さんとにこやかに笑い合う写真を食い入るように見つめながら、李功は思わず大きな声を上げてしまったようだ。
髪の毛濃いな、とか、髪色はもしかして黒じゃなくて濃い茶色か?、などと、取るに足らない感想を漏らしている。
両親が揃って茶色みかかった金髪なので面白いとでも思ったのだろう。
遺伝的な観点からも、別に珍しくはないだろう、と横から茶茶を入れると、それもそうか、と素直な返事が返った。
黒龍拳の総帥がそんなに無防備な姿を晒していいのか、と心中で注意を促したくなる思いを抑え、嘆息するだけに留めた。
李功が親しい間柄の人間に対して表情が至極豊かであるのは今更確かめる必要はないほどの自明だったが、そうではない者が見ている手前、あまり朗らかに笑い続けてほしくはない。
恋敵を見るように、ぎらぎらとした目つきで背の低い男に睨まれていることは気にならないらしい。
これは一波乱。
いや、それ以上あるだろうな、と否が上でも自覚せざるを得なかった。
「趙師範」
案の定、李功よりも数センチほど低い位置からお呼びがかかった。
ちょっと、と手招きで促され、仕方なく李功の側から離れる。
本心を言えば、先ほどから笑顔を絶やさない、普段以上に柔和な雰囲気の親友からあまり目を離したくはなかったのだが。
「……何すか」
一年半振りくらいだろうか。
すっかり失念していたが、遠い彼の地へ赴任してからすっかりその存在を記憶の彼方に押しやっていたことを思い出す。
一応年上ではあるが、自身の方が倍の長さを白華拳で暮らし、貢献した実績が山とある。
どう贔屓目に見ても器量良しとは正反対の同僚を改めて見下ろすと、成長した、というより、一回り太ったのではないだろうかとの悪い印象が拭えない。
常春ともいうべき土地で、修行らしい修行もせずに怠惰な生活を送っていたのだな、と思うと、西派の拳士の恥だと言ってしまいたくもなる。
だがそれは男の師である梁(りょう)から口を酸っぱくして説教をされるべきであって、今ここで自身が諌めるのは出過ぎた真似なのだろう。
智光は明らかに他者が同席しているにもかかわらず、聞こえないように配慮していることを明示するために、片方の指を揃えて口の横に当てながら声をひそめた。
「どうなってるんスか、そっちは……」
「………どっちのことすか」
まともに取り合いたくないと、態度にも滲み出ているのも構わず、智光はどこか必死の体で答えを促してきた。
「『こっち』のことっスよ……!」
「……………………………………………………」
智光がおのれの鼻先で指で輪を作り、人差し指と中指を揃えて前後に出し入れを繰り返す。
同じ白華の師範とは思いたくないほど下品で卑猥な動作に、閉口を通り越して、汚物でも見るような目つきになってしまったのは致し方ない。
「僕がジャングルで日夜密猟者どもと激しい戦闘を繰り広げている間に、ヤッたんじゃなかったんスか…!」
あいつと、と李功を顎で示し、スコスコ、と男女の交合を彷彿とさせるような男の腰使いを目撃したところで、ぶちり、と何かが切れた。
殺気を瞬時に察し、ひいっ、と一瞬で眼下の智光が地面から飛び上がった。
米神に青筋が浮かんでいるのが自身でもわかったが、同門の人間に暴力を振るうほど短絡的でもない。
理性を保つべく、ふうーっ、と長い深呼吸をする。
その前に智光の言った、『日夜敵と激しい闘いを繰り広げていた』のは大仰だろう、との胸中のツッコミも忘れない。
「……………それが、何か、……智光師範と関係あるんすか?……」
自分と李功の仲の進展の度合いがそちらの動向に関与するものなのか、と。
ひい、とまたしても小さな悲鳴を上げ、すっかり青ざめてしまった同僚を、質すように見下ろす。
相手はもごもごと返答を濁したが、大きな瞳で睨みつけられ、覚悟を決めたようだ。
「…………あいつが、趙師範のモノになってないと、色々と困るんっスよ………!」
「…………………。」
なるほど、と。
その一言だけで、この状況のすべてを理解した。
趙、と聞き馴染んだ声音に呼ばれ、踵を返すとそのまま呼んだ者の側に移動した。
下劣な男の言動にいちいち付き合っていられないと思ったのも確かだが、李功の右腕にあろうことか二の腕を巻き付けて寄り添っている女の姿を目にしたからだ。
「どうした…?」
仲の好い親友以上の間柄ではないと感じさせるような、何気ない口調で尋ねる。
「ペドロが結婚してたって、おまえは知ってたか?」
「いや……」
ターちゃんの一番弟子である仏出身の青年が、野生動物を狙う密猟者たちへの対抗策として雇われていた元レンジャーの女性と新しい家庭を持ったことを教えてくれた。
ペドロさんのところも、来年こどもが生まれるんですよ、と李功の真横から補足のような説明が届いた。
だから彼女はここへやって来たんだな、と大体の見当をつけるには充分過ぎるほどの材料だった。
十中八九、ヘレン野口と名乗る彼女は、お目当てだった周囲の男性たちが揃って家庭やこどもを持ってしまったため、その心の傷を癒すためにかつてターちゃん一家の一員だった梁の元へ身を寄せようと考えたのだろう。
梁の息子の命を狙った刺客たちの一件にも関わっていたため、ここにいる人間とはそもそも面識がある。
空総(くうそう)の誕生を祝う席でターちゃんの細君であるヂェーンの妨害に遭い、一度は李功を諦めたかに思えたが、周りにカップルしかいなくなったジャングルを離れ、今だフリーであるはずの李功に狙いを定めたのだろう。
これで、予告もなく彼女が目の前に現れたことの辻褄が合う。
そしてこれも単なる勘だが、なぜか彼女に懸想しているらしい智光を白華の里への案内役兼荷物持ちとして伴ったのだろうという予想はあながち外れてはいないだろう。
単純に智光は、騎士さながらの護衛役のつもりで彼女の後を付いてきただけかもしれないが。
「……………」
青天井を見上げ、鼻からため息を吐き出すと、不意に李功と目線が合った。
おかしなところを見せてしまったかと反省し、口元に少しだけ微笑を浮かべると、すぐに視線は外された。
「……………?」
建物から出てきた大道師の腕の中にいる赤ん坊がその原因だったのだろう。
蓮苞(れんほう)に抱いてみるかと訊かれ、照れくさそうにしながら温かくてやわらかな対象をその胸に抱く。
自然とヘレンなる者の腕が離れ、李功の剥き出しの素肌が自由になった。
李功さんって、赤ちゃんが好きなのね、と、うっとりしながら、母になったことなどない彼女が呟く。
赤ちゃんが好きで、こどもの扱いにも慣れている男性って理想的だと、脳裏の声が届く。
知りたくもなかったが、事実そうなのだろう。
李功は男が持ちたいと願うものすべてを備えている。
こりゃ、ひと騒動ありそうだな、と。
苦笑いを浮かべながら見守っている影が背後にもう一つあったことにも気づかなかった。