「…他でもないターちゃんとヂェーンさんからの紹介だから、うちで引き受けるにしたってよ」
親交のある夫婦からの紹介状を読み終えたのだろう。
ヘレンなる女性が携えてきたであろう手紙を畳みながら、少し離れた位置で男は静かに口を開いた。
「白華拳の村で暮らすにしても、こっちには扶養家族を養えるほどの余裕はないぜ?」
そこのところはわかってんのか?、と継ぐ。
ジャングルのように、森を歩けば果実の生る木と遭遇できるような恵まれた環境でもない。
自給自足を生業としている白華自体も、そして村そのものも、とてもではないが裕福な暮らしをしているとは言い難かった。
「その点なら心配ないですよ」
さすがは個性あるキャラクターたちの間で鍛えられただけはあるのか、ヘレンはにこやかに笑った。
どうやら彼女は十歳まで母親の出身地である極東の田舎で暮らしていた経験があるようだ。
ジャングルに移り住んでからも辺境の生活にすぐに馴染み、ターちゃんたちともあっという間に仲良くなったらしい。
元々差別意識などなくきさくに接してくれる人たちなので、邪な念さえ持たなければ親しくなれるだろうとは思うのだが。
菜食主義のターちゃんたちに稲作を教えたのも、そもそもは自分だと胸を張る。
「六月に卒業した大学は工学部だったから、機械の知識も任せてください」
こう見えて、体力にも自信があるんですよ、と片腕を持ち上げて力瘤を作って見せる。
どんな環境にも馴染んでみせると言い切る姿は、やはり以前会った時とは少々印象が違っているようだ。
「寝泊まりするところはどうするんだ?」
「アルバイトで貯めたお金があるから、しばらくはこの村の宿屋でお世話になるつもりですけど…」
いつか使う時のために地道におこづかいを貯めたんですよと、はにかみながら後頭部をかく。
当分はボランティアのような形でこの土地に貢献しようと考えているのだろう。
「だったら、しようがねえな」
梁(りょう)は嘆息したようだ。
「飯くらいなら食わせてやるよ。…腰が落ち着くまでは、おれたち夫婦で面倒看てやる」
「うれしい!ありがとう、梁師範!!!」
飛び上がって喜んだ拍子に、男の片腕にしがみつく。
出産を終えたとはいえ念願が叶って結婚した愛妻よりも豊満な胸の感触に、一瞬梁の相好が崩れかけたが、ぎろりと傍らから蓮苞(れんほう)に睨まれたようだ。
すぐさま気を取り直し、咳払いをひとつした。
「……で、智光(ちこう)。おめえの方はどーすんだ?」
いきなり帰って来やがるから、おまえ用の部屋なんか用意してねーぞ、と断言する。
師匠である梁の命令でジャングルでターちゃんたちの手助けをしに行ったはずなのに、勝手に帰って来ること自体がおかしな話だったのだが、その辺の配慮についても遠いジャングルからの手紙に記されていたのだろう。
確かに男の言うとおり、自分のかつての私房も他の高弟が使うことになったはずだ。
「僕もヘレンさんと同じ宿に泊まります」
「…………………………………………………………………」
恰好よく決めたつもりなのだろうが、きっぱりと言い放った一言に、李功と空総(くうそう)を除いた周囲の空気がやけにひんやりとしたようだ。
「……泊めさせるわけがねえだろ………」
「な、なんでですか!!!!」
汗を振りまき、慌てて男に縋りつく。
「理由はおめえの胸に聞けってんだよ。……白華に帰って来たからにゃ、おまえも趙(しょう)を見習っててめえの家でも持ったらどうだ?」
どうせ金はしこたま貯めてあるんだろうが、と毒突く。
それを聞いて智光が、ぐ、と返答に詰まったのは、図星であったからだろう。
何に使うかもわからねえ金を、せっせと貯め込んでたのは知ってんだぞ、と詰め寄られ、瞑目しながら渋々観念したようだ。
これ以上師である男から聞くに堪えない自らの醜聞を聞かされたくなかったからだろう。
白華で師範になる前からせっせと小金を貯めていたのは、この土地では手に入れることがさらに難しいであろう海外で流通する無修正の写真集を個人輸入するためだったとか、そんな雑念が頭に入って来る。
知りたくはないことまで知ってしまうのは、こうした能力に長じてしまった者の宿命だろう。
蓮苞はさらにもっと深いものまで具体的に見えてしまうため、彼女と顔を合わせ、苦笑せざるを得なかった。
「……………わかりました。……では、住める家を探してきます」
しおらしくなり、若干というか、かなりの後悔を滲ませつつ、智光は師の命を承諾すると背中を丸めながらとぼとぼと村へ向かって歩き出した。
「そう簡単に住む家なんか見つかんのか?」
事情を知らないとはいえ、さすがにほんの少し気の毒に思ったのだろう李功が、空総を胸に抱いたまましかめっ面で問うてくる。
「心配ないさ」
無責任だと捉えられたかもしれないが、ああ見えて智光なる師範が交渉術に長けていることを説明する。
修行にばかり打ち込んでいる門弟などが本来不得手とする会話術を得意としているというか、要するに口八丁手八丁にやたらと抜きん出ている。
もしかしたら拳士などよりもどこかのテレビ番組のプロデューサーなどの役柄が相応だったのかもしれない。
頭の回転も早く、収集癖が幸いして探究欲が強い分、発想も非常に柔軟性に富んでいる。
実行力もそれに付随するのだが、気の優しさゆえか、勇気や決断力が必要になる部分では一見頼りなく思われてしまうのだろう。
だが当人が白華が誇る随一の内養功の術の達人であることは誰の目を通しても明らかであり、実は薬学の知識にも精通していることを買われてそれらの管理を任されている事実は身内でもあまり知られていない。
生来の性欲の強さと、品性下劣と思しき悪癖がわざわいして同門や若者からは支持されることが少ないが、治療のエキスパートであるため、村人の中でも特に年長の人々からは人気があった。
普段はふざけた調子でいることが多いと思われがちだが、地は自身よりも生真面目な性質で尚且つ繊細であるが、いざとなれば頼り甲斐のある信頼できる人物だ。
「……へー」
人は見かけに依らないとでも感じたのだろう。
「さすがは、白華拳の師範だな」
その時の李功の感嘆は、単純にそのままの意味だったのだろう。
蓮苞の計らいで白華の大道師である彼女が家族と住んでいる家屋の一室で茶飲み話に花を咲かせている途中、李功の隣の席に腰かけたヘレンが頬を染めながら話題を持ちかけた。
「私のことはこのくらいにして、李功さんのことを聞いてもいいですか?」
「…………別に面白いことなんかねえよ」
「…………………」
反対側で聞いていると、取り付く島もない言い方だと思わなくもない。
好意を持って接してくる相手に対してその気がないと言葉でも態度でも示しているのだろうが、あるいはその本心をありのまま声に出しただけなのかもしれない。
付き合いの長い自分などであれば全く構わないのだが、知らない者が聞けば失礼極まりない回答だ。
とりあえず彼女の心中を察して、簡単にだが李功の立場を代弁することにした。
それには西派拳法の系図も少し関わっていたが、部外者が聞いても難しくはないところを掻い摘んで話すと、頭の良い彼女はすぐに理解したようだ。
最後には李功さんてすごい、と改めて感心するに至ったようだ。
「じゃあ、今は自分の門派を立て直すために努力してるんですね?」
「あー。…まだ時間はかかるだろうが、次の武道大会の開催時期を最初の目安にしてる」
気の長い話だと思っているのだろう。
李功は四年以上前に『一生をかけて白華に償う』と約束したことを今だに忘れず実行に移している。
簡単なことではないはずなのだが、その姿勢には常に、道を違えないという自負があった。
自信などという軽はずみなものではなく、人生を根本から変えてしまうような大きな出来事だったと認識しているためだろう。
罪人としての贖罪などよりももっと、前を向いて突き進む決心のようなものが李功には内在している。
それが人を引き付ける魅力にもなっているし、他人との大きな隔たりにもなっていることを本人は自覚しているのだろうか。
そして、今もまた年頃の異性をさらに引き寄せてしまったことを。
湯気の立つ茶器を持ち上げて口元に宛てる姿を真正面から捉えながら、ヘレンの鼻から深い息が陶然と漏れた。