ようやく女性特有ともいえる長話から李功ともども解放されるかと思われた矢先、白華の村に住む農夫の一人が胸を押さえて倒れてしまったとの急報を受け、梁(りょう)とともにそこへ向かうことになった。
最近具合がよくはないらしいことを身内の人間から耳にしていたので気になってはいたのだが、意識が朦朧としているのだと聞けば、事は一刻を争うかもしれない。
村人たちと懇意である蓮苞(れんほう)も同行する意思を示したが、幼い空総(くうそう)の世話があったので、夫と自分に任せて続報を待つことにしたようだ。
急に慌ただしくなった場の空気に急かされるように、今日白華に到着したばかりのヘレンも手伝えることはないかと尋ねてきた。
ひとます蓮苞と待っていてくれと言い置いて、振り返った先の李功の元へ足早に近づいた。
傾いた陽光が李功を横から照らし、濃い影を作る。
「すまん。急用が入った」
「………………」
李功は返事をしなかったが、大方は予想していたのだろう。
「…いつ治療が終わるかわからないから、おまえはこのまま帰れ」
約束を反故にすることになったのは非常に不本意だったのだが、この埋め合わせは必ずする、と目の前で誓う。
「明日、黒龍に顔を出すから……」
「…その必要はねえよ」
きゅっと唇を引き結び、李功はこちらを見上げてきた。
「早く行けよ。…おまえの力を宛てにしてる奴らがいるんだろ?」
夜になる前に容体が落ち着いたのは幸いだった。
幸運にも倒れた農夫が息を吹き返したので、念のために気を送って安定したことを確認したが。
万が一何かあった時は連絡を寄越すよう指示をしたので、今日はこのまま休んでも差し支えないだろう。
男の家族やまだ幼い兄弟たちが安堵した顔を見た時は、慣れたことではあったが自身もほっとしたものだ。
何度も頭を下げ、夫を助けてくれた礼を繰り返していたが。
どうしても気持ちが晴れないのは、やはり李功を黒龍の里に帰してしまったことが原因なのだろう。
李功を誘ったのは今日初めて思いついたからではなく、数日前から計画していたことだ。
引っ越してから今まで、他人を招待できるだけの充分な準備を整え、食事を振舞えるように二人分の食器も用意したのは紛れもなく今日の日のためだ。
本来であれば、今頃は自らの家に招き、二人きりで会話を楽しんでいたはずだったのだが。
「…………」
戸口の前に腰かけている影を見つけ、思わず立ち止った。
場所は教えていないはずだが、噂を聞きつけたのだろうか。
村の端を意味する長い塀に近い一角。
他の家々と何ら変わることのない素朴な一軒家。
花や緑などの飾りもない、質素で簡素な佇まい。
そこで待っていたのは。
李功は持ち上げた両腕を後頭部で組んだまま、本来の家の主であるこちらを一瞥した。
李功、と。
驚きながらもその名を口にする。
重力を感じさせない動作で地面から立ち上がり、上げていた腕を両脇へ下す。
李功は、よお、と、普段のように声をかけてきた。
「どうして、帰らなかったんだ……?」
いつ戻れるかも定かではなかったからこそ帰宅するよう促したのだが。
ゆったりとした動きで前に立った姿を驚きながら見下ろす。
すると李功は皮肉な笑みを口元に履いた。
「そんなにおれを厄介払いしたいのかよ」
心にもないことを言い、反応を窺っているのだろう。
じっとその相貌を凝視していると、日が沈み切る前には戻るつもりでいたけどよ、と言葉が続いた。
「……おまえを待つっていう状況も、たまにはいいかなと思ったんだ」
これから先もなさそうだしな。
確かに李功の言うとおり、互いが相手の役割が終わるまでを待つ機会などあるはずがないだろう。
生活している土地が違うのだから、重なり合う時もおのずと少なくなってしまうからだ。
一方が一方の帰還を待つなどというのは自分たちにとってまさしく特別で、有り得るはずのない特殊な状況だ。
普通の男女の夫婦であれば、誰に憚ることもなくこうして伴侶の帰宅を心待ちにし、夫ないし妻の無事の帰りを喜んで迎えることもあるのだろう。
現実味を帯びた未来の姿としては到底思い描けない光景であることは確かめるべくもない。
夫婦になれるはずのない自分たちにできることは、ただ再会するたびに李功を抱き、その奥で繋がり、ともに高まり、果てるだけだ。
「……入れてくれねえのかよ?」
「……………え、」
今さっきまで回想していたことと形容が重なり、面食らったように瞬きをする。
何を想像していたのかまでは考えが及ばなかったのか、それでも怪訝そうな表情を浮かべ、李功が戸口を顎でしゃくる。
家の中に招待してくれるのではないのかと訊いてきたのだとやっとのことで合点し、施錠していたドアを引いて開いた。
「遅くなって悪かった」
「気にすんなって」
戸口を潜り、晴れて念願だった李功を自宅に招き入れることができた。
まるで動物が自身の縄張りを確認するかのように、少ないとはいえ一通り部屋を覗きまわって満足したのだろう。
李功は台所兼居間に戻って来ると平坦な声で感想を漏らした。
「おまえが住むなら、もう少し広くても良かったんじゃねえのか?」
「…贅沢言うな。身の丈には合っているんだから、おれはこれ以上は望まない」
大きな家を買ったら買ったで、早速妻子を迎え入れるつもりなのではないかと周囲に要らぬ憶測をさせてしまうだけだ。
異国にいるという親兄弟と同居するわけではないのだから、手狭な方が身分相応だ。
そちらとて裕福な暮らしはしていないはずなのに、どこか抜けているな、と思った。
そういえばいつか話してくれた昔話の中で、李功と実兄の劉宝(りゅうほう)は黒龍拳に入門する以前は掘立小屋のようなところで隠れて住んでいたと言っていた。
孤児として生きてきたのであれば、一般的な家庭というものは想像しづらかったのだろう。
独身には相応だという説明を受けて、李功も納得したらしい。
浮世離れしているわけではないのに、相手と話していると時々常識というものを疑いたくなる時がある。
本当に黒龍は白華とは違い、修行一筋の門派なのだなと実感する。
外から戻って来たので、埃を取るために顔や手や体を拭うよう促す。
水を絞ったタオルを受け取り、少し離れた場所で李功は上着の留め具を外し始めた。
しっかりと隙間なく鍛えられた胸と腹部の隆起が露になる。
健康的に日に焼けた自分の肌よりも透き通るような白さを李功の肌膚は持っている。
常に外気に晒されている二の腕は若干焼けているが、それでも紅顔の美少年さながらの艶がある。
黒髪の持ち主であれば皆が羨むだろうほどに癖のない真っ直ぐな頭髪が、それと対比するかのように一層鮮やかに浮き上がる。
整った筋骨に覆われた均整のとれた肢体。
頭身を数えればこちらの方が腰から下の長さがあったが、李功の場合は半々に近く、かといって足が短いわけではない。
むしろ自分にとっては理想的な後ろ姿だ。
引き締まった腰から存外厚みのある臀部までの線が、まるで異性が持つくびれのような曲線を描いている。
腿にもしっかりと肉が付き、女のそれでないことは明らかであってもだ。
正面からの顔も、勿論横顔も好もしいとは思うのだが、もしかしたら自身が一番気に入っていたのは李功の後ろ頭から続く後背なのではないかと思い当たる。
――そうだったのか、と。
後ろ姿フェチなどという妙な趣味を持っていたのかと改めて自覚し、ちょっとどころではない衝撃を受ける。
それでも李功から目が離せず、腕を通って自らの脇を拭きながら、暫くの間、親友の肉体を鑑賞し続けてしまった。
そのことに気づいたのは、相手の頬にいつの間にか朱が差していることをようやく察してからだ。
「…………………」
じろ、と顰められた双眸がこちらを射抜く。
射殺すような強さはないが、決まり悪げな心情を表わしたような顔つきだ。
どうせ文句を言われるのだろうと覚悟していたのだが、そのままそっぽを向くように元の位置へと戻る。
「…………………」
違和感を覚えたのは、間の抜けた話、今になってだ。
まさか、と、一抹の思いが過る。
李功は白華の里に入る前。
いや、黒龍を出る前からだったろうか。
どこか浮足立つような印象だったことを思い返す。
それは二人で同じ時間を共有しているためだと安易に考えていたが、その間に突然第三者が入って来てからもずっと機嫌を損ねることがなかった。
自分たちの間柄など露ほども疑わないヘレンがその腕に胸を押し当て、うっとりと見つめてくる間も。
その場から離れてしまえばすぐにその異郷独特の過度のスキンシップから逃れることができたはずなのに、気を荒立てることなくなすがままにさせていた。
生来機転が利き、聡いはずの李功が、暢気にターちゃんやペドロの家庭に平凡な感想を漏らしていたことも。
あからさまな笑顔ではなかったが、梁と智光(ちこう)のやり取りを眺めながら終始口元に笑みを宿していたことも。
唯一異なっていたのは、急用ができたと知ったその瞬間だけだ。
表面には出さなかったが、どこか諦めたような、明確な失望ではない静けさを持っていた。
不平不満を口にせず、親しい友として相応しい言葉をこちらに投げかけ、送り出してくれた。
だがそれまでの、不機嫌な様などどこにも見当たらなかった、もっと根本にあった理由は、つまり。
不意に湧きあがって来る感情に押されるように、がばりと李功を振り返った。