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◆、その新しい朝の光景

 どうしてここに、智光(ちこう)師範が。

 声に出して尋ねる前に、後ろからやって来た人物に胸倉を掴まれて持ち上げられ、地面!、足!、ついてない!!、と豚足のような両脚をバタバタさせた。

「誰が、『マスター』なんだよ…?」
 ひい、と心の中では情けない叫び声を上げているのに、え、だって、と頓狂な声音で答える。
「…お二人はどう見ても、マスター級でしたよ」
 腰を使って責め立てる側も、雄雄しい男根を受け入れて感極まる側も、互いの腰使いが…、と具体的に褒めかけて、さらに李功のすさまじい腕力で頭上高く持ち上げられた。
 放っておけば服で締められてそのうち窒息するだろうなと思いつつ、怒りを漲らせている親友の方に同情したため、止めようとは思わなかった。
 李功とて手加減は知っている。
 それはつまりおのれの力量を見極めているからこそ言えることだが、何で知ってんだよ、と怪訝な表情で訊いた李功への男の返答を耳にして、このまま失神させても良いのではないかと冷え切った心の隅で考えた。
「勁(けい)の力を使って………」
 掌を前面へかざすことによって、気配を実像として感じ取ることができるのだと説く。
 物体に直接触れなくても空気を通して可能だという根拠は、要するにこちらも同じ勁(けい)使いだったからだろう。
 強力な気を持っている者同士だからこそ、中で行っていることを、まるで映像を観るように知覚できたのだろうということは理解できる。
 現実に自身が試したことはないが、そういった使い方もできるのだろう。
 大した発見というか、発想だと、感心できないこともない。
 だがしかし。
「……………」
 そんな力の使い方があるのか、と感じ入るよりも先に、李功の眉間に鋭い縦皺が浮かび上がったのは言うまでもない。
 無言になったのはそろそろ本気でこいつを殴ろうかと思案しているのだと肌で悟ったらしい智光の顔面がさらに蒼白になる。
 どっと毛穴から脂汗を浮き出させ、ギブアップ、というようなことを髪を振り乱しながら重ねて訴える。
 哀れを通り越して、何だろう今のこの状況は、と諦観したくなった。
「今度やったら、確実に、おまえの一番大事なところを、握り潰す」
 どんな脅し文句なんだ、と胸中で突っ込んだが、李功にしては比較的寛大な処置だなと思わなくもない。
 宣告したということは、この時点では手を出さないと誓っているようなものだ。
 しかし李功の言葉を受けて、実際に何かを想像したらしき背の低い男が、ひいいいいいい、と上下に伸びるようにして全身を震え上がらせる。
 李功の標的だと宣言された股間の部分は、恐らく文字通り縮んでいるのだろう。
 一応地上に下ろしてもらったのでこの場から逃げ出そうと思えば逃げられるのに、李功の目の前で律義に、半ば失禁しつつ震えている様は滑稽以外の何ものでもない。
 単に足が竦んで動けないだけであったとしても。
「………………………」
 ……何となく。
 いや、予想しなくても、どこか。
「………もしかして、面識があるのか……?」
 智光と妙に仲が良いらしいことをぼそりと呟き、指摘すると、こちらを振り返った李功と目が合った。
 目を丸くすると実際の年齢よりも一層おさなく見えるのは、本人には自覚のないことなのだろう。
 存外ふっくらとした唇を軽くすぼめ、無邪気な様相で見つめてくると、無意識に手を伸ばしたくなるのだが。
「…ああ、昨日」
 ちょっとな、で始まった回想を、李功は掻い摘んで明かしてくれた。

「…………機嫌直せよ」
 先ほどまでほころばせていた口元をわずかに尖らせ、李功は朝の食卓に着いた。
 別段怒ってはいないが、と態度で示すと、やれやれと相手は肩を竦めたらしい。
 温めなおした朝食を器に盛り、並べて行く。
 週に一度の休息日とはいえ、拳士の食事は粗食と質素が基本だ。
 麦飯と汁物のたった二品だけということも少なくない。
 昔と変わらぬものを食すよう心がけているのは、これも修行の一環だと考えられたからだ。
 無論、人によっては随分とその中身が違うことも事実で、白華では菜食主義が一般的だ。
 贅沢ができるのは一握りの拳士で、そうではない者は古来から続く簡素な料理を食していた。
 自身が腹を立てているのは、特段、智光の下で李功がその手料理を食べたことが原因ではない。
 向こうが中華料理に関してはどの地方のものであってもプロ並みの腕前なのは知っているし、自分などよりもその技や知識が卓越していることを実は自慢しているのも既知だ。
 それを味わったのだろう李功に、比較してみすぼらしく映るだろうおのれの手料理を振舞うことを恥だと感じたわけではない。
 思ったことをそのまま表す相手が豪勢な品々を味わい、厳選された茶葉を用いて淹れた茶で喉を潤し、即座に漏らした感想を聞いた智光の得意げな顔を易々と思い浮かべることができる。
 才能はあっても、器量良しとは程遠い見た目や変質的な性癖によって大分評価を下げている男が、滅多に味わえない優越感に浸ることが当人にとって唯一の慰めだということも、同門の高弟であるからこそ知っている。
 だからこそこれは、ただの嫉妬だと。
 昨夜あれだけ睦み合っても尚、李功が何者かとねんごろにしている現実を眼前に突きつけられると、快く思わない心情に占領されてしまうのだ。
 抑えることはできる。
 表面に出すまいと努めることは。
 けれど相手にはすぐに知られてしまうらしく、今のようにむっすりとしかめっ面にさせてしまうのだ。
「……………怒ってない」
 ぜ、と、できるだけ余裕を見せつけようとしたが。
「………おまえは、芝居が下手過ぎるんだよ」
 畳み掛けるようにして見抜かれる。
 おまえに限らず、正直者の多い白華の奴らには無理な話なんだろうけどな、と李功は続けた。
「…別に、智光に惚れたなんて言ってねーだろ…?」
 単純に、多少は乱暴であっても年頃の友人のように接しただけだというのに、臍を曲げられて困惑しているのだろう。
 下方から睨みつけるように見つめてくる。
 確かに李功の言うとおり、知らぬ間に顔なじみになっていたことに驚きはしたが、喧嘩腰で付き合うよりは格段に増しだ。
 最高師範の梁(りょう)に教えを受けている者同士、仲違いをされていても困るからだ。
 だが今回は色々なことが重なり過ぎた。
 第一に、何で隣に越してきたのか。
 閑静な立地であるからこそ選択したはずの安住の地となる予定の場所で、よりにもよって不道徳を体現したような男が隣人になるとは。
 それだけならばまだしも、こちらの夜の営みまで覗かれていたとあっては、李功ではないが、その両目と両耳を潰しても飽き足りないくらいだ。
 あの、李功と二人きりで過ごした密な時間という時間をつぶさに鑑賞されていたのだとしたら。
 交わした数々の睦言も、吐息も。
 過度とも思える行為と、言葉による呵責も。
 あまつさえ、それらをすべて男の性欲処理として使われていたのだと知れば、憤りを覚えないわけには行かなかった。
 なんであいつなんだ、と、本来であれば拳で壁を突き破りたい衝動すら湧いてくる。
 それもこれも、要因となっているのは。
「………智光は、基本的に。…まあ、悪い奴じゃねーよ」
 若干言い淀みつつ、李功は自身の見解を語った。
 あいつの悪癖に関しては、弁明しようもねーけどな、と当たり前のように継ぐ。
 昨日話したばかりだと言っていたが、それだけで李功にも知れる事情は多かったのだろう。
 新居に運び入れた荷物の中に、いつ使うのかもわからない西洋風の電動式の張り形や、女体をかたどったビニール製の人形が転がり出てきたのを目撃した李功の呆れた顔が容易に想像できる。
 何に使うのかもわからないとは、同じ男としてさすがに言わないだろうが、男所帯と言われる黒龍の若き総帥であっても辟易するような品々を、その手にとって所定の部屋まで運ばされたのだろう。
 どんなセクハラだと、それに関しても苛立ちを覚えないわけではなかったが。
「……………そんなことは知ってるさ」
 同じ白華拳の師範だからな。
 言葉を受けて、不意に李功は整った頬を柔らかく緩め、微笑ったようだ。
「だったら、気にすんなよ」
 卓の上に左手を乗せる。
 洗濯をした李功の服の代わりに貸してやった上着は、当然のように李功の体には大き過ぎる。
 幾重にも捲り上げた袖から覗く白い肌。
 しっかりと硬い筋肉で覆われた、均整のとれた肘から手首が。
 準備を終えて椅子に腰かけたこちらに向かって伸ばされた。
「俺が好きなのは、………………なんだからよ」
「…………………………」
 聞き取れたわけではなかったが、長さも太さも違う二対の指先が触れ合った瞬間、李功の気持ちが胸に直接流れ込んできた。

 余談だが、智光を建物の中に追い払った後に李功の下穿きが乾いたことを確認したので、食事中ひとまず下半身の按排は悪くはなくなったらしい。
 丈が李功の膝上まである、貸してやった自身の上着だけで充分じゃないかと揶揄したが、途端におまえのズボンも貸せと凄まれた。
 余分にあったものを手渡したが、確認するまでもなく裾の長さも腰回りも一回り以上大きく、李功の引き締まった腹筋が無意味に広い空間とミスマッチでどこかさびしげに映った。
 足元を見るまでもなく、引きずるほどの大量の布地にその足首は隠され。
 裾を何度も折り返し、腰帯をぐるぐる巻きにすることで何とか床から離れたが、次回に備えて李功のために食器だけでなく着替えも用意しておかなければならなくなったようだ。
 苦笑いを浮かべながら、今日のような日の再来を願わずにはいられなかった。


(実は彼シャツ(下全裸)状態だった李功でした)