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◆、そのあんまりな誤解

 趙(しょう)師範はズバリ、エスっスね。
 李功が黒龍の里へ帰った翌朝、正視したくもない広過ぎる顔面積を間近に近づけられ、唐突にそんなことを言われた。


 男の発言の所以は、どうやら夜の行為を終始鑑賞して、そうであると客観的に解釈してのようだ。
 確かに李功には自分にだけいじわるだと言われたことは何度かある。
 実際には、だったらそうかもしれない、というだけの代物でしかなかったが、他人に改めて指摘される筋合いがあるわけではない。
 何を言われようとも、下世話な批評というものには幼い頃から辟易していたので、特段思うことが浮かばなかったというのが正直な反応だ。
 一切を聞かなかったかのように男の目の前を素通りしようにも、向かう方向は同じ。
 家を出てから自然と、歩きながら隣り合う恰好になったが、気のせいか、歩幅が違う影響で向こうは無理をしてまで歩調を合わせていたようだった。
 しかし長くは続かず、スタミナ不足なのだろう、智光(ちこう)の姿はすぐに後方へ遠ざかって行った。
 無情だと思われようが、こちらとしては普通に歩いているだけなので、何だかな、という無味な感想すら抱く機会を得ることすらなかったが。
 白華の師範らしいところといえば、こういう場合、相手が理不尽な口上を喚かないところだろう。
 同僚の実力を実力としてしっかりと認めているからこそではあるが、もう少しゆっくり歩いたら、とか、僕だけ置いて行かないでくださいとか。
 同性の前でも異性の前でも泣き言を吐かないのが、智光が内養功の真の達人として恥じない部分だと感じた。


 白華拳の敷地内に到着して十分程度経った頃、再び顔を合わせるなり、わかってます、と言いながら瞼を閉じ、腕を組んで果敢にも話しかけてきたのだから、見かけによらず根性があるというか。
 まだ続きがあるのか、と内心で多少やっかみながら、無言でその先を促した。
 最後まで聞いてやらねば、大人しく引き下がらないのだろうという慧眼からだ。

「……趙師範は、あいつを利用してるんっスよね」

 男の言う『あいつ』とは、恐らく自身が最も親しくしている相手なのだろう。
 自分が着てきた衣服が乾いたと知るや否や、早々に着替え、暫く歓談というか、触れ合ったり掴み合ったり、それ以上の行為に傾きそうになりながら過ごした後、里の境界まで送り届けた、あの。
 今まで苦心しながら暇を作っては睦み合っていた以上の時間を共有したのだから満足したかに思えたのだが、去ってしまったあとでは、さらなる寂寥の念に苛まれそうな始末だ。
 毎度のことであるのでいい加減慣れてしまえばいいのだが、夜をともに過ごした次の日は必ずと言っていいほど、もっと一緒に居たかったと。
 帰したくはなかったという、少なからぬ後悔を覚えてしまう。
 不思議な感覚なのだが、これが黒龍拳の李功の私室に寝泊りをした後であれば抱かずに済むことができた感慨だろう。
 多分、そうした感傷が、おのれの腕の届く範囲に確実に相手が存在していたことに由来するのだろうということは理解できる。
 たとえば逢瀬が互いの領地や領分以外の場所で行われたのだとすれば、同様に気持ちに余裕が生まれただろうことは想像に難くない。
 自身が管轄しない場での戯れは、その場限りの記憶でしかないと理性は捉えるからだ。
 だが、自らが日頃寝食を行う領域であれば、身勝手だとも思える独占欲が必然的に湧いてくる。
 勝手な妄想でしかないことは事実だが、引きとめればその分だけ、現実に時をともに過ごせたはずだからだ。
 今この空間に李功がいないことは当然であるにも関わらず、もし、の先を連想せずにはいられない。
 簡単にシャットアウトできる思考だが、愚にもつかないことに囚われてしまいがちになるのは、十中八九、智光との会話が無意味なものだと脳が判断しているためだろう。
 なぜならば、ここに当の李功がいたのだとしたら、退屈などという詰まらない感覚に襲われることはなかったからだ。
 くだんの同僚はと言えば、うんうん、と頷きながら思案を繰り返していたようだ。
 ひとまず、内容は大凡予想がついていたが、早くけりをつける意味で話の展開を催促する。

「李功を利用って、何のことすか」
 事務的な口調であったにもかかわらず、わかってるっスと、訳知り顔で智光は返した。
「……あいつは、黒龍の『スパイ』なんスよね………?」
 耳打ちするように、髭の剃り跡が濃く残った広い顔面を近づけられた。
「…………………………………………」


 智光の思考を具体的に表わすと、こういうことだろう。

 白華と古くから敵対していた黒龍拳の拳士がどうして図々しく自分たちの里の敷居を跨ぎ、有力者たちと打ち解けているのか。
 自身はおろか、大道師の蓮苞(れんほう)や最高師範の梁(りょう)までをも巻きこんでの付き合いであるのは、各々が李功の素性を知った上でのことだと。
 向こうは端正で妖艶な(智光談)容姿を武器にして、敵地へ怪しまれることなく潜入することに成功したと思い込んでいるのだろうが、その企みに大道師たちは気づいている。
 敵を自由に泳がせておくことで、必要な情報を相手から聞き出す反面、差し障りのないことだけを教えて、黒龍の連中を李功を介して皆で操っているのだろうと。
 そして李功が余計なことを勘繰ったりできないように、自分がセックスで徹底的に心身ともに骨抜きにしていると、智光は自分たちの逢瀬を目撃した上で推理したようだ。

 要するに、自分が白華拳のために、性技を用いてあの李功を籠絡していると。

「…………………………………………………………」


 邪推をするにも程があるだろうというか、何かの小説の読み過ぎじゃないかと素直にツッコミたくなったが、返答をするのも億劫なので、ただ醒めた目で男の黒いつむじを見下ろすことしかできなかった。
 その程度のことであれば急いて誤解を解く必要もないと考えたからだが、想像しなくても李功がこれを耳にしたところで、へー、と端的な応答を返すだけに留めただろう。
 興味深いというか、李功の良いところは、こうした自分自身へ向けられた侮辱というものに対して鈍いのではないのかと思うくらい無感動である点だ。
 無論、李功とて拳士としてのプライドは人並にある。
 けれど昔から大人びた考え方をする相手はといえば、こうした見え透いた挑発に容易く乗る質ではなかった。
 出会った当時から状況を合理的に捉える観察眼に長け、直観力は野生の獣並にあると表しても過言ではない。
 言い方を変えれば、よほどの悪条件が揃わない限り、精神が動揺することがないのだ。
 だが、それとは相反するように、黒龍拳そのものへの侮蔑や反感というものに関してはさほど寛容とは言い難い。
 勿論そこに起因しているのは門派を束ねる統率者としての自覚であり、言わずと知れた先人たちへの敬意の表れでもある。
 ここで自分が眉を逆立てて怒り出さないのは、そうした背景を知っていたからだ。
 李功が取り合わないだろうと思うような事柄を、わざわざこちらが荒立てる必要性は皆無。
 だからこそ心底から呆れ果ててはいるものの、はあ、といつものように返すしかなかった。
 しかし智光はおのれの胸中を知らず、さらに深く幾度も頷き、目を瞑ったまま眉間を険しくした。
「趙師範も、苦労してるっスね………」
 上司からの指示とはいえ、好きでもない奴――
 しかも、自分と同じイチモツのついた男を抱かなきゃならないんスから。
 実際に盗み見た情景を思い出しながらなのだろう。
 同情しながら慰めの言をどこか沈痛な面持ちで発する。
 全然、苦じゃないすよ(むしろ本命すから)、と瞼を半分おろして本心から答えようかと思った矢先、軽快な足音が聞こえてきた。


「趙さん、おはようございます」
 短い袖から剥き出しになった片腕を振って駆け寄り、年齢よりも無邪気な笑顔で長い髪を頭の後ろで一つに結んだ女性が畳み掛けてくる。
「今からお勤めなんですね」
 無理に早起きをしたのかもしれない彼女の目は、少し赤く腫れていたようだ。
「大道師様と一緒に起床したんですか?」
 挨拶を済ませてから尋ねると、照れたようにさらに笑った。
 様子から察するに、昨夜は宿屋ではなく蓮苞たちの住まいの一室に泊ったのだろう。
 どういった経緯があったのかは知らないが、もしかしたらそこで暫くの間世話になるつもりでいるのかもしれない。
「折角だから、蓮苞さんに色々教えてもらおうかなと思って…」
 西派の村の習慣や生活に関する様々な面で年上の彼女に教えを請うつもりなのだろう。
 蓮苞は白華の村人たちとも親しいので、ここで暮らす気があるのなら彼女に仔細を尋ねた方が確かに手っ取り早い。
 それが好いた李功に近付くことができる一番の方法だと悟ったからこその選択だということは、ヘレンなる女性の心の内を読まなくても察することができる。
 無心に李功との接点を探そうとする姿に複雑な心情が生まれそうになったが、あの…、と小声で口を挟む男の影に我に返った。
「あら、智光ちゃん」
 いたの、と素っ気ない返答が返る。
 思わずこちらが閉口してしまうほど冷たい態度を見せたのは、ヘレンの中では完全に男の存在そのものがアウェイだったからだろう。
 名前や顔を認められていないとまでは行かないが、彼女の中では恐らく、表現の仕方は悪いが、醜悪な部類に入る人間は特に意識に入れる必要がないと考えての行動なのだろう。
 ヘレンが外見の美醜を持ちだして自身に不必要かそうでないかを瞬時に判断するような人格ではないだろうとは頭の片隅で思ったが、持ち前の性癖によって当たり前のように女性受けが悪いらしい智光には無理もないことだったのかもしれない。
 思案を巡らせなくても、遠い彼の地で好きな相手の前でもはばかることなく本性を曝け出していたのかと思うと、同情の余地すらないと言えないこともなかった。

 日頃の言動を思い返せばフォローのしようがないと思い、そのまま放置しようと考えたところで、何を思ったのか、苦み走った表情で智光は苦言を呈した。
「………あいつの正体も知らないで……」
「…………………」
「『あいつ』って、李功さんのこと?」
 先刻の自身と同じことを、ヘレンはためらうことなく口にした。
 う、と智光は答えに詰まったが、否定はしなかったので彼女は肯定と受け取ったようだ。
「言いたいことがあるなら、はっきり言えば?」
 好いた相手に難癖をつけられたのだろうと感じた彼女の機嫌が次第に悪くなっていることを肌で察しながら、智光は顔面に数え切れないほどの汗の粒を浮かべていた。
「李功さんが、何?」
 さらに強い口調で問われ、意を決したようにぎゅ、と両方で拳を握ったようだ。
「………あいつは……………黒龍のスパイっスよ……………」
「へ……?」
 ヘレンのきょとんとした貌が視界に浮かんだ。
 と思った次の瞬間、言われた意味を理解したのか、大きな口を開け、腹を抱えてげらげらと笑いだした。
 見方によっては下品だと捉えられるかもしれないが、隠すことのない素の姿が眼前に表れているようだった。
「……………………」
 気のせいかもしれないが、こうした大胆な感情表現は、どこか自分の想い人と似ているような気がする。
「り、李功さんが、……スパイ……!???」
 大げさに笑い転げながら、ひいひい、と泣いて涙を流している。
 しかし、根が真面目な智光はといえば、さらに深刻な顔つきで、白い歯を見せて馬鹿笑いを続けている彼女に迫った。
「……当然じゃないっスか。…白華拳と黒龍拳は、昔から敵同士っス」
 あいつらが、下心もなしに白華と仲良くしようと考えるわけがない。
 何らかの魂胆があって、こちらに近づいたのだと力説する。
 智光の全身からはただならぬ緊張感と鬼気迫るような気迫が漂っていたが、案の定、あっけらかんとした態度のヘレンに却下される。
「ばっかみたい。…あの李功さんが、そんな卑怯な真似するわけないでしょ」
「『あの』、って………」
 あいつの何を知ってるんスか!!、と反論しようとして、咄嗟にちらりとこちらへ一瞥が投げかけられた。
 事実を知る人間の一人として、助け舟を寄越すように促しているのだろう。
 だが智光には悪いが、まったく根も葉もない想像であるという事実が、覆ると思うことの方が無謀だった。
 ふう、と内心で肩を竦める。
「ヘレンさんの言うとおり、李功には、間諜に身を窶す意味がないすからね」
「ですよねー?」
 すかさず、同意が返る。
「…………!???」
 完璧に孤立している現状を認めたくないのか、智光には明らかに先ほどよりも強い焦りの色が浮かんでいた。
 おどおどと、宙に浮いた両手が所在なげになり、並んだ人影を見比べるように豆粒のような瞳を左右に彷徨わせる。
「だって、あいつは趙師範がいなかったら、今頃白華拳を潰す策略を巡らしていたかもしれない――」
「だから、そんな真似はしないわよ」
 売り言葉に買い言葉のように、ぽんぽんとテンポの良い問答が繰り広げられる。
 同じような攻防が何回か繰り返された後、なんで断言できるんスか!!、と必死の形相で食い下がられ、ようやくヘレンは男の言っている意味の根本にある真実に気づいたようだ。
「もしかして、智光ちゃんてば知らないの??」
 再会した当日に自身の口を介して教えられたことを知らなかったのかと驚愕する。
「………へ????」
 智光の間の抜けた声が、青い空の下、一層憐れに響いた。

 李功の素性を改めて彼女から聞かされ、ぽかんと口を開けて智光は放言した。
 そこには驚きも怒りもなく、現実と未来への純粋な解釈だけが内在していた。


 それじゃ、完全に望みなしってことじゃないっスか。


 男の放った台詞の、何の、という目的格は、同席した自分だけが正しく理解していた。

(李功は稚児じゃないよ…!、という話でした)