「『望みがない』って、李功さんのこと………?」
自分に要らぬ懸想をしているのを知った上で、彼女が男の言葉尻を拾って問うた。
どうやらヘレンはそれを自分の恋心を指しての評だと感じたようだ。
この国のしきたりや、外国出身者である自らを顧みての直感だったのだろう。
彼女が好意を寄せている李功は、西派拳法三十二門派のひとつ、かつてはその中で第二位の実力を誇っていた黒龍拳の現在の総帥だ。
双方の立場を鑑みれば、多くの門弟を抱える人物に自身が相応しくないと言われたのだと勘違いをしたとしても不思議はなかった。
無論、そうだと言ったわけではない。
正確には。
「おれのことですよ」
智光(ちこう)が言い淀む前に、さらりと答えを返すと、驚いたように彼女は大きな眼を見開き、二三度瞬きをした。
結局、ヘレンには何のことか理解できなかったらしい。
智光の言った『望みのない』にかかるものの正体が、自分の何を指しているのかを。
蓮苞(れんほう)が探しているとの方便を使って彼女の疑問を煙に巻いたが、真実には遅かれ早かれ。
あるいは、一生知らずに終わるかもしれない。
知らずに済んだ方が幸いだと語って偽善者を装うつもりはないが、時を得れば、自分か李功のどちらかがヘレンに打ち明けることもあり得るだろう。
ようやく無駄話から解放されたと思って安心していたが、なぜかその場から立ち去ろうともしなかった智光が、石畳の上に立ち尽くしたままさらに神妙な顔つきで片腕を組み、凹凸などどこにも見当たらない丸い顎を押さえて考え込んでいた。
自身が懇意にしている李功がどういった経緯で白華に出入りを許されているのか。
大道師や梁(りょう)師範ともねんごろな付き合いができるのか、理由を知っても釈然としない部分がまだ残っているらしい。
ただ、男の頭の中では、李功への不信感が先ほどの説明だけですべて払拭されたわけではないだろうことも事実であるらしかった。
親しくなったと言えるほど口を利いたわけではないので、当然と言えば当然だったが。
「………趙(しょう)師範もモノ好きっスよね」
思わず苦笑してしまいたくなるほど、平凡な感想を智光は漏らした。
同性で、同じ西派の拳士というだけならまだしも、年の若い門派の一統率者と肉体だけではなく気持でも通じ合っているのだから。
白華拳の次に有名な一派の統率者であると知った以上、結ばれる望みは完全に断たれているというのに。
智光が先刻のように白華に誰も裏切り者がいないという前提で李功ひとりを悪者に仕立てあげるような推測を行った過程は、本人からすれば至極普通のことだったのだろう。
わざわざ男を。
理解できない。
しかも敵対していたはずの黒龍拳に所属し、その上、総帥を務めているような奴を。
理解できない。
さらに、両思いだという。
立場上、結婚もできないのに。
今も進行形で付き合い続けているという。
理解など、到底できるはずもない。
智光は社会的な地位を問題視する以前に、各派の長老たちからは決して認められず、許されもしないだろう茨の道を進んで選んでいることを確認すると同時に改めて言葉に出して指摘したのだろうが、心配せずともすでにすべてわかりきっていたことだ。
よほどの罪や前科を持つ者が相手ではない限り、一門派を束ねる人間の婚姻に関して、形式的とはいえ縁組みの最終的な可否を下す彼らが余計な口を挟むことは少ない。
長老たちから許しを得られた男女はすぐさま婚儀を執り行い、西派に所属する者たちは自由に子どもをもうけることができた。
各派の最長老たちが寛容だと思われがちであったのは、これまで深刻なほどにかれらの是非を問うような大きな問題が起こらなかったためだ。
しかし、長い歴史の中で、残念ながら男の拳士同士が恋慕う関係になったことも極稀だったがあったと聞いている。
修行中の身でありながら不謹慎かつ不道徳との理由から、明るみになったが最後厳しい沙汰が下りたが、門派の中で黙認されるようなひそやかな関係も確かにあったようだ。
可能だったのは、推測ではあるが、それらが長く続かなかったという可能性は否定できない。
上司から妻をあてがわれ、子を持ったが最後、彼らの関係が終焉を迎えることも少なくなかったろうからだ。
それとも、肉体的な関係を離れ、精神的な繋がりだけで満ち足りることのできる術を見つけたためか。
いずれにしても、今の自分にとっては現実とかけ離れた世界であることは間違いない。
「李功は、前の武術大会でおれに大けがを負わせた黒龍の対戦相手だったんですよ」
耳にした途端、えーーーーーーっ、と智光の顔面が間延びした声調に合わせて縦に伸びた。
先のトーナメントが終わってからすでに数年が経っているとはいえ、男の記憶にはどちらかといえば新しいものだったようだ。
なぜなら、わずか十四の頃の李功に粉砕された手足の骨をくっつけたのは、紛れもなく当時内養功しか得意ではなかった眼前の同僚だ。
死人が出ることもあると言われる西派拳の十年に一度開かれる大会が恐ろしくて、謀略によって暗殺された白華の三人の出場選手になり代わって師範へ昇進するよう命じられたにもかかわらず、真っ青になったまま頑なに辞退をし続けていたため、肩書きは括弧付きの準師範だったが。
回復の術の修得に特化していたとはいえ、智光の才能を持ってすれば、勁(けい)の技によるダメージが著しかった頭部に負った重傷も、全身の傷と一緒に治せないこともないはずだった。
しかし、いざ実行に移したとしたら、治癒の法を施した側は最悪の場合廃人となるか、数ヶ月間寝たきりになる危険性があった。
あらゆる神経を李功の烈しく威力のある気の力によって傷つけられ、視力と聴力を完全に奪われてしまったのだから、怪我を負わせた当人が治療のために長い月日をかけて白華の里に通うという選択をしてくれたことは、その側面では実は智光にとっても無関係な話ではなかった。
李功にとっては、師であった先代の指導者に命じられ、黒龍拳の威光を見せつける意図で故意にしでかしたことであったので、単純に解釈してもその責任を取っただけだというのが李功の側の正当な根拠だったが、白華にとっては短期間のうちに急激に数を減らした師範級の人間をまた一人失うかもしれないという悲劇を回避することができたのだ。
李功は自らの償いがそれだけで果たされたわけではないと謙遜しているようだったが、その事実をよく知る者は少なからない恩を感じていた。
自身だけでなく、少なくとも相手の律義で真摯な姿勢を、表には出さないが大道師は高く評価している。
だからこそ彼女の夫となった梁も、一回りも年下の李功に対しては比較的同情的であり、かつては仇敵であった他派の出身者でありながら、『仲間』と表すほど胸襟を開いているのだ。
李功が幼かったから過去の過ちを許したのではなく、その後の責任の取り方、自らの身の処し方に、白華拳にとって信頼に足る人物だとの最高の評を下したからに他ならない。
「自分を再起不能に追い込んだ相手を……ねえ……?……」
その先の人生を奪い兼ねなかったほどこてんぱんに伸された敵を、どうして好きになったりできるのか。
その輪の中に入っていなかった智光は、今も尚その頭を悩ませているらしい。
当人でなければ。
否、当事者でさえも。
なぜここまで惹かれ、求めているのかも定かではないのだから、他人の想像だけで真実が解明できるわけがない。
もしかしたら自分は、あの時一度命を失ったのかもしれない。
李功の手によって拳士としての生命をうしない、
相手の力によって、再びよみがえったのだとしたら。
これほどまでに李功を必要としてしまうのも、決して不条理であるとは言い難い。
何かあるのだとしたら、因果そのものではないかと。
湧き上がってくる形容できない思慕に追いたてられるように、再び胸の中が熱くなったような気がした。