よお、と。
いつも通りの相手らしい口調と声色で、小さくまとめられた荷物を軽々と眼前で持ちあげ、李功は親しい間柄ということもあり、短い言葉で挨拶を省略した。
「この前言われた奴、持ってきたぜ」
ああ、と言って受け取り、中身を改める。
視界に、少しくたびれたような色彩が映った。
「新品じゃなくてもいいって言うからよ」
贅沢を言えば、一ヶ月に一度くらいは使いたいものだったが、実際には使用する頻度が少ないだろうから、わざわざ真新しいものを用意する必要はない。
改めて理由を告げると、確かにそうだと納得するように李功は片頬を上に吊り上げた。
二三メートルほど離れた隣家で洗濯をしていた智光(ちこう)は、遠方の里からやって来た客が何を携えてきたのか気になったのだろう。
何事かと手を拭いながら、予想通りその首を突っ込んできた。
あまり教えたくはなかったが、気前のいい親友らしく、李功の口から答えが返る。
「おれの服だよ」
わざわざ畳んであったものを、上着だけを摘まみ上げ、目の前で広げる。
古着と呼べるほどぼろぼろではなかったが、長年着続けたのがわかるような風合いだ。
しかし、着心地だけは良いのだろう。
休日に寛ぐには最適だと李功が判断したのだとしたら、さすがだなと思えないことはない。
しかし何を思ったのか、智光ははっと何かを思い出したように慌てて家の中へ駆け込んで行った。
しばらくして、どどどと大きな足音を立て、戻って来たその腕に抱えられていたのは。
「使っていいっスよ」
「…………………………………………………」
差し出されたのは、女体をかたどったビニール製の人形。
李功のいないさびしい夜を慰めるため、これに着せて使えと言いたいのだろう。
誰が使うのかは問うまでもない。
無言で智光の前に立った李功の拳が、スローモーションで男の顔面にめり込んだ。
殊更緩慢であったのは、ダメージの軽減を図ってのことなのだろうが、男の顔の面積と比較して妙に小さな双眸と、横に潰れた鼻が見事に内側に食い込んだ様を見る限り、スピードを遅くした意味があったのかどうかは定かではなかった。
相変わらず他人へのセクハラに余念がないというか、西派の拳士としての道徳心が大きく欠如していると指摘されても反論のしようがないような酷い性癖の持ち主であるようだ。
しかし、白華を経つ前まではこれほどあからさまだったろうかと疑問を感じないわけではない。
この地でかれこれ三年ほど続いた、師匠である梁(りょう)という抑止力がなかった頃でさえ、物陰の向こうで隠れて妄想に耽ったり、愛読している成年向けの雑誌を伴って自慰を行うだけの、最低限の配慮が存在していたように思う。
当然、見つかったが最後どんな制裁を受けるかわからないだけでなく、男を支持する同門の拳士や村人たちに顔向けができないと考えたためだろう。
だがしかし遠いジャングルで、広大且つな開放的な大地と対面し、そこで生活を続けて行くうちに、おかしな露出癖でも身につけてしまったのだろうか。
話題が変わるたび、事ある毎にセックスに関する物事を絡めてくるのは男なりの低俗なユーモアであったのかもしれないが、性に峻厳な土地とその思想の下で、昼夜を問わずそれらを堂々と行える精神は正常とは真逆のものだろう。
そして李功も、飽きることなくその手の下卑た言動に反応を返しているのだから、人懐こさもここに極まれりだ。
智光はいまだ李功のことを完全に信用しきってはいないようだったが、砕けたというか、砕け過ぎて露骨に下品な態度を取るくらいには、親しみやすさを感じていたのかもしれない。
返ってくるのは、侮蔑の視線を通り越した柔らかな鉄拳だったり、軽い拷問紛いの、厳しいのかゆるいのかよくわからない対応なのだが、飽きることなく畳み掛けては李功から二倍返しくらいの報復を受けている。
李功も李功で『白華の師範』ということを考慮した上で、返報を行うとしてもかなりの遠慮をしているようだったが、わけのわからない行動を恥ずかしげもなく繰り返す輩を懲らしめるためのノウハウは、男所帯の黒龍拳で充分に培っているらしかった。
無論、幼い頃から美形だったろう親友が、同門派の男たちから性的な誘いやいたずらの類を受けていたとは思いたくもない。
しかし、大半はその実兄の迫力や威圧感と、何より李功本人の強靭な力で撃退していたのだろうことは容易に想像できる。
なぜなら、生まれながらに漲るほどの生命力を宿している体質上の理由があるとはいえ、今の李功自身の精神が至極健全であるということが最大の根拠だ。
「……………………」
智光は尚もおかしなことを言い募っては李功に急所である頭部の中でもさらに皮膚の薄い部分である瞼を摘ままれて、ひいいいと悲鳴を上げている。
同年代の友人同士のような戯れ合いと言えばそうなのだが。
考え過ぎであればいいのだが、と、自身の思考を適当なところで打ち切ることで部外者を装うことに成功した。
「困った奴だなー」
自分ではなく、白華の同僚に対するからかいそのものに腹を立てているのだろう。
李功自身への揶揄であれば、鼻で笑って済ませてしまえる事実は、今更事細かに説明するまでもない。
それがこちらに対する親愛の情を起因にしているだけでなく、組織の人間が持つ、有態に言えば『面子』の問題だと捉えているためだろう。
他里の出身者である李功が気を割く必要はないのだが、黒龍拳を束ねる総帥としての気質がそうさせてしまうのかもしれない。
他に理由があるのだとしたら、単純に、気兼ねのない関係だからということになるのだろうか。
趙(しょう)は、あんな物使わねー。
「………?」
不意に聞こえたと思ったものが、耳に届いたのではなく、脳裏で鳴動するように響いたことにわずかに目を見開く。
直感的に、それが意図して行ったわけではない読心の術によるものだと解釈した。
李功の心中の台詞を、勁(けい)の力で無意識に拾ってしまったのだろう。
家の中に招き入れ、食卓の椅子に座るよう促したはずなのだが、当の李功は立ったまま壁を向いている。
歩み寄り、その背にもう一度声をかけようとして、ふと相手の胸元に視線を落とした。
何を考えていたのか、自身でも明確ではない。
ただ、李功の口元から下の線が気になったという程度の差異だった。
「……………………………」
「?」
今度は相手が不思議そうな表情をする番だった。
趙?、と心地好い声音で名を呼んでくる。
「…………………」
徐々に体温が上がってくる気配を察し、冷静さを保とうと考えれば考えるほど、頬から上の肌が火照っていくのがわかる。
咄嗟に左右の頬肉を片手の親指と人差し指で押さえた。
平静さを装おうと努めているのに、意に反して体の熱が上がり続ける。
上体と下半身という、ちぐはぐな部分での熱量の増加に軽い眩暈を覚えながら、李功に肩を掴まれるまで、正常な呼吸を練られるよう努めるのに必死だった。
分厚い筋肉に覆われた肩口に、若干温度の高い形の良い手指が触れる。
大丈夫か?、とその唇が動いた。
ああ、何でもない、と。
答える声が妙に掠れ、浮ついていることに気がついたのだろう。
相手の眉間が、さらに怪訝な色を刷いた。
「吐きそうなのか…?」
尋ねるが、そうじゃねーな、とすぐに言い改める。
覗きこんだこちらの顔色が蒼白とは似ても似つかない様相であったからだろう。
そうしているうちにも、視界に飛び込んでくる光景に、どうしようもないほど視線を引き寄せられる。
黒目を四方八方へ彷徨わせることで何とか理性を保っていたのだが、李功が真正面に立った瞬間、危うく卒倒しそうになった。
黒龍の拳士ほどではないにせよ、頑強に鍛え上げた自らの肉体が地面に崩れ落ちる様など、現実に有り得るわけがないのだが、そう錯覚してしまうほどの威力があった。
「どっか、おかしいか…?」
李功は、むすっと唇をとがらせながら眉を寄せ、怒っているようにも見えるのに、どこか懇願するような目つきで下から見上げてきた。
自身が嘲笑われているのだろうとでも考えたのか、臍を曲げたような態度の親友に、常態の自分であれば笑い返すこともできたのだろうが。
そうじゃない、と辛うじて本音を吐きだした。
そうではない。
しかし、李功は気がついていない。
平気な顔をして智光の悪戯をいなしていたはずが。
「……首、勃ってる、………ぞ」
「………………………………」
どこの首だと、李功の側から問いが返ることはなかった。
(体の線がそのまま出る李功の服はえっちだなあと思います)