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李功(りこう)という男、その一途な信念

 あれえ、李功さん?
 間の抜けたような声が、柔らかそうな紅い口唇から漏れた。

「どうして、白華(はくか)に…?」

 目を丸くし、驚いたような表情でこちらに近寄って来たのは、この村に居候する日系の女性ヘレン・野口だった。
 聞くなり、慌てたのは自分たちよりも智光(ちこう)だったのかもしれない。
 頭一つ分以上下の位置で、あわあわと落ち着かずに左右を交互に見まわしている。
 逆に、先ほどまで漲らせていた怒気を、まるで何事もなかったかのように鎮めたのは、名前を呼ばれた李功だった。
 虚を突かれて返答が遅れた事実も露知らず、男たち三人の元へと詰め寄ってくる。
 無論、その歩行の先にあるのは、彼女の意中の男性である李功本人だ。
「ここに泊まってたんですか?」
 畳み掛けるような質問攻めを嫌な顔一つせず、李功は大様に頷くことで肯定したようだ。
 男ばかりが犇めく黒龍拳(こくりゅうけん)の若き指導者であっても、異性に対する嫌悪感は見せず、どちらかといえば門弟への対応を若干和らげたような印象に近かった。
「…趙(しょう)のところにな」
「へ~え」
 名門大学を卒業した知識人のはずが、さながら脳味噌のない生き物のように、どこか呆けたような応答を返す。
 休日の普段着姿の李功を初めて見たという理由もあるのだろうが、風呂上がりの濡れた黒髪の美少年の横顔に知らずに目を奪われていたのかもしれない。
 それから、衣服の下の端正だが脂肪がほとんどないような見事な肉体にか。
 束の間の沈黙ののちに、我に返ったのか頬を染めてそこに片手を添える。
 うっとりと見惚れてしまったことを恥じたのだろうが、仕草のすべてが男に媚を売っているように映るのは気の迷いだろうか。
「ヘレンさんは、朝の散歩ですか?」
 彼女を李功と会わせたくなかったという本心を隠し、当たり障りのない問いを投げかける。
「早くに目が覚めたので、運動の代わりに」
 にっこりと、愛想を全開させたような笑みを添えてくる。
 早起きは三文の得だと言うけれど。
「それって本当だったんですね。…こうして李功さんに会えたんだから」
 頬を染め、恥じらいながら、自分たちよりも数段丸みを帯びた肢体をくねらせて、李功の前で言葉を紡ぐ。
 腕や肩を揺らす都度、頭上で束ねた長い黒髪が波を打った。
 彼女の装いはまるで早朝トレーニングのために設えられたようなスウェットの上下だ。
 運動のため、というのはどうやら嘘ではないらしい。
 是とも否とも言えず、李功はバツが悪そうに唇の端を軽く持ち上げただけだったが。
「でも、本当に仲がいいんですね」
 お二人は、と言い、自分と李功を指す。
 『中がいい』のは確からしいッスけどね、と下世話なツッコミが聞こえたが、頭から無視した。
「ライバルで親友だからな」
 もちろん、それだけではないが。
 端的だが的確な李功の答えには余念がない。
 警戒しているわけではないが、しっかりと距離を保っているような受け答えだ。
 正しく解釈するならば、遠ざけもしないが、近づけもしないという、厳しい態度なのだろう。
 だが、彼女はそこに気づいていないようだ。
「それって、何だか憧れるな~…」
 女同士だと、そう簡単には行かないから、と伏し目がちに微笑しながら、眩しそうに目元を細め、李功を見上げる。
 ヘレンが李功に好意を抱いていることは、傍目から見てもよくわかる。
 彼女自身は相手に想いを告げることはまだしていないようだが、生来、本命にはあまり大胆にはなれない性分であるらしい。
 それ以外の者に対してはかなり強引で、無邪気な悪女を体現したような一面や二面や三面を持っていると、ターちゃんの細君であるヂェーンから聞いたが、こうして見る限りは大人しいものだ。
 雌豹のような危険な香りを放って、周囲の男たちを誘惑しているそうだが、とてもそのようには見えない。
 しかし、恋敵である以上は、穏やかな心中で見守れるはずもなかった。
「今からご一緒してもいいですか?」
 朝ごはんがまだなら、ともに食べさせてくれないか、と。
 ここに家を持たない身である彼女にとっては、精一杯の誘いだったのだろう。
 一瞬、この場にいた誰もが緊張した空気を感じたが、智光の思考の方が自分たちよりも一歩早かったようだ。
「ご、ご馳走しますよ!とびきりおいしい中華料理を…!!」
 へこへこと胡麻をを擂るような仕草で、ヘレンの興味を引きつけようと懸命な誘い文句を吐く。
 事実、智光の料理の腕前は自身が実際に白華の厨房で身につけたものよりも数倍上だ。
 なぜそこまで極めたのかはわからないが、恐らく男はよほどの凝り性なのだろう。
 だが、努力の甲斐もむなしく、智光ちゃんには聞いてないわよ、の一言で片づけられた。
 がっくりと両肩を落としてうつむいてしまった男に一瞥を投げながら、李功は顔色一つ変えずに言葉を放った。
「いや。…趙と二人で食べてえから、遠慮してくれねーか」
「………………」
 智光ではなく、今度はヘレンが硬直する番だった。
 やんわりと、ではなく、きっぱりと拒絶され、瞬間思考回路がストップしてしまったのかもしれない。
 もう少し、自身が入ることができるような隙がどこかにあるのではないかと淡い期待を抱いていたのだろう。
 李功がどうしてここまで女である自分を遠ざけるのか、理解しようとしてできないのかもしれない。
 西派の拳士は生涯を通して修行中の身であるとはいえ、異性との交際は認められている。
 門派毎に差があるとはいえ、白華拳では男女が連れ立って歩くことが、古里では珍しく容認または黙認されている。
 李功が黒龍の人間だからだろうかと、わずかにパニックに陥りそうになりながら、あらゆる可能性を考慮して噛み砕こうと努めているのだろう。
 それは半分は正しいが、残りの部分では異なっている。
「……あ、蓮苞(れんほう)様が探してますよ」
 他心通で報せが来たとうそぶいて、ショックで固まったままのヘレンを促す。
 少なからず傷心したように、力が抜けていた彼女の体から返事が聞こえてくるまで、大分間があった。
 しかし力を振り絞り、はい、と言って駆け出す。
 李功に挨拶することもできずに走り去ったのは、やはり心理的な衝撃が大きかったからだろう。
 なぜ拒まれているのか、彼女の頭では考えが及ばないがゆえに。


「取り付く島もないとは正にこのことッスね」
 真摯な眼差しで李功を振り返り、同僚の師範が感想を漏らす。
「気を持たせても、しょーがねえだろ」
 その気がない相手に曖昧な応対をしても、傷つく人間が増えるだけだ。
 李功の言い分は簡潔で、常に正しい。
 余計な枝を省いて、まるで一本の大木が天に向かって堂々と聳え立っているような、育ち続けているような、稀有な存在だ。
 言葉が少ないからこそ誤解も生むが、当人とて細かな説明が不得手な口下手の類ではない。
 けれど、ひとつの答えが眼前にある今、余分と思える知識を与えたくはないのだろう。
 そうッスね、と智光も同意を示すように深く頷いた。
 顔を上げてからも、気真面目な物腰は変わらなかった。
「…きっと、そういうところに趙師範も惚れたんッスよ」
「………………」
 言い残し、智光は太った体を揺すりながら、必死な面持ちで彼女の後を追った。


 見送った後、李功がふと漏らす。
「…………そうなのか?」
 あいつの言っていたことは的を射ているのか、と問う。
 それを聞いて、くすり、と思わず笑いが漏れた。
 何に対してのかと言えば、そんな率直な疑問に対してだ。
 そして出てきた言葉と言えば。

「…おまえが一番よくわかってるんじゃないのか?」

 おれがどこに惹かれているのか。

「…………………」

 そーかもな、と。
 そこでようやく、切れ長の瞳を綻ばせて、李功は破顔した。