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*◆、その新たな名

R18
 さすがに今回は、
 やりすぎじゃ、ねえのか、と。

 小狭な浴場で椅子に座り、向かい合って抱き合いながら、李功は揺れに度々言葉を奪われつつ、埒もない感想を漏らした。


 夜が明けた頃、李功が本格的に眠りから覚醒する前に起床し、汚れものを脇に抱えて早々に洗濯を行うべく部屋を出た。
 風呂の湯を沸かしながら、その傍らで下着や服を踏み洗いで洗浄していたのだが、いつまで経っても相手が起きる気配がなかったので寝室まで迎えに行くと、すでに李功はベッドの端に腰かけ、白い首を傾げていた。
 服はどこへやったんだ、と堂々と足を開いたまま股間を隠しもせずに訊いてきた黒い頭に、洗い終わったから干しているところだと告げると、途端に柳眉を大きく歪ませた。
 しかしすぐに思い直したのか(そこが李功のいいところなのだが)、背後を振り返り、もうひと眠りすればいいかと思考を軌道修正したようだ。
 そんなわけがあるか、と嘆息しながら上腕を掴んで立ち上がらせると、面白いように膝を崩してきた。
 咄嗟に体と腕を使って支えると、あー悪い、と気の抜けたような声が届いた。
 まだ本調子ではないのだということを察し、さすがに盛りのついた動物のように一晩中励んでしまったことを後悔するところだったが、風呂の用意ができていると告げると何とか自力で立つことができたようだ。
 下手をすると再び女のように抱き上げられて連れて行かれると懸念でもしたのかもしれない。
 身体を洗ってやる、と言うと、やはりというか、李功は何とも言えない顔つきになった。
 元々、身内の世話を焼くことそのものを苦労と感じることが少ない体質だった。
 特になぜか、恐らく好いた相手だけに限ってなのだろうが、事後の汚れた肌を拭ったり、髪を梳き衣服を着せて整えてやることがごく自然にできているという自覚がある。
 苦ではない、というのが本来的確な表現で、義務という認識が強く、決して好んでというわけではない。
 李功は李功でやりたいようにさせているのだが、当初はなんでこんなことまでするんだ、と明らかに眉をひそめていた様を思い返す。
 こどもじゃねえんだぞ、と断られたことも現にあったが、だからどうした、と視線で訴えると、それ以降不満を言わなくなった。
 過度の奉仕精神や、他者の身体を自由に扱うのが好きなのではなく、こちらがしたいようにしているだけだと悟ったためだろう。
 議論するだけ無駄であると察したからこその賢い選択だったのだろう。
 李功が自分でやるといっても、結合していた余韻が強過ぎる時は腰はおろか手指にも力が入らないことが多かったので、結果オーライだ。
 それに今回は、他に目的がある。


「どうせ奥まで届かないんだろ?」
「…………………………」
 聞くなり、李功は憮然とした。

 どこを指しているのかを一発で的中させたからこその反応だった。
 昨夜、数週間、練りに練り続けた濃い精を李功の体の一番奥に放ったのは、故意だ。
 なぜなら、欲望に理性を貪り食われても、よほどのことがない限り意図しない射精を行うことは皆無だからだ。
 そうだと言い切れるのは自負であり、自戒のようなもので、白華の師範を務めているという矜持にも関わる。
 それは李功とて同様で、無理矢理快感を引き出すような拷問を実際に受けたとしても、そう易々と体外に種を放出するような無様を晒すことはないだろう。
 今更説く必要もないほどに、高ランクの拳士として内外のエネルギーを操る術を体得している所以だ。


「体くらい、自分で洗えるぜ」
「ああ。…じゃあ、見ててやる」
 目的の場所まで届いているのかどうかを。
「……………………………………」
 相手を睨みつけながら黙り込んだ李功の顔が赤面しているのは、恥じらいのためか怒りのためなのかの判別は付きそうで付かなかった。
 そうしてると、黒龍拳の総帥も形無しだな、と思わなくもない。
 どんな悪趣味なんだよ、と李功は歪めた唇で悪態をついたが、ぐいぐいと強引な力でこちらに流されることにはすでに慣れてしまっていたのだろう。
 反論のしようがなかったのか、舌打ちとともに項垂れ、覚悟を決めたようだ。
 しかし道の先頭は譲らず、強がって前を行く。
 全裸であることはもはや当人にとって問題ではないらしい。
 後方でうっすらと苦笑を浮かべながら、李功の後に続いて風呂場へ足を踏み入れた。


 泡立てた海綿を使って、早速李功は爪先から頭の天辺まで拭いきったようだ。
 相変わらず異様なまでの手際のよさだと思ったが、見られているからこそのスピードだったのかもしれない。
 表面にシャボンが付いたままであるとはいえ、もう一度洗い直してやるつもりで傍らに立つと、みぞおちに使い終わった海綿を押しつけられた。
 先ほどまで履いていた下衣は脱いで、勿論自身も一糸まとわぬ姿になっている。
「…おれはもう済んでる」
 受け取った物を水を張った桶の中に放り、あとは湯に浸かるだけだと明かすと、李功は無意識だろう、唇を噛んだ。
「………教えてくれるだけでいい」
「………………………」
 後ろの洗い方だけ教えてくれれば事は足りるとの主張だが。
 初めて李功の中に出した前回は、自らの不徳のために不本意にも喧嘩別れのような形になってしまったが、その時はといえば想像しなくても李功自身の手で片付けたのだろう。
 しかし今丁寧に教えてやろうと思った理由は、先回の後ろめたさがあったためと、それから。
 臀部の割れ目に指を這わせる相手の痴態を見てみたかったなどと白状できるはずもない。


 立ったまま無言で濡れた腰を引き寄せる。
 上から覗き込むようにしながら、李功の後ろへ背後から手を這わせた。
 膨らんだ丸みの間に潜んだ一点に中指の腹を当てると、李功が息を詰めた。
 相手の挙動は、夜であっても朝であってもさほど変わらない。
 陽の光が差し込んでいようといまいと、強がる姿勢に変化はない。
 意地っ張りのように映るが、単に生まれ持った気同様、意思も強いだけなのだろう。
 だからこそその鼻っ柱を折ってみたくなるのだという反骨の精神は、ひとまず今は封印しておく。
 ここだ、と教えるようにして数回表面を撫で、その指を持ってくるように促す。
 決心したのか、早くこの作業を終わらせてしまいたかったのか、一瞬も躊躇せずに李功は手を伸ばしてきた。
 振り返るような恰好で鍛えられた左腕を伸ばす。
 押さえていた温もりの位置を交代するように場所を譲ると、躊躇わずにそこに押し入ったようだ。
 自分が触れる時よりも、李功の反射は穏やかだ。
 何がどう動くのかを知っているからこその手ごたえだったが、集中してしまえばこちらの目など気にならなくなるらしい。
 近距離で見つめている側はといえば、そんな冷静なことも言っていられないが。
 少しずつ、少しずつ、深く、深く。
「………っ………」
 李功の呼吸が跳ねたのを認め、噤んでいた口元に力を入れた。
 そうさせたのは間違いなく、次第に重くなる下肢が原因だったのだろう。
「…………………」
 断りもせず、手に手を添える。
「……!!!」
 前触れもなく狭い内側に自分と親友の二本分の体積を受け入れる事態に陥り、ぐ、と李功の喉が鳴った。
 まさかいきなりこの場面で他人の介入があるとは予想していなかったのだろう。
 振りほどこうにも手の甲の上から押さえられているので、密着した状態から抜け出すこともできない。
「いいから、このまま……」
 このまま黙っていろ、と強い視線で命じ、すぐに李功が辿った距離まで至る。
 懸命に乱れかける呼吸を正常値まで引き戻し、真摯な態度を取ることで李功に警戒させないよう努めた。
 つい数時間前にも、おのれの触覚器官や局所で味わっていたはずの密な空間を進む。
 内部の熱が高まっていくのを皮膚の上から感じながら、この先だと見当を付け、さらに奥へ先端を伸ばした。
 李功の背が撓り、後頭部が肩を突いた。
 視線がかち合った拍子に堪らず上方からその口端に口付けた。
 しかしこれでは汚れを洗っているのではなくただの性交だ、と自らを叱咤し、すぐに離れる。
 李功の奥を先っぽで撫でさすり、泥濘のような感触を感じた部分でわざと壁を突くように節を曲げた。
 っ、と、ひるんだような声音が耳に届く。
「…………ここだな」
 ぬるついた箇所を畳み掛けるように指で捏ねると、さらにびくびくと李功の太股が痙攣した。
 執拗な愛撫に立っていられなくなったのか、右腕がこちらの脇に回る。
 縋るような媚態に脳髄をぞくぞくと痺れさせながら、飽くまで平静を装った。
「拡げるぞ…?」
 内股を伝って流れ出した分については夜の間に拭いとってしまったが、微量の残滓がいまだに李功の直腸に居座っていることを確認し、反対側を押すよう促した。
 ここに自身の指が二本入っていれば同時にその隙間を押し開くことが可能なのだが、残念ながら自分と李功の一本ずつしかない。
 どんな共同作業だよ、と相手の心の声が聞こえてきたが、無視して顎でしゃくり、重ねて命じる。
 わずかに顔を背けながら、李功は言われた通り自身の指でそこを広げた。

 事が終わり抜き出す前、向こうが要らないと言うのも聞かずに、内にある李功の性感帯のひとつを教えてやった。
 ここを弄れば好くなる、と。
 大きなお世話であることは明らかだったが、自慰の時に後ろを使うなら知っていた方が何かと都合がいいだろう。
 どんな親切なんだよ、と李功はあからさまに声を荒げたが、おれのことを考えながらしてほしいからだ、と気真面目に返答すると、諦めたように瞑目して天を仰いだ。
 それを肯定と受け取り、いつも欲しがるところを繰り返し突いてやる。
 ゆっくり、撫でるように。
 次いで、激しくぐりぐりと押しつけるようにして刺激する。
 李功の下半身が揺れ、前が明確な形を持って持ち上がってくる様子を視界に収めながら、押し留めていた自らの呼気を盛大にならない程度の遠慮を伴って吐き出した。
「………好いだろ…?…」
 李功、と赤く染まった耳元で囁くと、目を瞑ったまま、ああ、と短く応答が返った。
 粘膜の筒の中でともに濡れている李功の指を再度導き、動きを倣わせ、数度。
 動かした瞬間、唇を噛みしめ、前傾した。
 床の上に倒れ込んでしまわないよう、引き締まった腹部に腕を回してさらに支える。
 背後で密着した背骨に覚えのあるものの硬直を感じ、正体を悟ったのだろう。
 趙(しょう)、と、音にはしなかったが、流し眼とともにこちらの顔を見上げてくる。
 その普段とは似ても似つかないような純朴とも思える仕草を見て、堪え切れず笑い出してしまえば、もう出て行けよ、と弱音を吐いた。
 そんな心にもないことを言うな、と相貌の下半分を歪ませて応える。
 今のおれは白華の師範失格だな、という自嘲を込めて。
「……二人でやれば、もっと効率がいいぜ……?」
 単独で事後処理を行うよりも、一緒に励めば双方に利益があるだろう、と。
 尤もらしい口説き文句だったが、淫猥な響きが含まれているのは否定できない。
 だったら、早く、しろ、よ、と。
 素肌を紅潮させ、汗と水で乱れた前髪の李功が困ったように唇を突き出して訴えた。


 それから、現在に至る。

 最初のうちは半分までと決めて注挿を繰り返していたのだが。
 結局は李功に強請られ、根元まで。
 この方が奥まで洗えるだろう、と切れ切れに発された向こうの提案の正否の判断は別として。
 浴場に設えられていた腰かけに座り、前から李功の全身を抱き込むようにして繋がった。
 目線を真下へ落とせば、李功の丸い臀部の奥様で繋がっている雄の象徴を一望することができる。
 旨そうに太い幹からその付け根に至るまで、すっかり銜えこまれている光景は、卑猥という他はない。
 相手の膝裏に腕を差し込み、五体を掬い上げるようにして結合しているので、李功にとっては不安定だろうに体格の大きな差によって不思議と安定した。
 すっぽりと李功を抱き込んだ体勢で、首の後ろに相手から回された腕を感じ。
 目の前の体と密着し、敏感な部分をおかし、揺さぶり、心地好さを引き出すように腰を使い、抱く。
 深く穿ち、一方は受け入れながら、正面から互いのあからさまな表情が覗けるので、正に今、一分の隙もなく利害が一致しているのは疑う余地もない。
 時々両方の額を擦り合わせ、物欲しげな口をどちらからともなく塞ぎ合ったり、口腔から食み出す分厚い舌を舐め合ったり、絡め合ったり。

 そうして飽きもせず、当事者以外誰もいない室内で蜜月の続きを耽溺した。

 はずだった、のだが。


「おはようございます」

 洗濯物を取り込むために表へ出た途端だった。
 反射的にぎょっとして振り返った先には、ティッシュボックスを脇に抱えた、潰れ顔の男の師範。
 寝不足なのか、擦った目は白兎のように赤く腫れている。
 なんでここに知り合いがいるんだ、と怪訝に思う暇もなく、智光(ちこう)はなぜか慇懃に両手を合わせ、こちらに寝癖のついたこうべを垂れてきた。
 それもそのはず。
 続いた呼称は、思わず目を丸くしたまま顔面を茹で上がらせたくなるようなものだった。
 自身を前に礼儀正しく腰を折り。

「ペニスマスター(先生)」

 次に、後から扉を開けて出てきた李功に向きを変え。

「アヌスマスター」


 どっと、李功が地面に背中を付いて倒れ込んだのは言うまでもない。


(ずっと最後のシーンを書きたかったとは口が裂けても言えません)

*◆、その告白

R18
 堪え切れずに漏れてしまうのだろう。
 すすり泣きを続ける体に、容赦なく引き締まった下腹を打ちつける。
 頭の中にまるでセックスシンボルそのものしか存在しなくなってしまったかのように、李功の内側の襞に擦り続けるように水音を伴った摩擦を繰り返す。
 李功の口から恥や外聞もなく、大きい、とか、激しい、とか。
 刺激に翻弄されながらの形容が断続的に吐かれる。
 神経が少しでもまともな時分であれば、妓楼の娼婦のような発言をしていると言ってからかえたかもしれないが、相手の脳裏が自身と同様、性交の一点に占有されているのだとしたら咎めることはできない。
 後ろから覆いかぶさり、枕に李功を突っ伏させ、事に及んでいる様は、見る者が見ればけだもののまぐわいだ。
 角度を見極め、最短距離で李功の奥まで届くように腰を使う。
 大きな雁首がそこへ到達する都度、あ、とか、う、とか、音にすればぎこちないのに、鼻の裏から無理矢理引き出されるような高音が、面白いように李功から零れた。
 がんがんと叩きつけ、時折奥地でこねるように技を使えば、折れ曲がった体の真ん中で隠れた李功自身が陰嚢もろとも緊張したようにびくびくと痙攣して涙をこぼす。
 互いに出すのを我慢しながらの中心と後ろを使った交合は、飽きることなく続けられた。


 不意に、思いついたように背の高い上体を屈ませ、李功の耳裏に唇を近づけた。
 自分でも笑いたくなってしまうほどあからさまな獣の呼吸音に混ざって、意思とは真っ向から対立する言葉を囁く。
 懸命に堪えながら乱暴とも思える時間を過ごしているというのに、不敵な宣告を聞いた時のように、びくりとその全身が振れた。
 あ、、うぁ、、、と、李功が舌足らずな嗚咽を漏らす。
 いつの間にかその頬が濡れているのは汗の所為だけではないのだろう。
 だめだ、と、わななく唇は制止の詞を発したが、李功の内部は本人の希望と反するように急速に熱を帯びて行く。
 本当は、待っているんじゃないのか、と内心でみだらに嘲笑いたくもなったが、もう一度、だめだ、と途切れ途切れに李功が懇願した。
 駄目じゃない、と答えると、あんまりな仕打ちに心を傷つけられでもしたのか、ぎゅっと相手は瞑目した。
 瞼の上に浮かんでいた水滴が大粒となって、色づいたなだらかな頬を過ぎ、尖った顎を伝ってシーツに落ちた。
 その間も止むことのない律動に胴はおろか全体をおかされ、入れ墨を施した背から続く尻を後方へ突きだした体勢のまま、背後を首だけで振り返り、やはり、だめだ、と。
 哀願するように名前を幾度も呼んでくる。
 些かの憐憫の情すら湧いてくるかと思われたが、肉体はまったく違うことを欲していた。
 駄目じゃない、と再度発する。
「……………駄目だ、……っ……趙(しょう)……」
 返答をせず、李功の体を挟むように両腕を寝台の上に付く。
 逞しく鍛え上げられたおのれの背筋を存分に使い、小刻みな注挿に専念する。
 動きながらさらに屈み、李功の頭上に口元を寄せる。
 艶のある真っ直ぐな黒髪に直接口づけるようにして声を発した。
「…………出すぞ、李功」
 もはや応答できるだけの余裕すらなく、李功の体温が内から徐々に高まっていく。
 受け入れるための準備を無意識のうちに細胞が覚え、男根の先端からほとばしる射精に備えて肉厚な臀部に高さが加わった。
 最も深い位置に達せられるような高度まで。
「………………」
 普段の李功と同じで学習能力が高いな、とセックスに没頭する相手とその生殖欲を認め、自らも突き上げてくる性の衝動に意識を委ねた。
 李功の噎ぶような鳴き声が届く。
 耳に、鼓膜に、もっと体奥に。
 噴き出し、肉壁目掛けてぶつけられる奔流を受け止め、うめきながら雄の象徴を根元から絞り上げる。
 しっかりと中に『証』を残せるよう。
 欲しかったものを、熱望したシンボルから最後の一滴まで絞り取り終えると、李功の黒い頭ががくんと枕の上に落ちた。


 はあ、と、嘆息のような息を吐き、上気した頬を隠そうともせずに長い睫毛をゆっくりと瞬かせる。
 四肢はおろか爪の先まで恍惚としているように映るのは、恐らく錯覚ではないのだろう。
 脱力感を隅々まで感じているだろうに、こちらを茫然と見つめてはおのれの口端やおとがいや、のどや胸に指先を這わせる。
 自分の体を撫でる癖でもあるのかと勘繰りたくなったが、本当にこの五体が自身の持ち物であったのかどうかを確認しているようでもあった。
 感想を吐くまでもなく、快かったと主張しているようでもある。
「……………………」
 さらにもう一回、深いため息を吐くと、李功は隣で横たわるこちらの腕の間にのろのろと身を割り込ませてきた。
「……………………」
 無言で受け止め、顔を覗き込むようにして黒い頭に自身の鼻先を埋める。
 慣れた仕草でしっとりとした頭髪を梳いた。
 一筋、二筋。
 なすがままにされながら、厚い筋肉に覆われた胸部に『竜』の文字を押しつけてきた。
 李功の側から、あからさまに甘えてくる素振りを見せるのは珍しい。
 両腕を背中に回し、ぎゅ、と相手から抱きしめられる。
 心地好いのでそのままにさせ、李功の髪を愛撫した。
 なあ、と、下から声がする。
 ん?、と片言で問う。
 おまえはもう、越えてるんだからな、と低い囁きは続いた。
 何のことを指して言っているのかすぐには思い浮かばず、梳いていた頭部を後ろから持ち上げ、顔を上げさせた。
「いつだったか、劉宝(りゅうほう)に妬いてるって言ってたけどよ………」
 ほのかなふくらみが初々しい口唇が開く。
 おれには、おまえに代わる奴も。
「…………それ以上の奴もいねえんだぜ……?」
「…………………………」
 だから、嫉妬する必要はもうないのだと。
 礼なのか、肯定なのか、それとも否定なのか。
 この場に相応の言葉が出て来ず、ただじっとその面を見つめることしかできなかった。
 穏やかな沈黙の後、さすがに気恥かしくなったのか、李功はうつむくようにして顔を胸筋の隙間に隠した。

 少しだけ眠った後、目を覚まし、李功と再び繋がった。
 喉が渇いたと言って水を飲みに行った姿をそのまま後ろから押さえ、そこに。
 台所で立ったまま挑まれ、地面から李功の足が離れる。
 縁に腕を付いて李功に上体を支えさせると、腰を抱え上げ、滑りの良くなった箇所を何度も昂ったもので擦りあげた。
 衰えるどころか、中に出してから向こうの感度が倍に増していることを実感する。
 苦笑しつつ、猛る欲望の望むままに白い首筋に唇を這わせながら、文字通りのセックスを繰り返した。

実は持ててます(?)

ファイル 2905-1.gif

西派にはもちろんバレンタインデーの習慣はないと思いますが
李功には是非ともちょこを送ってもらいたかったりです。

そして何げに白華の女性の門弟たちから支持を集めているらしい
趙でした。

*◆、その抑制なき欲望

R18
「な…ッ……!?」
 驚いたのはもちろん李功の方だった。
 手に持っていたタオルを弾みで落としかけ、慌てて持ち直そうとした隙を突いて壁際へ体ごと押し付ける。
 絶妙の手加減で痛みを感じさせないように、壁と自身の体の隙間に李功を閉じ込めた。
「趙(しょう)……?」
 高い位置から至近距離で見下ろされた黒い双眸はどこか濡れたように揺らめいた。
「…………」
 一言を発するのも難解だと思ったのは一瞬で、すぐさま理性に切り替える。
 先刻の動きは衝動に突き動かされた結果だが、おのれの暴走しかける意識を制御できないほど未熟ではない。
 こうした場合に於いては自制など早々に捨て去ってしまえばいいのかもしれなかったが、それでは獣の行動と変わらない。
 肉欲だけで相手に接することが叶うのなら、そもそも親友に手を出そうと考える人間はただの卑怯者だと断言できる。
「…………李功、」
 辛うじて平静を保ちつつ、やっとのことで声を出す。
 李功を凝視しながら、笑うべきなのか、困惑すべきなのか、それとも慄くべきなのか。
 選択肢すらあやふやでおぼろげではあったが、表情を取り繕えるだけの余裕は今の時点ではなかった。
「………おれと、…………」
 心中で深く息を吸い込む。

 朝まで。

 一語一語に動揺しそうになる自身を懸命に奮い立たせ、喉から音を絞り出した。
「過ごしてくれるか……?…………」

 まだ馴染むほどの回数の朝を迎えたわけではない寝室に、二人分の忙しない呼吸音が響く。
 たったひとつだけの灯り取り用の大きな飾り窓は閉じられ、暗くなり始めた外の気配など気にも留めず。
 完全な密室で互いの発する少ない息を夢中で奪い合う。
 李功の無言の肯定を認めた後、間髪を入れずにその肢体を両腕で掬い上げた。
 李功に防がれる前に抱き上げ、大股に居間を横切った。

 相手が、おそらく見間違いなどではなく、確かにこうすることを待っていてくれたのなら。
 自分と同じように、この先、あと数分もしないうちに訪れるだろう情景を期待してくれていたのだとしたら。
 あの黒龍の敷地内で、わずかな緊張を隠しながら、来ないか、来てほしいと。
 家へ誘った瞬間から、李功が自身を体ごと待っていてくれたのだ知っていたら。
 もっと早くにその全身を抱きしめて、ここに閉じ込めていたというのに。


「……っ…、…っ、……」
 鼻から抜ける甘い吐息を籠った音として捉えながら、噛みつくように接吻を繰り返す。
 口を離しては角度を変えて塞ぎ、李功の首裏を押さえるように長い指を添える。
 やがて距離を取るいとますら惜しむように、向こうの舌が追って来た。
 倍はあるだろう大きな体躯にしがみつき、熱烈に求めてくる。
 本当に欲しがっているのだということは、李功の積極的な態度からも明白だ。
 普段はこちらの好きにさせてくれるが、男としての性ゆえか、能動的な行為を選ぶことも少なくない。
 首を仰け反らせて貪る李功の好きなように口舌を吸わせながら、背筋を通って尻の付け根まで背後に回した指を下ろす。
 名を呼び、口角に音を立てて口付けた。
「………先に、つながりたいんだが」
 肌の上を愛撫する前戯を省略して、一刻も早くその奥を満たしたかった。
 鼻先を突きつけ、真正面から目線を捉える。
 プレッシャーを感じさせる算段はなかったが、相手は綺麗な二重の瞼を半ばまで下ろした。
 おまえの訊き方は。
 わずかに歪んだ下唇をぺろりと舐める。
「……おれの是非を窺うためのものじゃなくて、断定、だよな…………?」
 親切心から意向を尋ねるのではなく、有無を言わせないための確認だと。
 けれど、そんな強引なところも嫌いじゃないんだろう。
 元々李功は他人に主導権を握られることを苦だと感じることが少ない。
 すべてを委ね、道を譲っているわけではなく、かつての師であったあの男に無条件で付き従っていたように、信頼できる者には最大限におのれを活用してもらおうと考えてでもいるかのような。
 依存とはまったく別個である李功独特の親愛の情が、深くて熱いものだと実感する。
「…だったら、金輪際訊かない方がいいか?」
 李功がそうしてほしいのならするぜ、と。
 挑発するように、しかし真摯な面持ちで、見つめてくる眼差しを真っ直ぐに射抜くと、訊けよ、と李功は渋々本音を吐いた。

「…………おれに、おまえを、…確認、させろ」

 唾液で濡らした指を李功の後ろに宛がい、湿らせるように数回円を描いて窪みに爪先を押し当てる。
 小さな抵抗を受けながらも押し入り、出入り口を締める括約筋を解すように中でぐるりと動かしてかき混ぜた。
 李功から詰めたような呼気が届いたが、構わずに前を扱きながら後ろで出し入れを反復する。
 李功は自らがされるようにこちらの下腹部も触りたがったが、直接的な刺激よりも視覚と感覚から得られる今の状況の方がはるかに効果的だ。
 潤滑油を施してもいないのに柔らかく解けている内部の熱量と感触が、これから入るだろう自身の雄に遺憾無い早さで血流を集めている。
 徐々に勃ち上がり、太い血管が表面に浮き上がっているのが良い証拠だ。
 それを見越して早々と下穿きを脱いだのは正解だったようだ。
 李功の腰布を乱暴にならない程度のタイミングで引き抜き、股間をまさぐっている間に、手早く脱衣してしまったのだが、想像していた以上に奥底から湧き起こる昂りに急かされているのだと自覚する材料としては充分過ぎるほどだった。
 李功、と名を呼ぶ。
 発する側も、答える側も、浮かされるように声音は掠れている。
「…………自分で、やってたのか…?」
 ぎしり、と寝台を軋ませて上体を屈める。
 自室で及ぶ自慰のさなか、その手で後ろも慰めていたんじゃないかと。
 冷静な頭では決して訊けないだろうことも、熱い時間の中に一歩足を踏み入れてしまえば意外なほどに容易い。
 卑猥なことを舌に乗せて、相手にもしゃべらせようとしている。
 汗の粒が連なり、米神を伝って覗きこんだ先の肌の上に雫となって降った。
「……………は、っ……」
 今も尻の奥を太い節でぐるぐると蹂躙されたまま、はあ、と熱っぽいため息を吐く。
 否定も肯定も返らなかったが、入口に力が加わり、引き絞られる。
「………………………」
 そのまま腰を揺らして、自らのその行為だけで李功は前から透明な汁をこぼした。
 思わず苦笑が漏れ、相手の耳朶に吸いつくようにさらに身を屈めて李功の孔に息を吹き込んだ。
 意味を解したからか、びくり、と全身が縦に振れる。
 言わせてやる、と。
 宣戦布告にも似た揶揄を受け止め、好いのか辛いのか、李功が微妙な顔つきになった。
 肩を揺らして笑い出したくなったが、敢えて留め、指で李功の好きな部分を数度ノックすると、意を決してそこから引き抜いた。
 過度の負担から解放されたかのように、白い太股の強張りが解ける。
 片側だけそこを撫でてから、放置していた李功の中心を片手で握った。
 ゆるく、強く、裏筋を親指でなぞるように扱き上げると、簡単にいくつもの露を鈴口に作る。
 同じ男特有のにおいを放ちながら目に見えて高まっていく李功の快感におのれの欲望を添わせ、二本同時に握り込んだ。
「っ……」
 詰めた息や動きがどくりと、音を立てたように直接雄の象徴に伝わってくる。
 下部を動かしながら手を上下させ、互いの先走りに塗れてぬるついた男根を離した。
 相手の両脚の付け根を掴み、開きながら下肢を寄せる。
 挿入の瞬間をしっかりと目に焼き付けるために、李功の上へ殊更ゆっくりと身を傾けて行く。
 上は視覚を。
 下は触覚を。
 沈み込んで行く深度に従ってせり上がっていく上半身を縫いとめるように胴体の一番細い部分を片腕で抱き込むと、丁度喉仏の真下に李功の細いおとがいが来た。
 腰、重くなる、とうわごとのような、事態への客観的なのか主観的なのかわからない感想が聞こえる。
 これからもっと重くなるだろうな、と嫌みではない本心を上空から告げる。
 負荷を与える意図などなく、細心の配慮を払うことを怠らなかったとしても、結局は李功をなかからくたくたにしてしまう事実は変わらない。
 鉄ではない、びくびくと脈打つ体温よりも高い温度の肉の塊を受け入れ、瞬く間に李功の肌の至る所に汗が浮かび上がった。
 少し揺すっただけで弾け、滑らかな流線を描いて散じていく。
 李功の真っ白な額に宿る『竜』の一文字すら淫靡に光らせ。

 あ、、、あ、、と。
 喘ぎを紡ぐ音の間断が短くなる。
 その数を数えられなくなるほど、自身が持つべき自制心の箍が外れ始めていることを遠い場所で知覚しながら、ただ無心で李功の敏感な部分を穿ち、二つに折った体を揺さぶり続けた。

 あと数回突けば耐えられなくなる。
 李功が後ろを攻められながら放つ間際を見極め、最も深い場所で激しかった律動をぴたりと止める。
 心臓がばくばくと破裂寸前の鼓動をかき鳴らす様を鼓膜の奥で捉え。
 鼻から深く酸素を取り込み、口腔から吐き出す。
 その間もずっと李功のほのかに色づいた姿態を視界に留めたまま。

 絶頂を迎える寸前で止められたというのに、軽く達してしまったかのように溶けたような表情の溜息を漏らし、ゆるく何回かに分けて下腹を揺らす。
 趙、と。
 繰り返される呼び声に惹かれ、相手の腹から胸に節の目立つ手指を這わせ、撫で、潰し。
 再びその上で動き始めた。

 李功の喘ぎも嬌声も、極まって零れる制止の音も。
 快楽を押し留める枷にもなりはしなかった。


(長くなったらすみません)

◆、その声なき声

 ようやく女性特有ともいえる長話から李功ともども解放されるかと思われた矢先、白華の村に住む農夫の一人が胸を押さえて倒れてしまったとの急報を受け、梁(りょう)とともにそこへ向かうことになった。
 最近具合がよくはないらしいことを身内の人間から耳にしていたので気になってはいたのだが、意識が朦朧としているのだと聞けば、事は一刻を争うかもしれない。
 村人たちと懇意である蓮苞(れんほう)も同行する意思を示したが、幼い空総(くうそう)の世話があったので、夫と自分に任せて続報を待つことにしたようだ。
 急に慌ただしくなった場の空気に急かされるように、今日白華に到着したばかりのヘレンも手伝えることはないかと尋ねてきた。
 ひとます蓮苞と待っていてくれと言い置いて、振り返った先の李功の元へ足早に近づいた。
 傾いた陽光が李功を横から照らし、濃い影を作る。
「すまん。急用が入った」
「………………」
 李功は返事をしなかったが、大方は予想していたのだろう。
「…いつ治療が終わるかわからないから、おまえはこのまま帰れ」
 約束を反故にすることになったのは非常に不本意だったのだが、この埋め合わせは必ずする、と目の前で誓う。
「明日、黒龍に顔を出すから……」
「…その必要はねえよ」
 きゅっと唇を引き結び、李功はこちらを見上げてきた。
「早く行けよ。…おまえの力を宛てにしてる奴らがいるんだろ?」

 夜になる前に容体が落ち着いたのは幸いだった。
 幸運にも倒れた農夫が息を吹き返したので、念のために気を送って安定したことを確認したが。
 万が一何かあった時は連絡を寄越すよう指示をしたので、今日はこのまま休んでも差し支えないだろう。
 男の家族やまだ幼い兄弟たちが安堵した顔を見た時は、慣れたことではあったが自身もほっとしたものだ。
 何度も頭を下げ、夫を助けてくれた礼を繰り返していたが。
 どうしても気持ちが晴れないのは、やはり李功を黒龍の里に帰してしまったことが原因なのだろう。
 李功を誘ったのは今日初めて思いついたからではなく、数日前から計画していたことだ。
 引っ越してから今まで、他人を招待できるだけの充分な準備を整え、食事を振舞えるように二人分の食器も用意したのは紛れもなく今日の日のためだ。
 本来であれば、今頃は自らの家に招き、二人きりで会話を楽しんでいたはずだったのだが。
「…………」
 戸口の前に腰かけている影を見つけ、思わず立ち止った。
 場所は教えていないはずだが、噂を聞きつけたのだろうか。
 村の端を意味する長い塀に近い一角。
 他の家々と何ら変わることのない素朴な一軒家。
 花や緑などの飾りもない、質素で簡素な佇まい。

 そこで待っていたのは。

 李功は持ち上げた両腕を後頭部で組んだまま、本来の家の主であるこちらを一瞥した。

 李功、と。
 驚きながらもその名を口にする。
 重力を感じさせない動作で地面から立ち上がり、上げていた腕を両脇へ下す。
 李功は、よお、と、普段のように声をかけてきた。

「どうして、帰らなかったんだ……?」
 いつ戻れるかも定かではなかったからこそ帰宅するよう促したのだが。
 ゆったりとした動きで前に立った姿を驚きながら見下ろす。
 すると李功は皮肉な笑みを口元に履いた。
「そんなにおれを厄介払いしたいのかよ」
 心にもないことを言い、反応を窺っているのだろう。
 じっとその相貌を凝視していると、日が沈み切る前には戻るつもりでいたけどよ、と言葉が続いた。
「……おまえを待つっていう状況も、たまにはいいかなと思ったんだ」
 これから先もなさそうだしな。
 確かに李功の言うとおり、互いが相手の役割が終わるまでを待つ機会などあるはずがないだろう。
 生活している土地が違うのだから、重なり合う時もおのずと少なくなってしまうからだ。
 一方が一方の帰還を待つなどというのは自分たちにとってまさしく特別で、有り得るはずのない特殊な状況だ。
 普通の男女の夫婦であれば、誰に憚ることもなくこうして伴侶の帰宅を心待ちにし、夫ないし妻の無事の帰りを喜んで迎えることもあるのだろう。
 現実味を帯びた未来の姿としては到底思い描けない光景であることは確かめるべくもない。
 夫婦になれるはずのない自分たちにできることは、ただ再会するたびに李功を抱き、その奥で繋がり、ともに高まり、果てるだけだ。


「……入れてくれねえのかよ?」
「……………え、」
 今さっきまで回想していたことと形容が重なり、面食らったように瞬きをする。
 何を想像していたのかまでは考えが及ばなかったのか、それでも怪訝そうな表情を浮かべ、李功が戸口を顎でしゃくる。
 家の中に招待してくれるのではないのかと訊いてきたのだとやっとのことで合点し、施錠していたドアを引いて開いた。
「遅くなって悪かった」
「気にすんなって」
 戸口を潜り、晴れて念願だった李功を自宅に招き入れることができた。

 まるで動物が自身の縄張りを確認するかのように、少ないとはいえ一通り部屋を覗きまわって満足したのだろう。
 李功は台所兼居間に戻って来ると平坦な声で感想を漏らした。
「おまえが住むなら、もう少し広くても良かったんじゃねえのか?」
「…贅沢言うな。身の丈には合っているんだから、おれはこれ以上は望まない」
 大きな家を買ったら買ったで、早速妻子を迎え入れるつもりなのではないかと周囲に要らぬ憶測をさせてしまうだけだ。
 異国にいるという親兄弟と同居するわけではないのだから、手狭な方が身分相応だ。
 そちらとて裕福な暮らしはしていないはずなのに、どこか抜けているな、と思った。
 そういえばいつか話してくれた昔話の中で、李功と実兄の劉宝(りゅうほう)は黒龍拳に入門する以前は掘立小屋のようなところで隠れて住んでいたと言っていた。
 孤児として生きてきたのであれば、一般的な家庭というものは想像しづらかったのだろう。
 独身には相応だという説明を受けて、李功も納得したらしい。
 浮世離れしているわけではないのに、相手と話していると時々常識というものを疑いたくなる時がある。
 本当に黒龍は白華とは違い、修行一筋の門派なのだなと実感する。

 外から戻って来たので、埃を取るために顔や手や体を拭うよう促す。
 水を絞ったタオルを受け取り、少し離れた場所で李功は上着の留め具を外し始めた。
 しっかりと隙間なく鍛えられた胸と腹部の隆起が露になる。
 健康的に日に焼けた自分の肌よりも透き通るような白さを李功の肌膚は持っている。
 常に外気に晒されている二の腕は若干焼けているが、それでも紅顔の美少年さながらの艶がある。
 黒髪の持ち主であれば皆が羨むだろうほどに癖のない真っ直ぐな頭髪が、それと対比するかのように一層鮮やかに浮き上がる。
 整った筋骨に覆われた均整のとれた肢体。
 頭身を数えればこちらの方が腰から下の長さがあったが、李功の場合は半々に近く、かといって足が短いわけではない。
 むしろ自分にとっては理想的な後ろ姿だ。
 引き締まった腰から存外厚みのある臀部までの線が、まるで異性が持つくびれのような曲線を描いている。
 腿にもしっかりと肉が付き、女のそれでないことは明らかであってもだ。
 正面からの顔も、勿論横顔も好もしいとは思うのだが、もしかしたら自身が一番気に入っていたのは李功の後ろ頭から続く後背なのではないかと思い当たる。
 ――そうだったのか、と。
 後ろ姿フェチなどという妙な趣味を持っていたのかと改めて自覚し、ちょっとどころではない衝撃を受ける。
 それでも李功から目が離せず、腕を通って自らの脇を拭きながら、暫くの間、親友の肉体を鑑賞し続けてしまった。
 そのことに気づいたのは、相手の頬にいつの間にか朱が差していることをようやく察してからだ。
「…………………」
 じろ、と顰められた双眸がこちらを射抜く。
 射殺すような強さはないが、決まり悪げな心情を表わしたような顔つきだ。
 どうせ文句を言われるのだろうと覚悟していたのだが、そのままそっぽを向くように元の位置へと戻る。
「…………………」
 違和感を覚えたのは、間の抜けた話、今になってだ。

 まさか、と、一抹の思いが過る。

 李功は白華の里に入る前。
 いや、黒龍を出る前からだったろうか。
 どこか浮足立つような印象だったことを思い返す。
 それは二人で同じ時間を共有しているためだと安易に考えていたが、その間に突然第三者が入って来てからもずっと機嫌を損ねることがなかった。
 自分たちの間柄など露ほども疑わないヘレンがその腕に胸を押し当て、うっとりと見つめてくる間も。
 その場から離れてしまえばすぐにその異郷独特の過度のスキンシップから逃れることができたはずなのに、気を荒立てることなくなすがままにさせていた。
 生来機転が利き、聡いはずの李功が、暢気にターちゃんやペドロの家庭に平凡な感想を漏らしていたことも。
 あからさまな笑顔ではなかったが、梁と智光(ちこう)のやり取りを眺めながら終始口元に笑みを宿していたことも。
 唯一異なっていたのは、急用ができたと知ったその瞬間だけだ。
 表面には出さなかったが、どこか諦めたような、明確な失望ではない静けさを持っていた。
 不平不満を口にせず、親しい友として相応しい言葉をこちらに投げかけ、送り出してくれた。
 だがそれまでの、不機嫌な様などどこにも見当たらなかった、もっと根本にあった理由は、つまり。

 不意に湧きあがって来る感情に押されるように、がばりと李功を振り返った。

◆、その新たな仲間

「…他でもないターちゃんとヂェーンさんからの紹介だから、うちで引き受けるにしたってよ」
 親交のある夫婦からの紹介状を読み終えたのだろう。
 ヘレンなる女性が携えてきたであろう手紙を畳みながら、少し離れた位置で男は静かに口を開いた。

「白華拳の村で暮らすにしても、こっちには扶養家族を養えるほどの余裕はないぜ?」
 そこのところはわかってんのか?、と継ぐ。
 ジャングルのように、森を歩けば果実の生る木と遭遇できるような恵まれた環境でもない。
 自給自足を生業としている白華自体も、そして村そのものも、とてもではないが裕福な暮らしをしているとは言い難かった。
「その点なら心配ないですよ」
 さすがは個性あるキャラクターたちの間で鍛えられただけはあるのか、ヘレンはにこやかに笑った。
 どうやら彼女は十歳まで母親の出身地である極東の田舎で暮らしていた経験があるようだ。
 ジャングルに移り住んでからも辺境の生活にすぐに馴染み、ターちゃんたちともあっという間に仲良くなったらしい。
 元々差別意識などなくきさくに接してくれる人たちなので、邪な念さえ持たなければ親しくなれるだろうとは思うのだが。
 菜食主義のターちゃんたちに稲作を教えたのも、そもそもは自分だと胸を張る。
「六月に卒業した大学は工学部だったから、機械の知識も任せてください」
 こう見えて、体力にも自信があるんですよ、と片腕を持ち上げて力瘤を作って見せる。
 どんな環境にも馴染んでみせると言い切る姿は、やはり以前会った時とは少々印象が違っているようだ。
「寝泊まりするところはどうするんだ?」
「アルバイトで貯めたお金があるから、しばらくはこの村の宿屋でお世話になるつもりですけど…」
 いつか使う時のために地道におこづかいを貯めたんですよと、はにかみながら後頭部をかく。
 当分はボランティアのような形でこの土地に貢献しようと考えているのだろう。
「だったら、しようがねえな」
 梁(りょう)は嘆息したようだ。
「飯くらいなら食わせてやるよ。…腰が落ち着くまでは、おれたち夫婦で面倒看てやる」
「うれしい!ありがとう、梁師範!!!」
 飛び上がって喜んだ拍子に、男の片腕にしがみつく。
 出産を終えたとはいえ念願が叶って結婚した愛妻よりも豊満な胸の感触に、一瞬梁の相好が崩れかけたが、ぎろりと傍らから蓮苞(れんほう)に睨まれたようだ。
 すぐさま気を取り直し、咳払いをひとつした。
「……で、智光(ちこう)。おめえの方はどーすんだ?」
 いきなり帰って来やがるから、おまえ用の部屋なんか用意してねーぞ、と断言する。
 師匠である梁の命令でジャングルでターちゃんたちの手助けをしに行ったはずなのに、勝手に帰って来ること自体がおかしな話だったのだが、その辺の配慮についても遠いジャングルからの手紙に記されていたのだろう。
 確かに男の言うとおり、自分のかつての私房も他の高弟が使うことになったはずだ。
「僕もヘレンさんと同じ宿に泊まります」
「…………………………………………………………………」
 恰好よく決めたつもりなのだろうが、きっぱりと言い放った一言に、李功と空総(くうそう)を除いた周囲の空気がやけにひんやりとしたようだ。
「……泊めさせるわけがねえだろ………」
「な、なんでですか!!!!」
 汗を振りまき、慌てて男に縋りつく。
「理由はおめえの胸に聞けってんだよ。……白華に帰って来たからにゃ、おまえも趙(しょう)を見習っててめえの家でも持ったらどうだ?」
 どうせ金はしこたま貯めてあるんだろうが、と毒突く。
 それを聞いて智光が、ぐ、と返答に詰まったのは、図星であったからだろう。
 何に使うかもわからねえ金を、せっせと貯め込んでたのは知ってんだぞ、と詰め寄られ、瞑目しながら渋々観念したようだ。
 これ以上師である男から聞くに堪えない自らの醜聞を聞かされたくなかったからだろう。
 白華で師範になる前からせっせと小金を貯めていたのは、この土地では手に入れることがさらに難しいであろう海外で流通する無修正の写真集を個人輸入するためだったとか、そんな雑念が頭に入って来る。
 知りたくはないことまで知ってしまうのは、こうした能力に長じてしまった者の宿命だろう。
 蓮苞はさらにもっと深いものまで具体的に見えてしまうため、彼女と顔を合わせ、苦笑せざるを得なかった。
「……………わかりました。……では、住める家を探してきます」
 しおらしくなり、若干というか、かなりの後悔を滲ませつつ、智光は師の命を承諾すると背中を丸めながらとぼとぼと村へ向かって歩き出した。
「そう簡単に住む家なんか見つかんのか?」
 事情を知らないとはいえ、さすがにほんの少し気の毒に思ったのだろう李功が、空総を胸に抱いたまましかめっ面で問うてくる。
「心配ないさ」
 無責任だと捉えられたかもしれないが、ああ見えて智光なる師範が交渉術に長けていることを説明する。
 修行にばかり打ち込んでいる門弟などが本来不得手とする会話術を得意としているというか、要するに口八丁手八丁にやたらと抜きん出ている。
 もしかしたら拳士などよりもどこかのテレビ番組のプロデューサーなどの役柄が相応だったのかもしれない。
 頭の回転も早く、収集癖が幸いして探究欲が強い分、発想も非常に柔軟性に富んでいる。
 実行力もそれに付随するのだが、気の優しさゆえか、勇気や決断力が必要になる部分では一見頼りなく思われてしまうのだろう。
 だが当人が白華が誇る随一の内養功の術の達人であることは誰の目を通しても明らかであり、実は薬学の知識にも精通していることを買われてそれらの管理を任されている事実は身内でもあまり知られていない。
 生来の性欲の強さと、品性下劣と思しき悪癖がわざわいして同門や若者からは支持されることが少ないが、治療のエキスパートであるため、村人の中でも特に年長の人々からは人気があった。
 普段はふざけた調子でいることが多いと思われがちだが、地は自身よりも生真面目な性質で尚且つ繊細であるが、いざとなれば頼り甲斐のある信頼できる人物だ。
「……へー」
 人は見かけに依らないとでも感じたのだろう。
「さすがは、白華拳の師範だな」
 その時の李功の感嘆は、単純にそのままの意味だったのだろう。

 蓮苞の計らいで白華の大道師である彼女が家族と住んでいる家屋の一室で茶飲み話に花を咲かせている途中、李功の隣の席に腰かけたヘレンが頬を染めながら話題を持ちかけた。
「私のことはこのくらいにして、李功さんのことを聞いてもいいですか?」
「…………別に面白いことなんかねえよ」
「…………………」
 反対側で聞いていると、取り付く島もない言い方だと思わなくもない。
 好意を持って接してくる相手に対してその気がないと言葉でも態度でも示しているのだろうが、あるいはその本心をありのまま声に出しただけなのかもしれない。
 付き合いの長い自分などであれば全く構わないのだが、知らない者が聞けば失礼極まりない回答だ。
 とりあえず彼女の心中を察して、簡単にだが李功の立場を代弁することにした。
 それには西派拳法の系図も少し関わっていたが、部外者が聞いても難しくはないところを掻い摘んで話すと、頭の良い彼女はすぐに理解したようだ。
 最後には李功さんてすごい、と改めて感心するに至ったようだ。
「じゃあ、今は自分の門派を立て直すために努力してるんですね?」
「あー。…まだ時間はかかるだろうが、次の武道大会の開催時期を最初の目安にしてる」
 気の長い話だと思っているのだろう。
 李功は四年以上前に『一生をかけて白華に償う』と約束したことを今だに忘れず実行に移している。
 簡単なことではないはずなのだが、その姿勢には常に、道を違えないという自負があった。
 自信などという軽はずみなものではなく、人生を根本から変えてしまうような大きな出来事だったと認識しているためだろう。
 罪人としての贖罪などよりももっと、前を向いて突き進む決心のようなものが李功には内在している。
 それが人を引き付ける魅力にもなっているし、他人との大きな隔たりにもなっていることを本人は自覚しているのだろうか。
 そして、今もまた年頃の異性をさらに引き寄せてしまったことを。

 湯気の立つ茶器を持ち上げて口元に宛てる姿を真正面から捉えながら、ヘレンの鼻から深い息が陶然と漏れた。

読んじゃ駄目な心

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いつでも真剣勝負…!

…なのですが、一歩間違えると
いちゃついているだけ、という四年後・趙李でした。

◆、その招かざる客たち

 ごめんなさい、私ったら。
 ついはしゃいじゃって、と両方の頬を桜色に染めた妙齢の女性は李功の前でしおらしい態度を見せた。


 一瞬にしてそれが何者であるかを、記憶力の高い脳細胞が知覚する。
 抱きつかれた側の李功は束の間その綺麗な柳眉を寄せていたが、彼女が自ら名前を名乗ったところでようやく合点が行ったらしい。
「冬の大祝賀パーティ以来ですね」
 忘れられていたことに些かショックを受けながらも、にこやかに、そしてどこか照れたようにおずおずと笑いかけてくる。
 半年以上前に会った時にはもっと大人びた女性だと思っていたが、今の彼女はまるで少女のような天真爛漫さだ。
 どこが違うのか、瞬時にわかってしまったのは恨めしいほど聡い自身の性質が由来している。
 唇に施す紅の色が、娼婦のようなそれではなかったからだ。
 想像しなくても、白華を束ねる第二の実力者である最高師範の梁(りょう)に窘められたのだろうことは明白だった。
 華美な装飾や濃い化粧は、この土地では毒婦や淫売といった堕落した女の象徴だ。
 人目を引くどころか風当たりがきつくなることをつっけんどんな言葉で教えたのだろう。
 現にあれほど露出が激しかった服装も、襟のついた半袖のシャツと足首が見えるだけのパンツに履きかえられている。
 こうして見ると、年齢以上にあどけなく映る。
 唯一変わらないのは、頭の上で束ねた長い黒髪と、標的へのあからさまなアプローチだ。
「趙(しょう)…さん、でしたよね。ご無沙汰してました」
 ぺこりと向き直って礼儀正しくお辞儀をしてくる。
 まるで李功の若妻気取りのようだとの印象を覚えたのは、ただの錯覚だろうか。
 何とか波風が立たない程度の会釈に留めつつ、彼女の後方を窺うと、意外な人物と目が合った。
「智光(ちこう)師範」
 不機嫌なオーラを隠そうともせずに、毛穴の目立つ、縦にも横にも長い顔面積を持つ白華の師範は、自身と李功。
 二人の実力者を値踏みするように見比べた。


「ターちゃんとヂェーンさんに、こどもが生まれたのかー」
 赤ん坊を背負いながら奥さんとにこやかに笑い合う写真を食い入るように見つめながら、李功は思わず大きな声を上げてしまったようだ。
 髪の毛濃いな、とか、髪色はもしかして黒じゃなくて濃い茶色か?、などと、取るに足らない感想を漏らしている。
 両親が揃って茶色みかかった金髪なので面白いとでも思ったのだろう。
 遺伝的な観点からも、別に珍しくはないだろう、と横から茶茶を入れると、それもそうか、と素直な返事が返った。
 黒龍拳の総帥がそんなに無防備な姿を晒していいのか、と心中で注意を促したくなる思いを抑え、嘆息するだけに留めた。
 李功が親しい間柄の人間に対して表情が至極豊かであるのは今更確かめる必要はないほどの自明だったが、そうではない者が見ている手前、あまり朗らかに笑い続けてほしくはない。
 恋敵を見るように、ぎらぎらとした目つきで背の低い男に睨まれていることは気にならないらしい。
 これは一波乱。
 いや、それ以上あるだろうな、と否が上でも自覚せざるを得なかった。


「趙師範」
 案の定、李功よりも数センチほど低い位置からお呼びがかかった。
 ちょっと、と手招きで促され、仕方なく李功の側から離れる。
 本心を言えば、先ほどから笑顔を絶やさない、普段以上に柔和な雰囲気の親友からあまり目を離したくはなかったのだが。
「……何すか」
 一年半振りくらいだろうか。
 すっかり失念していたが、遠い彼の地へ赴任してからすっかりその存在を記憶の彼方に押しやっていたことを思い出す。
 一応年上ではあるが、自身の方が倍の長さを白華拳で暮らし、貢献した実績が山とある。
 どう贔屓目に見ても器量良しとは正反対の同僚を改めて見下ろすと、成長した、というより、一回り太ったのではないだろうかとの悪い印象が拭えない。
 常春ともいうべき土地で、修行らしい修行もせずに怠惰な生活を送っていたのだな、と思うと、西派の拳士の恥だと言ってしまいたくもなる。
 だがそれは男の師である梁(りょう)から口を酸っぱくして説教をされるべきであって、今ここで自身が諌めるのは出過ぎた真似なのだろう。
 智光は明らかに他者が同席しているにもかかわらず、聞こえないように配慮していることを明示するために、片方の指を揃えて口の横に当てながら声をひそめた。
「どうなってるんスか、そっちは……」
「………どっちのことすか」
 まともに取り合いたくないと、態度にも滲み出ているのも構わず、智光はどこか必死の体で答えを促してきた。
「『こっち』のことっスよ……!」
「……………………………………………………」
 智光がおのれの鼻先で指で輪を作り、人差し指と中指を揃えて前後に出し入れを繰り返す。
 同じ白華の師範とは思いたくないほど下品で卑猥な動作に、閉口を通り越して、汚物でも見るような目つきになってしまったのは致し方ない。
「僕がジャングルで日夜密猟者どもと激しい戦闘を繰り広げている間に、ヤッたんじゃなかったんスか…!」
 あいつと、と李功を顎で示し、スコスコ、と男女の交合を彷彿とさせるような男の腰使いを目撃したところで、ぶちり、と何かが切れた。
 殺気を瞬時に察し、ひいっ、と一瞬で眼下の智光が地面から飛び上がった。
 米神に青筋が浮かんでいるのが自身でもわかったが、同門の人間に暴力を振るうほど短絡的でもない。
 理性を保つべく、ふうーっ、と長い深呼吸をする。
 その前に智光の言った、『日夜敵と激しい闘いを繰り広げていた』のは大仰だろう、との胸中のツッコミも忘れない。
「……………それが、何か、……智光師範と関係あるんすか?……」
 自分と李功の仲の進展の度合いがそちらの動向に関与するものなのか、と。
 ひい、とまたしても小さな悲鳴を上げ、すっかり青ざめてしまった同僚を、質すように見下ろす。
 相手はもごもごと返答を濁したが、大きな瞳で睨みつけられ、覚悟を決めたようだ。
「…………あいつが、趙師範のモノになってないと、色々と困るんっスよ………!」
「…………………。」
 なるほど、と。
 その一言だけで、この状況のすべてを理解した。


 趙、と聞き馴染んだ声音に呼ばれ、踵を返すとそのまま呼んだ者の側に移動した。
 下劣な男の言動にいちいち付き合っていられないと思ったのも確かだが、李功の右腕にあろうことか二の腕を巻き付けて寄り添っている女の姿を目にしたからだ。
「どうした…?」
 仲の好い親友以上の間柄ではないと感じさせるような、何気ない口調で尋ねる。
「ペドロが結婚してたって、おまえは知ってたか?」
「いや……」
 ターちゃんの一番弟子である仏出身の青年が、野生動物を狙う密猟者たちへの対抗策として雇われていた元レンジャーの女性と新しい家庭を持ったことを教えてくれた。
 ペドロさんのところも、来年こどもが生まれるんですよ、と李功の真横から補足のような説明が届いた。
 だから彼女はここへやって来たんだな、と大体の見当をつけるには充分過ぎるほどの材料だった。

 十中八九、ヘレン野口と名乗る彼女は、お目当てだった周囲の男性たちが揃って家庭やこどもを持ってしまったため、その心の傷を癒すためにかつてターちゃん一家の一員だった梁の元へ身を寄せようと考えたのだろう。
 梁の息子の命を狙った刺客たちの一件にも関わっていたため、ここにいる人間とはそもそも面識がある。
 空総(くうそう)の誕生を祝う席でターちゃんの細君であるヂェーンの妨害に遭い、一度は李功を諦めたかに思えたが、周りにカップルしかいなくなったジャングルを離れ、今だフリーであるはずの李功に狙いを定めたのだろう。
 これで、予告もなく彼女が目の前に現れたことの辻褄が合う。
 そしてこれも単なる勘だが、なぜか彼女に懸想しているらしい智光を白華の里への案内役兼荷物持ちとして伴ったのだろうという予想はあながち外れてはいないだろう。
 単純に智光は、騎士さながらの護衛役のつもりで彼女の後を付いてきただけかもしれないが。

「……………」
 青天井を見上げ、鼻からため息を吐き出すと、不意に李功と目線が合った。
 おかしなところを見せてしまったかと反省し、口元に少しだけ微笑を浮かべると、すぐに視線は外された。
「……………?」
 建物から出てきた大道師の腕の中にいる赤ん坊がその原因だったのだろう。
 蓮苞(れんほう)に抱いてみるかと訊かれ、照れくさそうにしながら温かくてやわらかな対象をその胸に抱く。
 自然とヘレンなる者の腕が離れ、李功の剥き出しの素肌が自由になった。
 李功さんって、赤ちゃんが好きなのね、と、うっとりしながら、母になったことなどない彼女が呟く。
 赤ちゃんが好きで、こどもの扱いにも慣れている男性って理想的だと、脳裏の声が届く。
 知りたくもなかったが、事実そうなのだろう。
 李功は男が持ちたいと願うものすべてを備えている。


 こりゃ、ひと騒動ありそうだな、と。
 苦笑いを浮かべながら見守っている影が背後にもう一つあったことにも気づかなかった。

◆、その招かざる客

「これでいいか…?」
 新しい上着の内側に膨大な気の放出を抑えるための黄色の札を綺麗に縫い込み終えると同時に、折り目を整え丁寧に畳んで持ち主に手渡す。
 ああ、と答えた相手の顔に無心の笑みが宿っていることを認め、知らずこちらも笑顔になった。
 李功が素直に満足していることを知れば、余計な口を挟みたいとは思わないからだ。

「何か礼をしないとな」
 律義にこう付け加えてくれるのだから、相手との会話は退屈しない。
 だったら、と、数日前から思案していたことを打ち明ける。
「……おれの家に来ないか?」
 おまえの都合さえよければ、そのまま。
 続きを発するだけで、多少の緊張を舌が覚えたのは仕方のないことだった。

 そのまま、過ごさないか、と。

 明日が休息日であったので、仮に、李功に特別な予定がないのであれば。
 立て続けに驚くような内容を聞かされて、李功はやはりというか、案の定何度も瞬きを繰り返していた。

 随分昔からの話になるが、大分前から十七になったら白華拳の敷地内にある宿舎を出ようと考えていた。
 白華の村に実家を持たず、男で尚且つ独身者であれば修行の場で共同生活を選択することは珍しくない。
 数百人規模の門弟が犇めく白華ではそのすべてを収容できるような大規模な施設があるわけではなかったので、毎年空きが出ればその一室やベッドを巡って高倍率の抽選が行われた。
 逆に家族を持っている人間は、そこから通ったり、週に数日だけ妻子の元へ帰り、時間をともに過ごすことが慣例となっていたようだ。
 自身はまだ未婚の身だったが、幼い頃から養ってもらっていた白華からできるだけ早いうちに独立しようと計画をしていた。
 それは飽くまで単純な独立心から来るものであって、大恩のある白華拳という組織から逃げ出すための選択ではなかった。
 一人の男として自らの身を立てたいと願っていただけであることは、時に本当の姉弟のように接してくれた第七十五代目の大道師にも前以て打ち明けていた経緯もある。
 現に、白華から荷物をまとめ、前々から居住しようと考えていた建物に移る日も、蓮苞(れんほう)は手伝うことはないかと気遣いながらも最後には晴れやかな態度で夫や息子とともに見送ってくれた。
 一人前の拳士として成長した弟のような存在である自分がこれまで暮らしていた場所から旅立って行く姿を、どこか眩しそうに見つめていたのが印象的だった。

 一人暮らしの舞台となったのは、以前から交流のあった老夫婦が住んでいた一軒家。
 大きな村の中でも外へと続く門に程近く、隣は空き家になっているという、閑静な立地が住むのに適していると感じた。
 元々の住民は年齢のこともあって息子夫婦の元へ身を寄せてしまったので、もし良ければということで使わせてもらう機会を得ることができた。
 借家ではあるが住んでくれるだけでいいとの申し出を丁重に断り、毎月わずかだが金を払っている。
 職を持たない西派の拳士であっても、貯蓄することは可能だ。
 給金と呼ぶべきものではないが、修行中に何らかの収入を得ることはできる。
 農作業を手伝ったり治療を行った礼として、食料が手渡されることもあるし、それをさらに売り払って得られる金銭があった。
 それらは決して高額ではなかったが、小さな時分から将来を見越して少しずつ貯めてきた元手を使い、いつか自分の家を持とうと考えていた。
 もしこのまま住み続けて行くのなら、いずれは譲り受ける形になるだろうとの憶測もあるにはあったが、その時が来たらまた考えればいい。
 役職上、日々のほとんどを白華で過ごしている身分なのだから、定住することにこだわるつもりは毛頭なく、横になって眠れる居場所さえあれば事が足りるという考えは、師範用の私房を与えられていた時と変わらない。
 無論その手に入れた家屋が、恋人や伴侶と過ごす愛の巣になるだろうという目論見は、本来ならばゼロであったはずなのだが。


「…黒龍じゃ、住み込みで修行するのが一般的だからな」
 白華の村へ続く山道を肩を並べてともに進みながら、大人数を抱える白華だからこそ外から通うことが許されるんだな、と、他門派らしい感想を李功は口にした。
 ただ、黒龍拳の場合は三十二門派の中でも少し独特で、人数がそれほど多くないことは勿論だが、暮らしの基盤が鍛錬という一点に絞られている所以ではないかと推測される。
 俗世との隔たりを明確にして、朝から晩まで肉体と技を鍛えることに時間を費やすためだ。
 だからこそ黒龍拳は古来から女人禁制の一派の代表格であり、それゆえ結婚の適齢も平均より少し上なのだと、現在の総帥である李功から聞かされたことがある。
 黒龍とは異なり、修行の場とそうではない生活空間の境があやふやである門派も数多く、それは時代の変化に対応した結果であるというよりも、やはり慣習に近いものであったのかもしれない。
 一つの門派につきひとつの村を持つ西派独自の形態に従って、村人たちとの関係はそれぞれの地域で異なる。
 白華拳が三十二ある西派拳法の中で抜きん出た数の門弟を抱えていることも古くから変わらないことであったので、自分のように宛てがあれば宿舎を出て行く者がいることは特殊な例であるとは言えなかった。
 そして当然、独り身であった者が妻を持てば、おのずと村で暮らすようになった。

「荷物は片付いてるのか?」
 とはいっても、ほとんど私物はなかったようなものだから、心配するには値しないか、とかつて私室を訪れたことのある者らしい解釈が続く。
「持ち出したのは、特注の寝台と本棚くらいだな」
 それ以外はすでに家の中に備え付けられていたものを使用している。
 部屋は台所兼居間と寝室の二つしかないが、風呂が付いているので、独りで暮らすには充分過ぎるほどだ。
 近隣の村では当たり前のことだが、用を足すところは村人たちが共同で使っている。
 水は雨水を利用するか、自分で運んでくるしかないが、電気も少ないながらも一応通っているのでさほど不自由ではない。
 特に電化製品を持っているわけではないので、いっそ、夜は蝋燭一本で過ごしてもいいくらいだ。
「薪も一週間分を一度に運んでしまえば楽だからな」
 体力的にも力仕事というものに関して問題があるわけではないし、家の裏に回れば備蓄できるだけの小さな小屋もある。
 水だけは必要な時に溜めておかなくてはならないが、風呂など滅多に入ることもない。
 ふと、李功が破顔しているのを見咎める。
 いや、と李功は笑みを浮かべた理由を話すことを一旦躊躇ったが、隠す必要もないと思ったのか、続けて明言した。
「ほんとにおまえは、しっかりしてるよな」
 嫌みのない感情で笑いかけられ、ほのかに頬が上気した。


 他愛のない日常的な話題を選んで進んで行くうちに、あっという間に白華の領内に入ってしまった。
 李功と過ごす時間というのはいくらあっても足りるということがない。
 仲の良い兄弟のようだと評されたことは少なくない。
 門派の異なる歳の近いライバルであることは、その力量や素質が拮抗していることを知る誰もが認める事実だが、性格は全くと言っていいほど違うのに、生来気が合っていたのだろうとつくづく実感する。
 体の相性もどうやら好いらしいと評価するのは、さすがに調子が好過ぎるだろう。
 いつの間にかそうなった、と表した方が相応だったかもしれない。
 ぶつけ合うだけだったはずの互いの激しい勁(けい)の力が、重ねた肌を通して調和し、和合しているという実情。
 ひとりであれば決して手に入れられなかった幸運。


「…………………」
 不意に止めた足に気づき、李功が数歩手前で振り返った。
 あと数メートルで、村に続く大門を潜ることのできる距離まで来ている。
 なのに、何かが前へ進むことを躊躇わせた。
「どうした、趙(しょう)」
 訝るほどではなかったが、李功の問いにはっきりとした返答ができなかった。
 明瞭な言葉や形となって見えているわけではなかったが、脳裏に浮かんだのはもやもやというか、鬱々としたイメージ。
 嫌な予感がする、と拳士としての第六感が鈍い警鐘を鳴らしている。
 回避の可否を逡巡するいとますらなく、それが現実となって現れた。
 門をくぐったところで、眼前に飛び込んできたのは。

「……李功さんっ!!!」

 長い黒髪を頭上で束ねた影が、一直線に傍らの友人の胸に白い腕を伸ばしてしがみついた。

◆、その貞操観念

 訪ねた先の他門派の敷地内で。
 頼みがある、と言われ、差し出された上着と呪符の双方を同一の視界に収め。
 普段であれば、教えてやるから自分でやれ、と無下に突き返すところだったが。

「……今回だけだぞ」
 短いため息とともに糸と針を受け取った。
 李功が携えてきたのは、新調したのであろう、真新しい衣服が三着。
 公式用が一着と、それ以外は普段使うものだろう。
「おれとしちゃ目一杯奮発したから、買って早々ぼろぼろにしたくなかったんだよ」
 耳に心地好い声音が奏でるその台詞を聞きながら口元にだけ苦笑を浮かべる。
 四年来の親友の手先が器用ではないのは百も承知していたからこその自然な反応だった。
 正しく表すなら、李功は不器用な人間ではない。
 実戦で見せる集中力は自分と同じくらいであるし、瞬時に精神統一を行った際の気の上昇の幅は、実際白華の最高師範である梁(りょう)と比べても遜色がなかった。
 ただ、こうした実生活に絡むことに関しては有り余る能力を発揮できない、要するに実用的な場面では一般の同性と変わらないくらいのレベルしかないと表すのが適当だろうか。
 黒龍拳の中で暮らしてきたのだから、幼い頃から身の回りのことは自力で何とかしていただろうとは思うのだが、この手の作法には一向に進歩が見られなかった。
 あの厳しそうな。
 現実に至極厳格であったろう歳の離れた実兄からも散々言われたであろうことを、皮肉な表情を浮かべて改めて発した。
「黒龍の若き総帥が、他人に頼り過ぎるのは感心しないな」
「………おまえ以外には頼んでねえよ」
 憮然として李功は言い放った。
「………」
 一瞬きょとんとしたが、相手に下から睨みつけられ、なるほどな、と得心する。
 必要以上に他人を頼っているのではなく、自分を宛てにしてくれていたらしい。

 さすがに、『早くいい嫁さんを貰えよ』などと口にしなかったのは、相手を誰にも渡すつもりがないからだ。


 気の放出を抑える特殊な札を手際良く懐の内側に縫い込んで行く様を眺めながら、李功は感嘆しつつ語りかけてきた。
「…趙(しょう)。おまえ、やっぱり女に持てるだろ…?」
 藪から棒だな、と思いながら、続きがありそうなのでそのまま耳を傾けようかと考えたが、自分にとってはどうでもよい部類の話題だったのでさっさと打ち切ることに決めた。
「そうでもないぞ。…むしろ色恋に気を割いてるような男も女も、西派拳士としちゃ二流以下だな」
 だったらおれは二流以下か、と朗らかに笑みを浮かべながら、李功はその鍛えられた肩を揺らした。
「なんで、持てると思うんだ…?」
 どうしてそんな感想を持ったのかと問う。
 注がれる眼差しが幾分穏やかだったのか、李功は素直に理由を明かした。
「まず一番に、内養功の術が得意だろう?……料理も旨いみてえだし、裁縫の腕も達者で家事も万能の師範なんて、そこら辺の里の中を探してもおまえ以外に見当たらねーよ」
 聞いているうちに気恥かしさを感じ、手元に視線を戻す。
 向こうは気づいていないようだが、好いた本人から惚気を直接聞かされているようで、居た堪れなさを感じたからだ。
「おれは李功の方が持てると思うぞ」
 辛うじて出たのは、前々から感じていた事柄だった。
 そんなことねえよ、と即座に怒ったような口調で否定してきたが、どうやら李功に自覚はなかったらしい。
 おのれが良くも悪くも悪目立ちをする事実を。
「気づかなかったかもしれないが、おまえが白華の村に通い始めた頃、何度もおまえのことを聞かれたんだぞ」
 数年前の武道大会で負った頭部の傷を治療するため、李功が半年もの長い間、白華を訪れていたことがある。
「珍しかったからだろ?」
 事も無げな返答が返る。
 余所の村の人間が物珍しく映っただけだろうとの見解は完全には間違ってはいないだろうが。
「……尋ねてきたのは女性ばかりだったんだ」
 それは異性に対して積極的に興味を持つような不道徳な娘など滅多にいない山村の風景には似つかわしくないものだったと記憶している。
 わずかだが、苦い思いが口の中に蘇ったような気がして目を顰める。
「おまえの気のせいじゃねーのか…?」
「……気の所為じゃない。…おまえはもう少し自覚を持て」
 好色とまでは行かなくても、見目好いというだけで心の食指が動くのは単純に人の性だ。
 男女の区別なく、好もしいと思った者に興味を持つのが生きている人間の当然の心理だからだ。
「そうは言ってもなー」
 おれには心配する要素が見当たらない、と李功は困ったような顔つきでこちらを凝視した。
 綺麗に整った、艶のある双眸でじっと見つめられ、思わず閉口してしまった。
 どうやら本気でそう感じているらしい。
 確かに李功は誰も伴侶として迎えるつもりはないと断言していたが、もしかしてそれだけで自身に浮気の心配はないと捉えているのだろうか。
 自分にそのつもりがなければ、他人がどう思おうとも無関係だとの解釈は、かなり強引だが、生来持っている気の強さゆえに意思が強固である李功らしい発想だと解釈できないこともない。

 言っておくが、と、敢えて語気を強めて忠告を添えた。
「………………おれの前で鼻の下を伸ばしてたら、何をするかわからないからな」
 好意を寄せてくる異性に対して油断をしている姿をもし目にしたら、李功に向かってどんな言動をするのか真実不明であるからこそ。
 自身が存外相手にだけは嫉妬深いということを理解してからは、そのどろどろとした熱情を我慢をしたり隠したりする行為が馬鹿馬鹿しく感じるようになった。

 おまえはとことんおれを舐めてるな、と憤慨したように眼下の李功は声を荒げた。
 さすがに他人に聞かれるのは憚られる内容だったので、事実夜はよくその胸や腹を舐めてるだろ、とは言わずに置いた。


(実は趙以外にもいい(?)男はいる、というのが内心のオチです。つづく…!)

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